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第一話 0

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 相変わらず、博物館のような学長室だった。

 壁にはいくつもの楽器が飾られ、とくに取り扱いに注意が必要なものは壁際のガラスケースに入れられている。

 古から、たくさんの音を紡いできたものたち。

 いまでも手に取れば自由自在に音を奏でることができる魔法の道具。

 部屋には古い木の匂いが充満していて、代々の学長の写真の代わりに古今東西の音楽家が天井近くから見守っている。

 ヴィヴァルディにモーツァルト、最近ではシェスタコーヴィチまで。

 どれもみんな、音というもの、音楽というものに一生を捧げた音楽家ばかりだ。

 ――そんななかに埋もれるようにして学長は笑っていた。


「お帰りなさい、若草くん」


 なんの連絡もなく五年ぶりに帰ってきたわたしに、学長はまるで自然に言った。


「大きくなりましたね。いやあ、見違えるほどです」

「そうですか? 二十歳から二十五歳までのあいだで、それほど成長はしていないと思いますけど」

「いやいや、そんなことはありませんよ。外見はもちろん、内面もしっかり磨かれているようです。しかし――」


 言葉を切って、学長は茶目っ気たっぷりにウインクをした。


「すこし磨きすぎて、いろいろなものが見えなくなっているようですね」


 その一言で、ああやっぱりこのひとはすごい、と飲み込まれてしまう。

 音楽にしか興味がないような音楽ばかのおじいさんに見えて、本当はちゃんとした教育者なのだ。


「大丈夫です、焦ることはありませんよ、若草くん」


 小柄な学長は、その身体に合わせたちいさな椅子のなかからにこにことわたしを見上げる。


「人生は、まだまだ長い。ぼくなんてね、もう自分がいくつなのかも忘れてしまいました。それでも音楽の命に比べればまだまだ赤ん坊のようなものです。人生は長い――そして音楽は永遠に続いていく。焦らず、ゆっくりと自分の心を見つめてみるのもいいでしょう。音楽は気長ですから、きみが再び向き合うときまでちゃんと待ってくれますよ」

「――はい」


 不覚にも。

 泣きそうになって、わたしは視線を逸らした。

 人前では泣きたくなかったし、簡単に泣くような女だと思われたくもない。

 でも学長はわたしの気持ちまで見透かしたように笑っていた。いけ好かない年寄りめ、と思いながら、感謝する。


「きみの部屋は、五年前のまま置いてあります。定期的に掃除はしてあるはずですが、もし居心地が悪いならほかの空き部屋に移ってもかまいませんよ。ああ、それから――きみの身分ですが、きみも知っているとおり、この学校は二十二歳までしか在籍できません。なので、きみの身分はこの学校の教員ということになります。かまいませんか?」

「はい――ありがとうございます、学長」

「どういたしまして」


 年寄りになると、恥ずかしいということもないらしい。

 学長はうれしそうに笑い、あっとなにかを思い出したように手を打つ。


「そうでした、これから出かけなければならないんでした。すみませんね、大した話を聞く時間もなくて」

「いえ、わたしこそ、なんの連絡もなく突然帰ってきて、すみませんでした」

「そんなことはいいんですよ――ああ、そうだ、若草くん」


 部屋を出ようとしたわたしを、学長は呼び止める。

 振り返ると学長はまだにこにこと笑っている。ひとのよさそうな笑みは、ときどきなんだか悪いことを企んでいるようにも見える。

 いやな予感はあった。

 学生時代のわたしなら無視してさっさと学長室を出たにちがいない。

 でも、五年間の失踪と五年目の帰還に申し訳ない気持ちもあったし、もう大人なのだからという自覚も手伝って、学長の話を聞くことにする。


「なんでしょう、学長?」

「ひとつ、頼まれごとをしてくれませんか?」

「頼まれごと?」


 ――いやな予感。


「帰ってきてすぐで悪いんですが、実は今日、ある工房に楽器を受け取りにいくという約束をしていたんです。でも急にどうしても外せない用事が入ってしまって――できれば、ちょっと行って、受け取ってきてくれませんか?」

