第63話 中学生
俺の心はかき乱されたままだが、勉強もしなければならない。
晴天の霹靂と呼ぶにふさわしいイベントの主役――漆原葵に色々と確かめたいことがあるのだが、そうした時点でテストの結果がぼろぼろになりそうだ……。
過去を思い出しながらも、俺はそれを直視しない。
別に事件という事件があったわけではない。
俺の戦いは淡々と続き、何が始まることもなく何が終わることもなく、卒業式をもって自然に消滅した。
他人から見たら、何も解決してねーだろう。言い方を悪くすれば、見たくないものを遠ざけただけ。臭いものに蓋をした、でもいい。
利己的な行動。
だから思い出したくない。
ある種の黒歴史として考えているのだろう。
まるで世界を救う勇者にでもなったかのように、くそ地味で、情けない戦いを俺はしていたのだ。
思い出すたびに顔を枕に押し付けて、限界まで『ううううう』と唸りたくなるのだが……今はそんなことをしている暇はない。
だから思い出してはならないのだ。
今は全てを忘れて勉強に没頭するべきで――しかし、ノートを走る目はするすると滑っていき、白い紙は映画館のスクリーンのように色々な場面を投影していった。
――ポコン♪
スマホが鳴る。
反射的に画面を見る。
藤堂か、それとも漆原か。
今の俺にとってはどちらにしても、心中穏やかにはいられない。
画面を見た。
『アカネ:にいに、マウス壊れた、かしてくんろ。ゲーム引退したんでしょ』
「お前かよ……」
我が妹は今日も今日とてストリーマーだった。
フォロワーの影響なのかは知らないが、どんどん親父くさくなっていくのは気のせいだろうか。
まあいい。
実際俺は、ゲームをしていない。
少しだってしていない。
もちろんまだ数日といって差し支えのない我慢でしかないが、それでも毎日プレイしていた人間からすれば、十分に苦行で偉業だ。
このままだとゲームをしないゲーマーという異形が出来上がるほどに。
でも俺はその苦しみに打ち勝っている。
何も映らないディスプレイを覗き込めば、藤堂のすがるような顔が見えるから――なんてことは、俺一人だけの秘密だけども。
勉強机という名のゲーム机に座ったまま、ぼんやりと目の前のディスプレイに映る自分の影を眺めていると――バッターンとドアが開いた。
「にいにー! はよ、マウスー!」
俺はゆっくりと息を吐き出す。
ディスプレイの向こう側に見えていた金髪碧眼美少女が消えていった。
「そこにあるから持ってけ……あと、ドアは静かにあけようね……」
「オッケーです。……うーん」
「……なんだよ」
アカネはすぐさまマウスを手にしたが、部屋を出ることなく俺の背後に立った。
「本当に勉強してるんだね……」
「幽霊でも見たようなテンションで言うんじゃねーよ」
「幽霊見た方がまだテンション高くなるよ」
「あ、そう……」
「見てると、ひたすら暗くなりそうだよ」
「言い過ぎでは……」
我が妹ながら、よく言うやつである。
こんな性格なのに頭が良く、勉強なんてしていないのにテストで失敗したことを見たことがないのだから、世の中というのは理不尽だと思う。
茜はマウスのコードの先についたUSB端子をつまむと、魔法のステッキのように振ってみせた。
「いやー、それにしてもマシロちゃんってやばい存在だよねー」
「はぁ?」
いきなりなんだ、こいつは……。
やべえのは藤堂より漆原だろ。
「童貞殺しといいますか」
「童貞とか、決めつけんなよ」
「……え?」
「いや、決めつけてください」
「いやーそれにしてもマシロちゃんはやばいよねー」
時間が戻っていたが、ツッコむことはやめた。
「茜ちゃんは初めて実感したよ。本物の美少女ってほんと、死人を生むぐらいの影響を周囲に及ぼすんだね」
「兄を殺すな」
「歴史を動かすってことだよ。時として女性のせいで、政権交代してきたんだもんなー。ゲームやめるゲーマーも生まれちゃうよね」
「やめたわけじゃねーよ」
我慢はしてるけど。
「うーん……?」
「な、なんだよ」
アカネが背後から俺の顔を覗き込んできた。
「まあ、平気か。なんか変だけど」
「だから、なにがだよ」
「無理してるんじゃないかなーってアカネちゃんは思ったんだよ。だってにいにがゲームしないってことは、世界から酸素が消えるってことだもんね」
火星かよ。
「無理って……ゲームを捨てたわけじゃねーだろ」
「いや、そういう無理じゃなくてさ。なんてーか、ゲームでなりたってる二人だと思ってたから、捨てられないように無理してんのかと思ったの」
「はあ? 捨てる?」
「いや、だからさ。にいにが、マシロちゃんにさ」
「俺が藤堂になんだよ」
「『なんでもいうこと聞いてあげるから、助けてっ!』とかギャルゲーみたいなこと言われてるんじゃないかなーって思って。それで呼吸すててたら、死んじゃうって思ったんだけど、酸欠ぐらいにしかなってないから安心したよってこと」
「……、……、……、んな約束するわけないだろ? はは、バカを言うなよ、はやくゲームに戻れ、な?」
「図星かよ……」
「は?」
「いや、それは無理があるでしょ、にいに。それが使えるのマシロちゃんレベルだけだから」
「はい……」
なんでもかんでも真似すりゃ良いわけではないのは、深夜のコンビニで学習済みのはずだったのに。
「いや、もういいけど……そっかそっか、それにしても、そっか。マシロちゃんも、なんていうか、可愛いのに、そういうところは単純だよなあ。小説書かせたら甘々の恋愛ものを書きそうだよね」
「おい、アカネ」
「んー?」
「怒ってるわけじゃねーけど……、お前の方が年下のくせに随分と上から目線だな」
「だってマシロちゃん、彼氏いたことないっていってたし?」
「だからなんだよ」
俺はそこまで言ってから、ふっと冷静になる。
そのセリフはまるで『マシロちゃんにはいないけど、あたしには――』と続きそうなセリフだったからだ。
「おい、アカネ。まさかお前」
「ばいばーい」
アカネはひらりと後退すると、そのままドアの向こう側に消えた。
「あ、おい! アカネ!」
ドアの向こうから顔だけを出すと、ふふん、と言った感じにアカネは笑った。
「ま、がんばりたまえ、兄者どの」
そうして消えた我が妹が、なぜだかとてつもなく大人に見えたのは気のせいだろうか。
「いや、気のせいだ。気のせいに違いない」
まだ中学生だぞ、アカネは。
あの言い方だと、まるで彼氏でもいたような言い方だが、まだ中学生だぞ、アカネは。
「中学生だぞ、アカネは……」
俺はつぶやきながら、何かを振り払うように問題集を解き始めた。
考えが切り替わったせいか、思ったよりも勉強が進む。
しかし頭の片隅で、ちょっとした言葉がでんと腰を下ろしてしまった。
――中学生に彼氏は早い?
――なら高校生は?
――付き合ってくださいって……高校生が言ったら、どんな意味になるんだ?
「……敵に全方位、囲まれているみてーだぞ……」
ゲームならばリセットボタンを押すだけ。
けれど人生にそれは用意されていなかった。




