第一話 9
9
ユリア・ベルドフの両親は、幼いユリアに子ども用のヴァイオリンを与えたことを後悔していた。
それまでのユリアはおとなしい子どもだった。
何事にも消極的で、自己表現が苦手な子ども――だれかといっしょに遊ぶより、自分の部屋でぬいぐるみを相手にままごとをしていることを好むような性格だった。
当然、幼稚園に通うようになっても友だちはできない。
幼稚園ではほとんどしゃべらず、ずっとなにかを警戒するようにあたりを見回している子どもで、だれかに質問をされてもなにも答えずに逃げ出すことさえあった。
いまはとにかく、将来的にそのままでは問題があるということになって、ユリアの両親は様々手を尽くしてユリアが自分を表現できる手段を見つけようとして――最後にたどり着いたのが、その楽器だった。
子ども用の、おもちゃのような楽器。
ぬいぐるみにしか興味を示さなかったユリアが、はじめてぬいぐるみの手を離して掴んだもの。
――それからユリアは、ぬいぐるみの代わりにその楽器とばかり遊ぶようになった。
音で自らを表現し、それを通して他人とも関われるようになって――両親としては、その時点で楽器はお役御免だったのだが、ユリアはもう決してその楽器を離そうとしなかった。
それでも両親はまだすこし状況を甘く見ていた。
成長すればもっと楽しみが増えるだろうし、音楽もひとつの趣味と考えれば決して悪いものではない、と。
実際、音楽は人格形成に悪影響を与えるようなものではないが――ただユリアの熱中は度を過ぎていて、ヴァイオリンのためなら平気で学校もサボったし、勉強もしなかった。
ヴァイオリンを優先するあまり、他人との関わりさえ絶とうとした。
そこまできてようやく、これはまずい、ということになって――ユリアが十三歳の夏。
「音楽のようなものは、社会に出てもなんの役にも立たない。たしかにプロの音楽家というものもいるが、そんなものは音楽をやっている人間のなかでもほんの一握りで、大抵はプロにもなれず諦めるし、プロになっても生活できるだけのお金を稼ぐことはむずかしい。それならいまのうちからちゃんと勉強をして、将来に備えておきなさい。友だちを作り、人間関係を学ぶことも大事だよ。音楽は、またいつでもできる。しばらく音楽から離れて生活してみるほうがいい」
そう切り出した父親を、ユリアはすぐに見限った。
父親の言うことは正しいのかもしれない。
一般的には、そうすべきなのかもしれない。
しかしユリアにとってそれは、父親が自分を殺そうとしているのだと思うくらい、強い敵意をふくんだ言葉だった。
――もともとユリアの両親は音楽とはなんの関係もない仕事をしていた。
彼らは音楽が理解できない、かわいそうなひとたちだ――ユリアはそう思うようになり、両親と会話することをやめ、代わりに近所でアルバイトをはじめた。
家のすぐ近所のレストランで、本当に子どもの手伝いのようなアルバイトだったが、一年間続けてお金を貯め、両親にはなんの相談もせず、ユリアは日本へと飛び立った。
――皐月町音楽学校。
そこは、音楽のためだけに生きている場所だと聞いたことがあった。
両親を、国を離れることに不安はなかった。
ただ音楽のため、自分自身のためにそうすべきだと確信していたが――思えば、その日から。
ユリアは仲間も支えてくれる人間もなく、ひとりで生きることを決めたのだった。
*
ほんの短い期間だけカルテットを組んだクラスメイト、赤城玲香から呼び出されたとき、ユリアはほんのすこしいやな気分にはなったものの、おとなしく従うことにした。
場所がもし校舎裏なら、それこそなにか武器になるようなものでも持っていこうかと考えるところだが、校舎のなかだと聞いて、ひとまずそういう話ではないらしいと理解する。
ユリアは、玲香に悪いことをしたとは思わない。
当然言うべきことを言っただけで、不当に文句をつけたわけではない。
ただ、それで恨まれるのであれば仕方ないとも思う。
結局のところ、根本的にうまくいかないということで――合わない人間に合わせようとする努力は無駄なのだから、嫌われたのなら顔を合わせないようにすればいいだけのこと。
突き詰めてしまえば。
そんなことは、音楽にはなんの関係もないのだから、どうだってよかった。
「――あのさ」
放課後の、あちこちから音楽や話し声が聞こえてくる騒がしい校舎のなかを進みながら、玲香がぽつりと口を開く。
「もうすぐ、試験だけど」
「そうね」
「カルテット、組まないの?」
「組まないわ」
はっきりと言いきる。
「組んでも意味ないってわかったから」
「――そう」