「……お使い、ですか?」

「まあ、そういうことです」


 あくまでにこにこと。

 むう、やっぱり、このひとは苦手だ。


「わかりました。なにを受け取ってくれば?」

「ヴァイオリンです。古いヴァイオリンなのですが、使えるように修復してもらっていたのです。地図を描きますから、ちょっとまってくださいね」


 さらさらと地図を描いて、学園長はちいさな手紙を添えて封筒に入れた。どうやら三つほどとなりの町にある工房らしい。


「では、気をつけて行ってらっしゃい」


 手を振る学長に見送られ、わたしは部屋を出た。

 廊下に置いておいたスーツケースをがらがらと運びながら、あたりを見回す。――いや、目を閉じる。

 あたりを探るのは目ではなく耳だ。

 ――廊下の先の部屋から、ピアノの音が聞こえてくる。

 ひとつではなく、ふたつ、三つ――全部で四台のピアノが同時に同じ曲を弾いていた。

 一糸乱れぬテンポは見事で、それ以上にうまく音が混ざるように調律されているのが心地いい。

 でも不意に、ひとりが叩く鍵盤を間違える。

 その初歩的なミスにほかの三台が揃って「残念でした」とからかうような音を響かせ、何人かの笑う。

 ――後ろからはヴァイオリンの音。

 年少クラスなのか、まだおぼつかない、おっかなびっくりのカイザー。ふるえる指先まで目に浮かぶ。

 まるで綱渡りで、いつ足を踏み外してしまうかとどきどきしながら一歩一歩確実に進んで――最後の一音を出すとき、いちばん軽やかないい音が出る。

 また、開け放たれた窓からは声楽家の伸びやかな声。

 ――この学校は音にあふれている。

 まあ、音楽学校なのだから当たり前といえば当たり前のことで――その当たり前がいやになった五年前、わたしはこの学校を逃げ出して、いまだに当たり前が好きかどうかもわからない五年後のいま、わたしはこの学校に戻ってきた。

 再び、音楽と向き合うために。



  *



 工房は木造の建物の二階にあって、一階は音楽関連のショップになっていた。


「やっぱり、木ってのは生きてるからね、コンクリートとは風のとおりもちがうし、湿気もちがう。やっぱり生きたもんを扱うにはこういう場所でなきゃだめなんだよ」


 二階への階段を上がりながら、黒いエプロンをつけた店主は自慢げに言った。

 二階へ上がったとたん、強い木の匂いを感じる。

 すこし薄暗い工房のなか――壁にはまだ完成していないヴァイオリンやヴィオラの枠組みが引っ掛けられ、乾燥させられている。

 床には木くずが散らばって、作業台に向かってふたりの職人が制作を続けていた。

 店主はのそのそと奥へ進み、わたしは階段を上がったところで待つ。

 ――ここもまた、音楽の場所だ。

 音楽は鳴っていない。

 聞こえてくるのは木を曲げるときのぎしぎしと軋む音とか、道具を置くときの物音とか。

 ドやシがたくさんあふれていても、それは音楽ではない。

 音楽というのは意志をもって音の列を作り上げることを言うのだから、自然にあるものはすべて、音楽ではないのだ。

 でも、ここは間違いなく音楽を生み出す。

 楽器という、音を奏でる以外になんの使い道もない道具を制作することで、世界に音楽を提供している。

 だから――笑みひとつないまじめな表情をしていても、職人たちはどこかうれしそうに見えるのだろう。

 わたしには、彼らの気持ちはすこしわからなかった。

 わたしは音楽家ではなかった。

 これまでのそうだったし、たぶんこれからも音楽家になることはない。

 音楽を生み出す楽しさを感じることは一生ないだろう。

 ――彼らのことがすこし羨ましい。

 自分なりの方法で音楽との接点を見つけている彼らは、わたしよりずっと「音楽家」だった。


「預かってた楽器はこれだよ」


 店主は黒いケースと、深い色合いのヴァイオリンを持って戻ってきた。

 ヴァイオリンのほうは一目で古いものだとわかる。

 使い込まれた木の質感。

 ただそこにあるだけで、どんな音が鳴るんだろうとわくわくするような感覚。


「とりあえず壊れてた魂柱を新しくして、あとはまあメンテナンス程度の修復をしてある。しかし、古いもんだからね、なかなか以前のとおりの音とはいかないかもしれないけど――すこし弾いてみるかい?」


