第58話 探偵
俺と藤堂は放課後になると、当たり前のように階段踊り場に集合する。
これはもちろんゲームをする為ではなく、勉強をする為だ。
なら図書館でいいのでは?、と思うかもしれないが――いや、確かにそうなのだが、なぜだか俺たちはここに集まる。
そして向かい合わせにおいた机で勉強をするのだ。
集まる理由はないのに、勉強をする理由はある。
藤堂の親と約束した――いや、約束というのはいささか事故的すぎる口約束。
期末テストで50位以内。
今考えるとバカバカしい夢物語の目標だが、当然、藤堂は達成する気まんまんだ。
なんで俺の頭脳をそこまで信じているのはわからない。
どうやら茜が、俺の中学時代の話をしたようだが、それだって多少、勉強に理解があっただけ。
特進クラスをはねのけての50位なんて、正直、無理だろうとも思う。
だけど藤堂は信じている。
自分の好きなものに至る道がそこにあると信じて疑っていない。
そして俺は勉強をしている。
理由もなく集まり、理由のある勉強をしている。
藤堂曰く『なんでも一つ言うことを聞いてあげる』なんていう、身も蓋もない条件”以上”の何かを胸に、俺は教科書を開いている。
それを利害一致の関係と呼ぶには、パワーバランスがおかしすぎるだろう。
だから俺は、こう表現するしかない。
――臨時パーティ。
立ち位置さえ違う二人。
実に俺たちらしい、一時協定だが、レベルの差は歴然でもある。
*
中間試験まであと数日。
やるべきことは多いが、やれることは少ない。
だからこそ集中してやるべきなのだが……、俺の思考は乱されていた。
文字を書く。
問題を読む
その合間に、一人の女子の言葉が右から左へ流れていく。
別にそれは左から右へ流れるのでもいいし、某SF映画みたいに下から上へスクロールしていくのでもいい。
――付き合ってください。
正直、意味がわからなかったし、今だってわからない。
久しぶりに会った人間に放つ言葉なのだろうか。
正直、俺としては、信じられない。
何かバグってるとしか思えなかったが……、だが漆原に冗談を言っているような雰囲気はなく、あのあと、俺たちはチャットアプリのIDを交換した。
せっかくベンチに座ったというのに、ものの数分で会話は終わり、理由もなにも明かされぬまま、俺たちはどちらからともなく終了の言葉を口にして、それぞれの家路についたというわけだ。
衝撃的な言葉は、俺の思考能力を根こそぎ奪っていった。
もちろん俺は何も回答していない。できていない。
具体的に言えば、イエスとか、ノーとか、そういう類の言葉を、どの部分にぶつければいいのかがわからなかったのだ。
質問の意図すら把握していないということだ。
まるで倒し方のわからないボスを相手にしているかのように、俺はただただ困惑していた。
「――黒木。集中してないね」
「……え?」
藤堂の言葉に思わず、ノートに落としていた視線をあげた。
目の前には当然のように藤堂がいる。
夏に向けて少しずつ気温が上がっているせいで、藤堂の体温も上がってきているのだろう。
胸のボタンを何個か開けているが……そういうことにいちいち反応しなくても済むようになったことは、俺の中での進歩だ。
「手、動いてないけど」
「そ、そうかな?」
「はい、そうです」
机をとんとんとシャーペンの頭で叩いている藤堂の言葉を否定しきれない。
藤堂は机の上に頬杖をついて、なんだかバカにしているようにも見える表情で、こちらを見ていた。
「昼間のこと、まだ引きずってるの? いきなり話しかけてごめんね。でも別にクラスメイトなんだし、話しかけるのはふつーじゃないの?」
「藤堂のフツーと、俺のフツーは違うんだよ」
「あたしは人間。黒木も人間」
「立場が違うんだろうが」
「あたしも黒木も、高校二年生」
「でも、違うんだよ……」
「どういう風に違うの?」
「いや、具体的にはわからねーけどさ……」
住んでいる世界が違うんだろ、と続けようとしたが、俺たちは今面と向かって座ってしまっている。
住んでいる世界は同じように思える。
趣味が違うんだろ、と足掻こうとしたが、なんだか負けを認めているみたいで、やめた。