「あなたは? ほかのだれかと組めば、まだ間に合うんじゃない」
「うちの科はほとんど全員所属が決まってるから、相手を見つけるのも大変よ。でも――わたしはまた組むと思う。試験も受けないわけにはいかないし」
「そうね――それで、どこへ連れて行かれるのかしら」
「もうすぐよ。一回の教室。あなたをカルテットに誘いたいって子がいるみたい」
ユリアはぴたりと立ち止まった。
「――悪いけど、断っておいてくれない? あたし、もうカルテットを組む気なんてないから」
「まあ、聞くだけ聞いてみてよ」
玲香はまるで逃さないというように、ユリアの手をそっと掴んだ。
「それで気に入らなかったら断ればいいじゃない。なんなら、わたしから断ってもいいし。とにかく一度、聞いてみるだけ聞いてみたら」
玲香がそこまで言うのも意外な気がした。
そもそも、意外というなら。
あの日、けんかをして以来口も聞いていなかった玲香が、他人のためにユリアに話しかけてきたということからして意外だった。
なにか裏がありそうだ、とユリアは思い、ヴァイオリンを置いてきてよかったと考える。
――なにかあっても、ヴァイオリンが無事なら。
自分の身体も心も傷ついていないようなものだから。
「その、カルテットに誘ってるのって、うちの科のだれか?」
「ちがうよ。そしたらわたしもこんなことしない。自分で誘えって言うわ。たしか、声楽科だったかな――見たことない子だったけど」
「男?」
「そう」
「いよいよ興味ないけど」
「あれ、女のほうが好きなの?」
玲香はユリアの手を掴んだままちょっと振り返り、いたずらっぽく笑った。
ユリアはふんと鼻を鳴らす。
「男も女も興味ないわ」
「音楽以外のことにはなんの興味もないのね」
なにも答えない。
ふたりはぎしぎしと軋む階段を下りていく。
一階に着き、廊下を曲がった。
廊下沿いにずらりと扉が並んでいて、そのうちのほとんどはしっかりと閉まっていたが、突き当り近くの部屋の扉だけが開いていた。
このあたりにはだれもいないのか、比較的静かななかを、ふたり分の足音だけが響く。
――と。
だれかの歌声が、どこかから明るく響いた。
強いソ。
独立した一音のあと、ほかにふたつの音が加わって、音楽となる。
「――モーツァルト」
弦楽四重奏曲、ハイドン・セット。
その有名な一番が、聞いたこともない音色で響く。
ひとつは人間の声。
もうひとつはピアノ。
もうひとつは、おそらくコントラバス。
本来、ヴァイオリン二挺とヴィオラ、チェロで演奏されるものだが、バスがチェロのオクターブ下を奏で、ピアノがヴィオラの中音をカバーして、ぱっと明るい人間の声が第一ヴァイオリンの旋律をたどっていた。
玲香とユリアの足が同時に止まる。
廊下の突き当りに近い部屋から聞こえてくることはわかっていたが、それ以上進むことができなかった――無粋な足音で、その音楽を穢してしまわないために。
はじめは各パートを別の楽器で演奏しているだけのようにも聞こえたが、そうでないことはすぐにわかる。
旋律が、ハイドン・セットから離れていく。
頭に浮かぶ譜面と聞こえてくる音の差異がぐんぐんと広がり、最後には譜面とはまったくちがう曲になる。
モーツァルトが書いたものより、ずっと明るく朗らかなメロディ。
その分深さや重たさはないが、子どもが笑い合うような飛び跳ねる音の羅列は『春』と呼ばれる曲にはふさわしかった。
メロディは自由奔放だった。
上がっては下がり、中音域で戯れ、気まぐれに飛び上がる。
それを導いているのは、間違いなく第一ヴァイオリンの旋律を担当する人間の声だった。
――器楽は声楽の旋律を完全に再現することができるが、声楽は器楽の旋律を再現することはできない。
両者の決定的なちがいは呼吸の有無で、声楽である以上、永遠に音を伸ばし続けることはできない。
メロディのなかでも必ず呼吸のタイミング、つまり音が出ない瞬間が必要だったから、はじめから第一ヴァイオリンパートを完全に再現することは不可能なのだが、それにしてもその声は自由気ままにもとの旋律から離れすぎていた。
その自由さに、玲香も思わず笑っている。
しかしそれは、自分の声を最大限自由に操り、低音から高音まで自在に飛び回っているということでもある。
なのに。
音量や響きが、まるで変わらない。
低音では深く腹から響かせるような、高音では頭の先から抜けていくような声になるはずなのに、その声はいつでもしっかりと喉から声が出ていて、下がるときも上がるときも無理せず軽々と移動していく。
声楽的に言えば、発声はなっていないし、喉の使い方も悪いにちがいないが――その形から外れたところに美しさがあった。
