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第二話 0

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 夢を、見ていた。

 楽しくない、怖い夢。

 温かくない、悲しい夢。

 目が覚めたときには内容なんてすっかり忘れてしまっているけど、夢のなかの感情だけは覚えていて、それで怖い夢だったとか、悲しい夢だったとか、そんなふうに推測する。

 大抵夢というのは荒唐無稽らしい。

 ばかばかしくて、リアリティがなくて。

 ただ、なぜだかわからないけど怖かったり、悲しかったりする。

 しかもなぜ怖がっているのか、悲しんでいるのかわからないくせに、夢のなかではまったく違和感がない。

 そういう感情があって当たり前というように夢のなかでは感じられるのに、目が覚めてみれば、内容と感情がいまいち一致しないことも多い。

 ――でも。

 その日見ていた夢は、あとから振り返ってみても、とても怖かった。

 夢の内容は単純で、ある日突然、この世界からピアノがなくなってしまう夢だった。

 結局、それは夢だったからよかったけれど。

 もし夢じゃなかったら――そのときは、怖いだけでは済まないかもしれない。

 だってわたしは、ピアノがなくちゃ、だれとも話すことができないから。



  *



 ずっとずっと幼いころ。

 白と黒の鍵盤に、なぜか心を惹かれた。

 押すと音が出て。

 それはたぶん、自分の喉を使うよりもずっと楽な表現方法だと気づいて、自分の身体を使うよりも先に鍵盤を押すようになった。

 お腹が減ったとき。

 どこかへ出かけたいとき。

 眠たくなったとき。

 寂しくなったとき。

 怖くなったとき。

 そういう自分の感情を言葉で表現するのはとても大変なこと。

 どのくらい寂しいのか、なぜ寂しいのか、寂しいからどうしてほしいのか――言葉で表現しようとしたら、それをすべて他人に伝えなければならない。

 でもピアノなら。

 ひとつの鍵盤を押すだけで、その感情が表現できる。

 言葉よりもずっと確実で、ずっと簡単な方法だったから、言葉よりも音で自分の感情を伝えようと思った。

 みんなそうしているものだと思っていた。

 母親が立てる音、父親が立てる音。

 みんなそうやって会話をしているのだと思っていたから、鍵盤を叩いて音を出すことでその輪に入ろうとした。

 でも――それはやっぱり間違いだった。

 表現しているつもりの感情は、相手にはなにも伝わっていなかった。

 どうやらほとんどの人間には音に込められた感情が聞き取れないのだと気づいたのは、ずいぶん成長してからで。

 そのときにはもう、言葉で他人と話すことが苦手になっていて、伝わらないとは思いながら、ピアノを通して自分の感情を表現するしかなかった。

 中央ハ音。

 その一音に込められたものが、どうしてだれにもわからないんだろう。

 反対にいえば、どうしてみんな、「ことば」なんて不確かなもので通じ合えるんだろう。

 それは形を持たなくて、空中で自由自在に姿を変え、相手に届くときには自分の意図したものではなくなっている。

 通常の発声は音楽としての完成度が低いから、相手に到達する前に姿がなくなってしまう。

 それなのに世界中のひとたちは「ことば」で会話をして、通じ合って――だれも音の言葉を聞こうとしない。

 たぶん、音を通して他人の感情がわかるのは世界中にわたしだけで、だから、わたしはだれとも通じ合えないんだと思っていた。

 ピアノの音だけに支えられた孤独な世界。

 冷たくて、寒くて、いやになるのに、出ることができない牢獄。

 わたしは自分がどうして天才や神童と呼ばれるのか理解できなかった。

 ただ音で話そうとしているだけなのに、そんなふうに呼ばれるのはおかしい。

 本当の天才は「ことば」で会話ができるみんなのほうだと思う。わたしには、そんなことはできないから。

 みんなにできないことを天才と呼ぶのなら、天才はみんな孤独になってしまう。

 それは孤独だから天才ということではなくて。