もういっそ『俺たちって何が違うんでしょうか……』、と尋ねようとしたが、それは敗北宣言と同意だった。
藤堂は白く細い指先を器用につかって、ペンをくるくると回していた。
こいつ、なんでもできるな……なのになんでゲームの腕前は中の下なんだろうか、とぼんやり考える。
「まあ、でも、そうだね。黒木って、そもそもあたしが話しかける前から、上の空だったよね。なんか今日、1日、そんな感じ」
「そんなことは……」
ねーよ、と言おうとして、それが嘘になることを悟った。
口を閉ざすしかない。
「勉強、嫌になった?」
「いや、そういうことではない……」
「じゃあなんで、金曜の放課後はやる気あったのに、週明けでこんなにモチベさがってるの」
「モチベが下がっているんじゃないぞ。ただ、その……横槍というか、モチベとはまた違う何かというか……」
「歯切れ悪いなあ」
「いや、すまん……」
藤堂は目を細めた。
「ねえ」
「ん」
「なにか……隠し事、してるでしょ」
「え!?」
「図星か」
「い、いや」
「あたし、泣いちゃうかも」
「誤解だ」
「何が」
「だから、隠し事なんてしてないぞ。隠し事っていうのは、あれだ。だって、わざわざ隠そうとすることだから、悪いことだろ? でも俺は悪いことなんて、してない、多分」
内心冷や汗をかきながらも、自己の正当化に努めた。
いや、正当化なんてしなくたって、俺は正当の範疇にいるはずだ。
だって、隠すも何も、明らかにすることなんて何もないんだから。
後ろめたいことなんて、何もないんだからな、うん。
俺は推理小説の犯人役のように、自分を肯定した。
だが、名探偵は見逃してなんてくれないのだ。
「あやしい」
「あやしくない」
「黒木のその顔は、自分に都合のいいように、物事を考え直している顔だ。正当化しようとしている顔だ」
「名探偵め……」
「は?」
「いや、なんでも……」
「ていうか、あたしが黒木のことお見通しって、今更、気がつかないでよ。前からそうでしょ」
「お見通し……だと……?」
「ほぼ想像の範疇、ともいえる」
「やたらディスってきますね……」
藤堂は向かい側から、身を乗り出してきた。
ぐっと寄せてきた瞬間、めちゃくちゃフローラルな香りが鼻をくすぐってきた。
あとボタンの外された胸元に――いや、そんなことはどうでもいい。
藤堂は得意げな表情を浮かべた。
「黒木だから、ここまで言うの」
「ああ、そうですか」
「ま、あたしを驚かせたかったらさ――一晩で彼女でも作ってみるぐらいじゃないと、驚けないかな」
ふふん、といった感じで藤堂がにやついている中、俺は言葉を失った。
――彼女。
――付き合ってください。
「……っ」
いつもの俺ならば、すぐさま何かを言い返しただろう。
だがこの時ばかりは回想に気を取られ、何も言い返せなかった。
流れる沈黙。
フローラルな藤堂の香りに押されるように、身を引く俺。
「黒木……?」
静かに、静かに、時は流れ――藤堂の顔がすっと冷えた。
藤堂の口が、半開きになり、そこから声が漏れ出てくるようだった。
「え、ちょっと待って」
「な、なんだよ」
「ちょっと、待ってよ」
「だから、なんだよ」
「なんでいつもみたいに言い返してこないの」
「い、いやあ?」
「あたし、さっきのはただの冗談なんだけど――まさか、それが本当なんてことは……ほんとに、彼女、できたの……?」
「で、できるわけねーだろ!」
「だ、だよね……びっくりした……」
自分の椅子に座りなおした藤堂は、いつの間にかあがっていたらしい肩をすとんと下に落としていた。
「びっくりさせないで」
「勝手にしたんだろ……」
「びっくりさせないで?」
「は、はい、すいません」
大きく深呼吸をしている様子を見る限り、なんというか、俺の置かれている状況って藤堂レベルですらビビる話なんだなと再認識する。
同時に、じゃあ俺ごときが翻弄されるのも当然か、と心に余裕が生まれた。皮肉なものだ。
まるで自分より強いゲーマーがクリアできないのを目にして、『あ、なんだ。それなら俺がクリアできなくてもいいんだ』なんて思ってしまうのと同じ。
