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最終話 新たな春

 吹く風がもたらすのは刺すほどの冷たさではなく、心地良い涼しさ。穏やかな日差しを注ぐ空は青く広がり、季節の移り変わりをその姿に示しているようである。


 期間こそ短いが、春休みとは一つの区切りとして考えられることが多いものである。

 特に学生や生徒といった立場にはその傾向が強い。春休みが終われば新たな年度、学年が訪れる。それに合わせて自分自身を変えることもあるだろう。


「んうぅ……なんだか慣れないというか落ち着かないというか……」


 その好例として挙げられるのが、部屋の隅で膝を抱えて座り込んでいる沙織であろう。


「何度も来てるじゃない。それに、一緒に暮らすって決めたときはあんなに喜んでたのに」


 沙織の隣で微笑むのは、部屋の主である要。

 いや、今では部屋の主は二人なのだから「主だった」と言うべきか。


「それはそうだけど! でもいざ始まってみると実感がものすごくて、なんか、頭の中がいっぱいで……」

「嫌なの?」

「……嫌じゃない」

「知ってる」


 沙織は寮を出て、要の部屋で共同生活を始めた。春休みに合わせて引っ越しができるよう前々から計画していたのである。

 今は同棲二日目の昼前。前日は荷解きで慌しかったので、今日が実質的な初日と言える。


 だからこそ、沙織が今になって同棲の事実に直面したのも当然であろう。人は宿願こそ多く抱えるが、いざそれが叶った時に取るべき反応は持ち合わせていないものである。


「慣れないなら慣れていけばいいじゃない。そうでしょ?」


 だが、それは過ちではない。

 自分が持っていなければ相手から受け取ればいいだけなのだから。

 足りないものを補い合い、助け合う。生涯を共にするとはそういうことなのである。


「まあ、初々しい感じの沙織も可愛くて好きだけど」


 大胆に動いた要は沙織を抱き締め、額を重ね合わせた。ぶつかりそうな眼鏡のレンズ越しに沙織の瞳が動揺を訴えて揺れ動く。


「か、要」

「沙織、ほんとに可愛い……」


 不意をついた短い口付けを交わせば、沙織の動揺は目に見えて大きくなる。

 交際を始めてから一年以上。今までに数え切れないほど唇や舌を重ね、その先まで進んだことも一度や二度ではない。


 それなのに純真な乙女のような反応を見せ続ける沙織が、要には狂おしいほど愛おしく思えてどうにかなってしまいそうだった。

 沙織にはこのままでいてほしい気持ちと、変わってほしいという気持ちが内面では両立している。

 どちらに転んだとしても要にとっては得しかない。沙織が見せる仕草ならどんなものでも受け入れてしまうから。


 告白をされたのも、交際が始まったのも、一線を超えたのも、同棲の日々も。

 すべてはこの部屋が起点であった。


 そして、これからの日々も。

 幸せの色に染まった未来を思い描きながら、要は改めて沙織と優しい抱擁を交わした。









「沙織って進路はどうするの?」


 机を前に並んで座る二人。

 視線の先にあるのはお互いの姿ではなく一枚の紙だった。


「うーん……どうしよう」