 店主は何気なくわたしにヴァイオリンを渡した。

 とりあえず受け取ったはいいものの、わたしにはどうすることもできない。

 ただその、舞台上で見るととてつもない強さを持ったものに見える楽器は、手のなかにあるととても軽く、ちいさく見えた。


「たぶん、大丈夫だと思います」


 わたしは弾かないまま、店主に返す。

 ――正確には、弾けないまま。


「ありがとうございました。またなにかあったらお願いします」

「修復ならいつでもどうぞ。学長さんにもよろしく」

「はい。失礼いたします」


 頭を下げ、ヴァイオリンのケースをぶら下げて階段を下りる。

 店を出ようとすると、ちょうど同じようにケースを持った学生が二、三人、店に入ってくるところだった。

 店の真ん中ですれ違う。

 若いきらきらとした瞳は、いまのわたしには眩しすぎた――ほんのすこし、憎らしく思うくらい。


「すみませーん、ヴァイオリンの弦の張替えをお願いしたいんですけどー」

「お、いらっしゃい――」


 そんなやり取りを背中で聞いて、店を出た。

 外は青空。

 梅雨時のわずかな晴れ間は、なんだか空に宝石を散らしたように見える。

 もしその光の一粒一粒が音なら――と考えかけて、慌ててやめた。


「――もう、音楽のことを考えるのはやめるって決めたんだから」


 タクシーで学校まで戻ってもいいとは言われていたが、わたしはまだもうすこし歩いていたくて、バス停を目指す。

 なんの変哲もない町だ。

 日本にいたときは、日本の町はどうしてこう退屈なんだろうと不思議だったが、外国をいろいろ巡ってみると、どこの国も同じだとわかる。

 日本とヨーロッパではもちろん町並みはちがうが、ヨーロッパのなかならさほど変わりはない――なだらかな丘が続く野原にある田舎町にも車はあるし、ビルだってある。

 本当に牧歌的な風景は人工的に作り上げないかぎり、もう存在はしない。

 でも、わたしはありふれた町並みそのものはきらいではなかった。

 町には様々な音があふれていて、それはしばらくのあいだ、音楽をまったく消し去ってくれるから。

 だれかの足音、話し声。車のエンジン音やタイヤの摩擦音。盲人用信号の合図、ガソリンスタンドから聞こえてくるラジオ。

 ――多少なりとも音楽に憑かれた人間は、なにもない空間にも音楽を聞く。

 だから、いっそなんの意味もない音がごちゃごちゃと混ざり合った場所のほうが静かにいられるときがある。

 そうでなくても町中は常に音の嵐だ。

 よく音楽学校を騒がしいと感じるひとがいるが、それはそのひとの耳が無意識のうちに「音楽」を感じ取っているという意味でもある。

 町中にあふれる音楽でもない音はすでに慣れてしまって認識しないのに、それが意志を持った「音楽」になるとたちまち耳と意識が反応してしまい、それに集中してしまう。

 その音楽がふたつ以上重なると、大抵のひとは混乱してしまう。

 意味のある雑音ほど耳障りなものはない。


「――ああ、そっか」


 ふと、気づいた。

 音楽は聞く人間の心に、強引に割り込んでくる。

 それを無視することはなかなかむずかしい。

 だから心が乱れている人間は、これ以上乱されないように音楽から心を閉ざそうとするのだ。

 音楽はやさしくない。

 乱暴で、自分勝手だ。

 それと付き合うことが楽しいと思うときもあれば、自分を優先したくなるときもある――わたしはきっと五年前からそんな心境なんだ。

 バス停までは、もうほんのすこしの距離しかなかった。

 後ろから重々しいエンジン音が聞こえてくる――乗用車とはちがう、巨人が力を振り絞るような音。