諦めることの理由探し――情けないが、今は助かった。
冷静に考えてみよう。
付き合ってください――そのままの言葉で受け取る奴は馬鹿だよな。
状況もわからなければ意図もわからないが、友達としてIDを交換するのは日常としてありうる。
そして、『付き合ってください』という言葉はきっと、何か裏のある言葉なのだ。
食事に付き合ってとか、買い物に付き合ってとか――早合点しているだけの俺には思いつかないようなオチが待っているに違いないのだ。
俺はどこか優位に立った気持ちになって、藤堂に語りかけた。
ここぞとばかりに言葉を並べ立てる。
「というか、んな誤解されたら俺のほうがびっくりするだろ。そんな疑いかけられる人生じゃねーことぐらい、藤堂がよく知ってるだろ」
「うん、だよね」
「お、おう」
即答がなんだか少しだけ悲しい。
俺はなんてわがままなんだろう……。
「と、とにかくゲームだけが友達の俺だぞ。異性に付き合っている暇なんてねーだろ。ていうか俺が彼女なんてできるように見えるか?」
「まあ、うん……?」
「俺に彼女ができるなんて、バカも休み休み言ってくれ。そんな物好きいるわけねーだろ」
「まあ、はい」
「俺はどうせ死ぬまで一人で、孤独死するタイプなんだよ。俺なんぞそのレベルの人間なんだよ」
「あのさ、そこまで言わなくてよくない?」
なぜかいきなり藤堂が不機嫌になったので、俺はぐっと言葉を飲み込んだ。
「ま、まあ、とにかくそういうことだからな。今は勉強だよ、勉強」
「そう、だね」
「……? なんか暑そうだな」
「べつに?」
「いや、でも汗が」
「女子に言うセリフじゃないから」
「は、はい」
藤堂はやっぱり暑いのか、手でぱたぱたと顔を仰いでいる。
どこか視線を宙に漂わせながら、しかし言葉はしっかりと俺の方向を向いていた。
「勉強の為の時間は、有限なんだからさ。無駄な話をしないでよね、黒木」
「いやお前が勝手に言ってただけだろ……」
「勉強に集中してなかった黒木が悪いんでしょ」
「いや、それはそうかもしれねーけど」
「そうかも、じゃなくて、そうなの」
随分とわがままな藤堂を落ち着かせるように、俺は言う。
「とにかく俺にそんな事態は起こっていない」
「わかった――でも、まあたしかに一晩で彼女はできないよね。告白ならありうるけどさ」
――お付き合いしてください。
「そ、そうだよな、うん」
どもってしまった俺は、何かを誤魔化すようにしていそいそと教科書を広げた。
必死に言葉を頭から追い出す。
「……え? ちょっと黒木」
だが、名探偵はいつだって目の前に座っているのだった。
スマホからゆっくり顔をあげる藤堂。
その視線は、まるで呆けた猛禽類のようだ。
3秒までは許されそうだが、4秒を経過したら捕食されそう。
「な、なにかな」
「黒木」
「だから、なにかな」
「うそ、だよね」
「な、なにがですか」
「まさか、ほんとに、告白されたの……?」
藤堂はまるでUFOの窓から手を振る宇宙人を偶然見つけてしまった子供のような顔を俺に向けた。
「あ、いや、告白、じゃない……はず」
「はず?」
「お、おう」
俺は何も言えなかった。
だって、説明したところで俺にもわからない展開なのだ。
それに、漆原の真剣な言葉を、右から左へ、誰かに話すというのは、なんだかとても悪いことのような気がした。
黙っている俺を、どう思ったのか。
藤堂はその桃色の唇をわなわなと震わせながら繰り返し、言った。
「誰から、告白、されたの」
「だ、だから、されてねーって――」
俺は必死に首を振る。
「――ただ、友達になろうって言われて、連絡先聞かれて、交換しただけだ。昔の、同級生なんだよ。ただ、それだけ。んで……」
答えは後でいいから付き合ってください――そう言われたと付け加えようとしたが、俺の口は動かなかった。
できれば藤堂には隠し事なんてしたくない。
けれど、あのときの漆原の表情が思い出されると、影で共有していい情報ではないような気がするのだ。
なんていうか……色々と確定する前にそれを話題にしてしまうのは、違う気がするのだ。
俺は間違っているのだろうか?