 沙織を悩ますこの紙は進路希望調査票。春休みの間に記入し、休み明けに提出することになっている。


「大学はエスカレーターだとしても、学部も決めなきゃいけないもんね」


 進路、と漠然な質問をした要であったが、その答え自体は既に出されている。

 学業成績が優秀な二人は内部進学制度を利用して久永大学へと進学するつもりであり、同じことを望む生徒も多い。

 しかし人生で歩む道は各自で異なるもの。就職を含めて外部へ飛び立つ者も当然おり、内部進学としても具体的な方針決定が早いに越したことはない。


「うーん……学部って言われてもピンとこないんだよね」

「そう? 私はドイツ語とか興味あるけど」

「わあ、かっこいい……」


 言葉に偽りなし、といった輝きの視線を向けられ、思わず要の心が跳ねそうになる。

 こうした無意識なのかわからない不意打ちに要は毎回悩まされているが、それも恋の病なのだと受け入れるしかないだろう。


「でも学部が違ったらカリキュラム? も違うだろうし、講義? とかゼミ? とかで一緒の時間が減っちゃうかな……」

「沙織ったら疑問符多すぎ」


 一瞬で陰った表情に要の心も平静を取り戻す。

 下心は一切なく、ただ不安を取り除きたいという思いだけを持って沙織を抱き締めた。


「一緒に暮らしてるんだから、帰ってくれば二人きりになれるでしょ?」

「……うん」

「もし一緒の時間が減ったって、私は沙織のこと忘れたりしないし、好きだよ。それでも不安?」

「……今のでちょっと大丈夫になった」


 よかった、と呟いて頭を軽く撫でる。体を離せば沙織の表情は明るくなっており、要も釣られて頬を緩めた。


 二人が見据えるのは果てない未来。

 揺るがない視線と想いは、行く末の安泰を証明している。






     *   *   *






 落ち着いて座って待つことなどできなかった。

 秋奈は当てもなく部屋の中を歩き回り、既に届いている荷物へ手を伸ばしそうになっては、それはまずいと自分を押さえ込んで椅子へと戻る。

 そして、すぐに再び立ち上がる……そんな繰り返しを何度しているのか秋奈自身にもわからない。


 秋奈の心をここまで惑わせる存在など、この世に一人しかいない。

 今日は衿香が正式に入寮をする日なのである。だが、当の衿香は新規入寮生に向けた説明会に参加している。秋奈ができるのは待つことばかり。


 腰を下ろして椅子を鳴らし、膝の上で握り拳を作る。前屈みの姿勢になっていることは自覚しつつ、部屋の一角に詰まれた段ボールへと鋭い視線を送ってしまう。


 中身は衿香の私物。ここで暮らすために必要な物たちが詰まっている。そう考えれば実感と鼓動が高まり、待ち望んだ瞬間の接近に秋奈も冷静ではいられない。


 何が入っているのだろうか。秋奈は透視能力など持っていないので想像するしかない。衿香にとって必要な物、一般的な生活雑貨などは当然入っているだろう。


 ではそれ以外はどうだろうか。

 たとえば以前お揃いで買ったクッション。同じ物を使うことで離れていても一体感を得たいという欲望の具現化。思わずその片割れを手繰り寄せて抱き、箱の中に色違いが入っていることを強く願った。