 歩くわたしを追い抜いて、緑色のバスがバス停へすべり込んだ。

 走ればきっと間に合うだろう。

 ヒールではあったけれど、走れない距離ではない――そう思って一歩踏み出した瞬間。

 ――なにかが、耳の奥に触れた。

 細い針で心をちくりと刺されたような感覚。

 思わず立ち止まる。

 バスは、わたしには気づかず、動き出してしまった。

 わたしももうバスは見ていない。

 意識はどこかから聞こえてくる音楽に奪われていた。

 音楽――いや、声そのもの。

 風に乗って、ほんのかすかに聞こえてくる人間の声。

 あたりを見回すと、道を挟んだ向こう側に、日本では珍しい教会があった。

 一軒家をすこし大きくしたくらいの、教会としては小規模の建物だったが、その入り口に人だかりができている。

 立っているのは、大抵六十歳をすぎたような年の人間だった。

 わたしは道を渡り、教会に近づく。

 入り口の扉はうすく開けられ、そこから声が漏れ聞こえていた。

 ――この声は。

 十人前後の聖歌隊。

 人だかりをかき分け、扉をすり抜ける。

 なかも超満員だった。

 祭壇まで続く中央の道を除き、壁際や椅子はすべてひとで埋まっている。

 狭い教会だが、百人くらいは入っているのかもしれない。

 教会は天井も低く、ヨーロッパの伝統的な教会にあるような、音が頭上から降ってくるように計算された建築でもない――なのに、その声は圧倒的に迫ってくる。

 全部で十二人いる聖歌隊は、教会の右端に一列になって並んでいた。

 みんな男で、年は十代前半から後半まで。

 おそらくきっちりとした音楽的教育を受けた子どもたちではなく、発音も曖昧で、発声に至っては見よう見まね、まったく本質的ではない。

 本人たちもそれは自覚しているらしく、みんなどこか消極的で、声もあまり出てはいなかった。

 ――お世辞にも、うまいとはいえない。

 聖歌隊として見るなら及第点には遠く及ばない。

 音楽を知らない、単なるキリスト教徒にとってもあまり意味のない聖歌隊にちがいない。

 しかしちいさなオルガンを伴奏に歌う彼らの声を聞くため、教会の外まであふれるような人数が集まっていた。

 より具体的に言うなら――十二人のうちの、たったひとりの声を聞くために、だろう。


「――なんて、声」


 消極的な十一人の声に負けない、たったひとりの声。

 それは彼の口からぽんと気楽な様子で飛び出し、明るく、やさしく、教会内を響き渡る。

 いわゆる声楽的な朗々とした声ではない。

 声の響きはよく揺れ、細かくふるえて、わたしが声楽の教師ならもっと横隔膜を使えと怒るようなところだけれど――その細かく揺れてふるえる声の、なんて美しくやさしいこと。

 低音から高音まで一定した音量で、それでいて安定しない、楽器としてよりも人間の声として存在しているような声だった。

 高音はファルセットを使って簡単に駆け上がる。

 地声で響かせるよりも細く、やさしく繊細な声色――まるで、そう。

 真の意味では絶滅したといわれる、ベルカントのような。

 声を張り上げるのではなく、しゃべるように気楽に、高い場所も低い場所も自由自在に舞い踊るやさしい声。

 弱々しい周囲の歌声を励ますような活き活きとした声は――なんてきれいなんだろう。

 わたしはその声に見惚れてしまう。

 技術的には未熟としか言いようがないその声に心が揺れてしまう。

 くだらない言い方が許されるなら――それは。

 まるで、天使の歌声だった。

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