 たぶん本人は孤独をきらって、みんなのなかに溶け込みたいのにそうできなくて、それなのになぜかみんなから尊敬されてしまうひと。

 そういうものを天才と呼ぶのなら、わたしは天才だったのかもしれない。



  *



 皐月町音楽学校へやってきたのは、十二歳の春だった。

 この場所ならだれかと会話できるような気がした。

 音楽のためにだけ生きることを許された、十二歳から二十二歳までの若者。

 だれもが音楽のためだけに生きていたから、そのうちにひとりくらいは音で会話ができるひともいるはずだと思ったのだ。

 でもそれは単なる希望的観測でしかなく。

 わたしはやっぱり孤独で、だれとも通じ合えなかった。

 ――ただひとりだけ、自分に近いと思うひとを見つけた。

 金髪の、とってもきれいな女の子。

 わたしよりもふたつくらい年上で、学科もちがったから会話したことはなかったけど、普通に暮らしているだけでもうわさは聞こえてきた。

 ヴァイオリンに関してはとてつもない才能を持っていて、ただわがままで、周囲とうまく混ざり合うことができないのだとか――そのうわさを聞いてから、余計にわたしはその子が気になった。

 どんな子なんだろう。

 どんな音を奏でているんだろう。

 一度聞いてみたいな、と思っていたのが叶って、校内の合同授業で聞けたのはよかったけど。

 実際に聞いてみると、彼女の奏でている音は、わたしのピアノの音とはぜんぜんちがっていた。

 彼女はヴァイオリンをきゅっと細いあごに挟んで、弓を構えて――まるであたりをにらみつけるように見回してから演奏をはじめる。

 その姿は言いようがないくらいきれいで、相手が女の子だってわかっていながらどきどきしてしまうくらい魅力的だった――けど。

 やっぱり、わたしとはちがう。

 彼女は孤独だったのかもしれない。

 音の世界でひとりきりだったのかもしれない。

 でも彼女はそれに負けないくらい強かった。

 孤独だったからまわりに擦り寄っていこうとしてできなかったわたしとはちがって、彼女は自分が孤独であることを認めた上で、ほかのすべてを拒絶していた。

 だれも触れられない鉄壁の少女。

 その奥から聞こえてくる音楽は息を呑むくらい情熱的で。

 耳の奥にがんがんと打ち当たって、彼女の存在が鳴り響く。

 四本の弦がびりびりとふるえ、弓に張られた馬の尾が弾くそばからちぎれて、髪の毛のように舞い踊った。

 たった一挺のヴァイオリンから出ているとは信じられないくらいの強い音。

 弱音が響かないわけではなく、音そのものに圧力があり、存在感がある。

 それは――声ではないもので、自分はここにいるんだと彼女が叫んでいるようだった。

 その音を聞いて、圧倒されない人間はいないと思う。

 それくらい彼女の演奏は情熱的で、彼女の弓が下がったあとも、部屋にはずっと彼女の作り出した音が反響しているようだった。

 たぶん、彼女にとって音楽は、自分の存在を証明するもの。

 音が鳴り続けているかぎり、彼女の存在は消えない。

 だれも無視できない大きな存在としての彼女があり続けられる。

 そのために彼女は、だれよりも激しく、だれよりも大きく音を鳴らしている。

 ――わたしはたぶん、そうじゃない。

 わたしという存在をだれかに知らせたいわけじゃなくて。

 ただ、音を通して他愛もない会話をしたいだけ。

 無理やりにでも自分のことを認めさせてやるというような、彼女くらい強い音も出せないし、たぶんその意志もないから。

 ピアノの鍵盤をぽつぽつと叩いて、コップからこぼれ落ちるようないくつかの音に感情を込めることしかできなかった。

 きっと彼女はわたしの言葉に気づいてはくれない。

 彼女は他人のことに気づくのではなく、圧倒する側だから。

 あり方は近いけど、本質がちがう。

 同じ孤独でも、彼女は孤高で、わたしはだれにも気づいてもらえないだけ。

 いちばん近い彼女でさえそうなんだから、この先もきっと音で会話できるようなひととは出会えないだろうと思っていた――あの日までは。

 あの日。

 六月の、なんの記念日でもないあの日に。

 彼の歌声を聞くまでは。


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