 他にも入っていてほしい物、逆に入っていてほしくない物はいくつもある。

 だが、何よりもまず足りないのは衿香の存在。

 衿香がいなければすべては意味がない。たとえ他のすべてが失われたとしても、衿香さえいれば秋奈はそれで満足なのだから。


 衿香の不在は思いを募らせ心を乱す。簡単な説明に一体どれだけの時間をかけているのか。自分の時はすぐに終わったはずだったのに。

 まさか、予期せぬ事態に巻き込まれたのではないか……と、根拠のない妄想が広がりかけた頃。


 ガチャリ、と錠の開く音がした。次いで扉が開けば室内の空気も入れ替わる。

 考えるよりも先に体が動き、秋奈は愛しい人の姿を確かめるために駆けた。


「衿香!」


 待ち侘びた姿。会いたかった人。離れたくない存在。

 久永の制服に身を包んだ衿香を、秋奈は返事など待たずに抱き締めた。


「わっ、秋奈ちゃんいきなり」

「待ってたよ……ずっと、ずっと」

「……待たせちゃって、ごめんね」


 衿香も同じ気持ちだったのだろう。

 一方的な欲望の発露に少しだけ驚きを見せたものの、振り払うことなどせず自らも秋奈の体へと手を回して距離を埋めた。


 離れていた時間とは比べるまでもない短時間。

 けれど二人にとっては時間以上に意味のある深き誓いを交わす抱擁である。


「謝らないで。衿香がここにいるってだけで私、すごく幸せなんだから」

「あたしもだよ……やっと、ここまで来れたんだもん。もう秋奈ちゃんと離れるなんて絶対にやだ」

「……じゃあ、さ」


 秋奈はためらいがちに言葉を選ぶ。

 答えがわかりきったものであろうと、たとえそれが外から見れば八百長や茶番にしか思えないとしても。

 秋奈と衿香にとって、核心を突く言葉を交わすということはこの世界よりも広大な意味を持っている。


「もう……告白の返事、してもいいよね?」

「……うん」


 衿香もすべてを察してはいるものの、やはり緊張は隠しきれず秋奈の服を握る力が強まる。


「衿香――」


 抱き合いながら交わした視線には、既に相互同意の意思が滲み出ている。

 何を言うべきか、何を返すべきか。衿香に愛を告げられた日から、答えは一貫して変わらずにいる。


 そして今、ようやくその蓋を外す時が来た。

 感情の解放を妨害する要素は何もない。


「――私の、私だけの恋人になって!」

「あたしも! あたしだけの秋奈ちゃんでいてほしい!」


 独占という二文字で表せる本心。

 自縄自縛の枷から解き放たれた二人は、溢れる涙をそのままに強く互いを抱き締めた。


「衿香……好き、好き、好き……」

「秋奈ちゃん……好きぃ……」


 好き、独占、交際。

 欲望に根ざした言葉たちはどれも短く簡素である。

 だからこそ心に溢れてしまう。離別によって塗り固められ、果てなく積み重なった想いたちを小物の集まりとは形容できない。


「もう、絶対に離れないから……」

「うん……約束だよ」


 その言葉に偽りはない。

 秋奈は内部進学を考えているため、大学生となっても寮に在籍し続ける。大学生と高校生が同室ということもこの寮では珍しくない。

 では秋奈が大学を卒業したらどうなるか。当然そこも考えられており、卒業までに二人暮らしの地盤を固めるつもりでいる。


 目先の幸福も確かに重要だろう。

 だが、共に永い時間を過ごすのであれば将来的な展望は不可欠である。


 言うなれば今は準備期間。輝かしい未来を得るためにすべきことは山積している。怠惰な日々を送っている暇など微塵もない。


「衿香、もっと……」

「……うん、あたしもほしい」


 とは言え、気を張ってばかりでは続かないのもまた事実。加えて二人の高ぶりは留まるところを知らない。

 唇や肌を重ね合うのを咎める理由もまた、欠片も存在しないのである。


 未来と今を同時に見ながら、秋奈と衿香は二人の人生を歩んでいく。

 繋いだ絆はもう二度と離れない。






     *   *   *






「ふふっ……みんな、みーんないい顔してるなぁ」


 細めた目の先にあるのは青空だが、彩が見ているのは全く異なる景色であった。

 久永学園の北側に建つ大学の講義棟。その屋上に用意したベンチで、彩と悠希は爽やかな風に吹かれながら空を見上げていた。

 普段は閉鎖されている屋上だが、この二人にとって学園の掟などあってないようなものである。


「これ以上覗き見るのはやめましょう。もう十分だもの」


 悠希が目を閉じて念じれば、彩が見ていた景色も暗転する。再び目を開ければ、そこには春の青空しか映っていない。


「やっと、みんなを幸せにできた……」