わからないが、藤堂もわからないことだらけのようで、俺への質問の勢いを緩めなかった。
「男?」
「え?」
「相手、男?」
「いや、女だけど……」
「へ、へえ……そうだね、うん、そうだね、ま、そうか。別に友達なんて、男とか女とかどうでもいいよね、だってあたしたちだって、同じだし? ていうか、あたしのほうが早いし」
「いや、中学校の同級生だから――」
「そういうこと、今は関係なくない?」
「お、おう?」
関係ないのかな……。よくわからないけども、藤堂らしからぬ言葉の羅列が並んでいるのはなんだか不思議な感覚だった。
超快適な光回線みたいな話し方をするようなやつが、今じゃあ公共wi-fiスポットみたいな通信制限がかかっていた。
「その子さ」
「その子?」
「だから、その女の子さってこと」
「ああ、うん」
「どんな子? かわいい?」
「え? いや、顔の造形は整っていると思うけど……」
藤堂がヒュッと息を飲んだ気がした。
「ちなみにどんなコスメつかってんの? 美容室どこつかってるって? 好きなブランドなに? SNSのアカウントって何個ある? ていうかなにを使ってるの――」
「――ちょ、ちょっとまて! 落ち着け!」
ぐっぐっと押してくるように言葉を並べる藤堂を、俺はさらに押しのけるように――実際は相手の体に触れることはできないので、俺が身を引いてるのだが――前に手を出す。
藤堂は突然変化した。
俺の手のひらから放出された見えない壁にぶちあたったかのように、突然背筋を伸ばした。
それから言った。
「落ち着いてますけど?」
「そ、そうか」
「これが、この状態の私が、落ち着いてないように、見えますか?」
「一語一語区切られると怖いんだが……」
「冷静です」
にこり、と冷たい笑みを浮かべる藤堂は、決して落ちついているようには見えなかったが、これ以上はやぶ蛇だろう。
俺はノートやら筆記用具やらを手元に引き寄せてから、場をとりなした。
「な、ならよかった……じゃあ勉強をしよう、時間ないんだし――」
「――勉強なんて後でいいの!」
だん、と叩かれる机。
少しだけ飛び上がった消しゴム。
「言っていることが違うだろ!?」
「とにかく何があったか、教えなさい!」
「だから何もねーって!」
言えることは何もない。
すまん、藤堂。
確定するまで俺だけの秘密にさせておいてくれ……漆原の気持ちを俺は、まだ理解していない。
そして自分が理解していないゲームの攻略法を知ったかしてしまえば、ただの害悪ゲーマーになってしまう。
せめて、『これがなんなのか』を理解してから説明させてほしい。
「くーろーきー?」
だが藤堂はエスパーではないようだった。
俺の言い訳が届くこともなく、藤堂の言葉も止まることはなかった。
「教えて?」
「だ、だからだな……」
こうして俺と藤堂の攻防は、しばらく続いたのだった。