一言でいえば。
とてつもなく魅力的な声だった。
しかしその声を支えている器楽もまた、魅力的な音を奏でている。
とくにピアノ。
自由自在に、まわりのことなど気にせずに跳ね回っているような声に合わせ、同じように跳ねまわっているふうに聞こえるが、本当はしっかりと声を支え、和音を作り、独立した音と音を繋げている。
明らかに楽譜どおりではない即興演奏――しかも複数人による即興演奏なのに、はじめから打ち合わせがあり、細かく演奏記号が書き込まれた譜面で演奏しているように美しい和音が生まれるのは、このピアノのおかげだった。
いちばん底で支えているバスも、それによく食らいついている。
連続するスタッカート。
演奏速度がぐんと上がる。
いちばんむずかしいはずの声が、ほかのふたつの手を引いてぐんぐんと駆け上がっていく。
ユリアはそのなかに、響いていないはずのヴァイオリンを聞き取った。
それは――もし自分がそのなかにいたらどんな音を鳴らすか、という想像のカルテットが鳴らす音楽だった。
あんなに自由に動き回る声。
未来がわかっているかのようにぴたりとついていくピアノ。
慌てながら追いかけていくバス。
そこにもし、自分のヴァイオリンが加わったら。
ユリアはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
そうだ――これがきっと、四重奏のあるべき姿にちがいない。
制約もなく、だれがだれに合わせるのでもなく。
楽しそうだという、その曖昧な感覚を共有し、四人そろって同じ方向で進んでいくということ。
そしてまったくの偶然、別々に奏でられた四つの音がひとつの流れを作った瞬間の興奮。
――ユリアは、不覚にも。
楽しそうだな、と、弾いている三人がうらやましくなった。
駆け上がった声に合わせ、ピアノが強さを増し、同じ旋律が繰り返される。
三度目の繰り返しで最高潮に盛り上がり、そこで終わる――というとき。
ひとりだけその終焉に気づいていないように、ピアノとバスは止んだのに、声だけがまだ歌い続けていた。
ほかの音が止んだことに気づいて慌てて口をつぐむが、あまりに遅すぎる。
部屋からはけらけらと明るい笑い声が聞こえてきた。
――あんなふうに音楽を作っていたら、失敗もたしかに笑えてしまうだろう。
それは孤独な音楽ではなかった。
美しい音楽ですらなかった。
ごくありきたりの、雑音に限りなく近いような、魅力のない音楽――でも。
無条件に楽しそうだと思ってしまうような音楽。
演奏している人間が心から楽しんでいるのがわかる。
それは言葉よりもずっと顕著に伝わって、ユリアの心を誘っていた。
ちいさな部屋のなかにいるユリアの手を引いて、外へ行こう、いっしょに遊ぼうというように――。
「――あの子、あんな声してたんだ」
玲香がぽつりと呟いた。
それから思い出したようにユリアの手を離し、くるりと踵を返す。
「わたしはただあなたを案内するだけだから、ここまでね。カルテットの誘いを受けるかどうかはあなたが決めて。断っても、たぶんあんな音楽をするくらいだから、あなたを恨んだりはしないでしょ」
玲香は歩いてきた廊下を戻っていく。
ユリアはその背中に言った。
「――もし、あたしがもう一回あなたを誘ったら、どうする?」
玲香は振り返り、笑う。
「断るわ。でも、あなたがきらいだからじゃない――たぶん、あなたからしてみればわたしを誘ったのはただの偶然っていうか、席が近いっていうだけだったんだろうけど、わたしはずっとあなたに憧れてたの。あんなふうにヴァイオリンが弾けたらって。でもいっしょにやってみてわかった――わたしじゃあなたは支えられない。たぶん、ただの足手まといでしかないから。だから、もう二度とあなたとはいっしょにやらない。自分で自分にいらいらするのはもうたくさん」
玲香は手を振りながら廊下を遠ざかっていった。
――さようなら。
それに。
「ありがと」
呟いたユリアが部屋のほうを振り返ると。
「――はっ」
部屋の入り口から、見たことのある顔がこっそりと覗いていた。
ユリアと目が合うとすぐに引っ込んだが、またそろそろと出てきて、ユリアを窺う。
ユリアはふんと鼻を鳴らし、踵を返した。
――素直じゃないな、と自分でも苦笑いしたくなる。
でも、素直になるというのは、それほど簡単なことではない。
ある程度の時間と――タイミングというものも大事だ。
自分から部屋に入っていって、あたしも仲間に入れて、なんて、夢のなかでも言えそうになかった。
だからユリアはその場を立ち去って。
結局、自分からは一度も会いにはいかなかった。
――自分からは。




