第76話 漆原の記憶(葵視点)
わたしの転校が決まったのは、突然というわけではなかった。
突然、ではなくて、じわじわと。
けれど、確実にその日は近づいていた。
母の病気の進行とともに、わたしは小さな田舎町から、都会に出てくることになったのだ。
母の病気は命に関わるもので、すでに死に直結している状態なのだった。
けれど、もしかしたら――という一縷の望みにかけて、わたしの父は仕事を変えてまで、引越しを決めた。
わたしももちろん、賛成だった。
お母さんが死ぬなんて、耐えられない。
友達だとか、思い出だとか、そんなものはどうでもよかった。
母の命が救われるなら、わたしはそれで良かったのだ。
専門病院での受け入れが整ったのは、中学二年の終わりのころだ。
とても中途半端な転校時期だったけど、やっぱりそんなことはどうでも良かった。
自分の心のキャパシティに限界がくることなんて、わかりきっていたのに、わたしは見ないふりをした。
◇
クラスメイトが二人、わたしの言葉に首を振った。
「ここが都会ってこと? ありえないわー」
「だよねー。遠くに山見えるとか、ほんと田舎」
「そ、そうなんだ……わたしからみたら都会だったんだけど……」
新しい友達。
新しい学校。
わたしは中学生二年の後半で、あたらしい町に越してきた。
「だいたい漆原さんって、そんな田舎に住んでたわけ?」
「あ、うん……」
「ここより田舎ってやばくない? コンビニあんの?」
「一軒あったよ」
「数えられるとか、それやばくね」
周りに悪意のない笑いが起こる。
決して、わたしをバカにしているわけではないだろう。
バカにしているとすれば、わたしが住んでいた田舎町。
別にそれはどうということはない。
日常だ。
あくまでこれは中学生に用意された日常なのだろう。
でも、わたしは、戸惑ってしまう。
『日常』はわたしにとって人ごとだった。
母親が病気になって、父がやつれはじめて、専門治療ができる大きな病院がある町へ引っ越しすることになって――どうしたことだろうか。
死に近づく母の時間とともに、まるでわたしの人生も色が消えていくようだった。
母のことは大好きだ。
大好きすぎて、病気だということを忘れたいくらいだ。
だけど忘れることなんてできず、それどころか、その色のない世界は、わたしの心の余裕を全て奪っていった。
ぼうっとしていると、女子グループの一人が、わたしの肩をぽんと叩いた。
「ねえ、聞いてんの?」
「え、あ、うん。なんだっけ……?」
「うわー、もしかして漆原さんって、天然?」
「ど、どうだろう」
「いや、天然は自分が天然って知らねーから」
たしかに!、とまた笑いが起こる。
わたしは『日常』に置いて行かれないように、必死に笑顔を浮かべた。
日常を手放してはいけない。
だって、その日常の中には、母との何気ない時間が含まれているのだ。
病気になって、死んでしまう母親が含まれる『非日常』に飲み込まれてはいけない。そちらを日常に感じてしまったら、わたしは悲しみに押しつぶされてしまう。
だから――わたしは、人ごとのような日常と、どうしても襲いかかってくる非日常の間の中で、ゆらゆらと、つかみどころのない雲のように、いきているだけだった。
もちろん、そんな状態で友達づきあいがうまくいくわけがないことなど、わかりきっていたけれど。
◇
雲行きが怪しくなってきたのは、わたしに余裕がなくなってきたことに無関係とはいえないだろう。
むしろ、それが全てなのかもしれない。
夏休みの間、わたしはなるべくお母さんの傍にいたかった。
けれど、中学生の「日常」に遊ぶことは必然のようだった。
わたしは日々、友達に誘われていた。
「葵。遊びにいってくればいいのに……」
「わたしはいいの。ここにいたいから」
数回目の治療の入院中。
病室で辛そうにお母さんがわたしを送り出そうとする。
それを無視し、友達には適当な理由をつける。
学校にいるときは良かった。
断ることも最初は良かった。
でも毎日誘われてくると、わたしの断り方も雑になる。
たまに自分の立場を『日常側』へと連れていっても、どこか上の空。
女子グループの目の色が変わるのに、時間は必要なかった。
『あたしたちをバカにしてる』
そんなことを思われているんだろうと思う。
わたしは人の気持ちに過敏なのだろうか? だから母の死にも恐れがあるのだろうか?
わからない。
わたしは、ただひたすらぼうっと、日常と非日常の間を揺れるしかない。
中学生らしい日常と。
母の死をまつ非日常の。
間にはさまれて、ふわふわといきている。
誰と話しているときでも、ストレスを感じて。
そのストレスは、形はなくて。
学校にいけば日常があるのに。
非日常の母の死は、教室中に黒い霧となって漂っている。
周りが言うように、天然系キャラになれれば、わたしはどんなに楽なんだろうか。
神経質なわたしが、ただただ余裕がないから。
ああ。
あああ。
ああああ――叫びながら、誰もいない夜の世界を走りたい。
わたしは、べつに、人と仲良くしたいわけじゃない。
ただそこに……日常にしがみついていないと、非日常の黒い霧にすべてを飲み込まれてしまうから。
わたしはわたしに訴えかける。
平気だよ、葵はどこにでもいるような中学生だよ。だれがみても普通の生活をしているよ。だからお母さんのことだって、それはふつーのことで――嘘つき。わたしの、嘘つき。
わたしは、もう、限界のようだった。
毎日は、白黒になっていく。
母の死に対する恐怖が日常的になっていく。
人の会話がどうでもよくなっていく。
おいしいクレープ屋?
え? それでお母さん助かるんだっけ?
わたし、なんで笑ってるんだろ。
いま、なんて言われたっけ?
わたしは、どう、動けば、日常にしがみつけるのだろう?
日常はどこ?
わたしの日常。
お母さんが笑う日常を過ごすわたしは、どんな行動をするんだろう?
わからない。わからない。わからない。わから――そのときだ。
「おい、漆原。先生が資料室の手伝いを探してたぞ」
「……え?」
「手伝えるやついないか、って聞かれたから、漆原を推薦しておいた」
「え、あ、うん……あの、でもそれ――」
「――早く行ってくれ。別に誰でもいいみたいだから、気楽にやれよな」
「あ、はい……」
思考停止のわたしに、意味のわからない指示。
でも考えなくてもわたしの行動が保証される指示。
非日常に思考のキャパシティを奪われているわたしが、従っておけば日常に繋ぎ止めてもらえる――なんてことのない行動。
日常への切符が、わたしの目の前にどんどん降ってくる。
あ、そうか。日常って、こういうのだった。そんな感じで、わたしは言われた通りに動いていく。
そうして、わたしの日常には、一人の男の子が必須となった。