 しみじみと放たれる言葉は重く、彩は一世一代の大仕事を終えたかのように脱力して悠希に体を預けた。力の抜けた顔は、それでも満足そうな笑みを浮かべている。


「お疲れ様。これでよかったのよね?」

「うん……ありがとうね、あたしのわがままに付き合わせちゃって」

「いいのよ。皆を幸せにしたいって、素敵な願いだと思うもの」


 悠希に頭を撫でられると、自らの行いが間違っていなかったと確信できる。選択が誤りではなかったのだと証明される。消せなかった後悔が霧散していく。

 しかし、彩に完全な安寧が訪れるのはもう少しだけ先のことだった。


「でもね、一つだけ聞かせてほしいことがあるの」


 手は止めず、本当に何気ないことでも訊ねるように悠希はその一言を告げる。


「彩は、本当に彩なの……?」


 反応を抑えきった自信がない。

 感情と精神を操作する術はその身と心に刻まれているのだから、意識するまでもなく実行できるはずなのに。

 そして何よりも、返事が遅れたことこそが彩にとって致命的とも言える失態だった。


「当たり前じゃん。他の誰かに見える?」


 声は震えていない。むしろ甘い色合いさえも演出できた。悠希の手も未だ止まらず、傍から見れば他愛のないじゃれ合いに映るはず。


 当然ながら観客はいない。故に手応えも得られない。

 焦りは打開策を望み、唇は次の言葉を探す。


「あたしはあたし。彩以外の何者でもないよ」

「そう……そう、よね」


 悠希の言葉には疑念が混じる。それに気付かぬ彩ではない。表層を取り繕いながら、彩は方向転換を試みた。


「じゃあさ……たとえばの話だけど、あたしが未来から運命を変えるために来たって言ったら信じる?」

「信じるわよ」


 おどけた言葉に返ってきたのは真面目な即答。

 呆気に取られたのは彩の方だった。


「不思議そうね。そこまでおかしなことを言ったつもりはないのだけど」


 微笑みながらの追撃。特殊な力を使わずとも、悠希はすべてを見通していると言わんばかりの雰囲気を纏っていた。


「逆に質問するわ。もし私が別の世界から彩と結ばれるために来た、と言ったら彩は信じる?」

「……信じる」


 言いながら、彩もまたすべてを察した。

 悠希はそういった強さを持った女性なのである。


「彩、私はね……彩のことは何があっても信じるし、どんなことがあっても受け入れるつもりだから」


 そして、悠希には敵わないということも。

 彩が愛した女性はそういう人間だった。


「ふふっ、おかしな話になっちゃったわね。ごめんなさい」


 小さく笑った悠希は、既に普段通りの雰囲気へと戻っていた。彩の心を落ち着ける、かけがえのない存在へと。


「そんなこと本当はどうだっていいの。私は彩のことが好き。それだけで十分よ」

「そう、そうだね……」

「ねえ、彩は幸せ? 周りの皆を気にかけるのもいいけど、自分も幸せにならないと」

「幸せだよ、とても。今まで生きてきた中で一番だってくらい」


 一番というのは決して誇張などではない。他者を踏み台にすることなく得られた今、悠希が隣にいるということ。彩にとって、それが最上の幸福なのである。


「何があっても私は彩と一緒にいるわ……だから、もう何も気にすることはないのよ」

「……悠希には全部見透かされちゃってるのかな」

「どうかしらね。彩のことは理解しているつもりだけど……わからないことだってあると思うわ」


 頭を撫でる動きはそのままに、悠希の手が彩の頭を抱き寄せる。耳に触れた胸から届く鼓動は穏やかで、乱れた様子は一切感じられない。


「知りたくないと言ったら嘘になってしまうわね。でも、彩は彩なんでしょ? それだけで私は十分。彩がこうして触れられる距離にいてくれたら、それだけで……」


 言葉の間、悠希の鼓動は徐々にその速度を上げていく。誰よりも早く察知した彩は、複雑に絡み合った思考をすべて放棄した。


 必要なのは単純な感情。

 たった二文字で表せる深い想いを、彩はよく知っている。


「悠希……好き」

「私も好きよ、彩」


 誰も悲しまない日々。

 そこへの到達こそが彩の生きる意味、今ここに存在する理由だった。


 その悲願が達成された今、彩はしばしの休息へと入る。

 悠希と二人、どこまでも深い海の底、邪魔されることもなく。


 世界中すべての人間に、とまでは力が及ばなくとも。

 自身に近しい人々が望むままの安寧を享受できる結末。

 それが彩の出した答えであり、追い求めてきた楽園の姿だった。





 要と沙織。秋奈と衿香。

 そして彩と悠希。


 六人の少女たちは、これからもその楽園で愛した相手と生きていく。

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