三月二十七日 遮る物は何もない
「秋奈ちゃん!」
「久しぶり、衿香」
手を振って駆けてくる衿香を抱き止め、秋奈は愛しい人の温もりと香りに包まれた。
どれも画面越しには味わえない貴重な財産。秋奈の心を酔わせるには十分な過剰摂取だった。
顔を合わせるのは年末年始の帰省以来。久しい再会に躍る心は衿香以外を秋奈の世界から消していく。
「行こっか」
「うんっ!」
眩しいほどの笑みを浮かべる衿香と手を繋いで歩き出す。その笑顔を見ていると、自分の表情も緩んでいることを秋奈は自覚させられる。
春休みという時期のせいか駅前の人は多いが、二人にとってはそのざわめきさえも祝福の音に聞こえた。
今日、衿香がやって来た理由は他でもない。秋奈と共に過ごすためである。
詳細を言えば入寮体験というものであり、数日間を寮で過ごすことで久永の雰囲気を味わうのが目的――
というのは建前であり、そもそも入寮体験は公的な催事ではない。悠希と彩、そして寮監らが手を回して作り上げた非公式の舞台である。
主演女優は秋奈と衿香。脚本や演出も自由自在。ここまでの融通を利かせてくれた三人には感謝するばかりだが、思い出作りになればそれでいいと背中を押してくれた。
当然、言われるまでもなく秋奈は衿香との時間を記憶に刻みつけるつもりでいたし、こうして衿香が隣にいることを実感しては毎秒ごとに幸福の最高値を更新している。
「ほら、そこが前に話した最近できたお店。放課後になると久永の制服でいっぱいになるってやつ」
「ここかぁ……あたしも放課後デートで秋奈ちゃんとここ来たいな」
「放課後じゃないけど明日行ってみる?」
「いいの? やった!」
電話越しの会話なら毎日しているのに話題が尽きない。新鮮な話が湯水の如く溢れ出し、見えない沼へと沈み込んでいく錯覚さえ感じてしまう。
その錯覚は時間感覚さえも惑わせる。目的地までの道のりがこれほどまでに短いとは思えなかったが、二人がその場所を目にしているのは紛れもない事実である。
「というわけで……ようこそ、久永学園寮へ!」
「お世話になりまーす!」
砕けたやり取りさえも、どんな宝石でも太刀打ちできない輝きを帯びている。
何をしても何があっても、秋奈は衿香のことが好きなのだと意識して甘美な痺れを味わってしまうのだった。
「おっ。来たな、青春を謳歌する乙女たちよ」
趣味でやっているという家庭菜園から顔を上げ、芝居がかった声で二人を迎えた女性。
彼女こそが舞台設計者の一人、寮監である。手に持った玉葱は寮の夕食に並ぶのであろうか。
「輝ける未来のため、しばしの休息を堪能するがよい――」
寮の玄関へと導くように手をかざすが、そこに乗っているのは玉葱。水晶玉であれば神秘的な雰囲気が出たかもしれないが、これでは格好がつかない。
秋奈にとっては寮監のそんな姿など見慣れたものであるが、遭遇が数回目である衿香の目には新鮮に映ったようで興味津々といった輝きの視線を向けている。
心に何か燻るものを感じた秋奈は、簡素な挨拶を添えて寮の中へと踏み込んだ。少しだけ早足になりながら繋いだ手を引いたのは無意識である。
「やっぱり寮監さんって面白い人だね」
「そう? 何考えてるかわからないふわふわした人だけど」
「寮に入ったら退屈しなさそうだなあ……」
燻りが小さな痛みに変わった頃、ようやく秋奈は自分が稚拙な嫉妬をしていることに気がついた。
衿香が寮監に興味を示しただけで心を乱すとは、どれだけ独占欲が強いのか……思わず吹き出してしまいそうだった。
大丈夫だ、と暗示をかける。部屋に入れば二人きり。他の誰にも邪魔などさせないのだから。
ルームメイトである沙織は寮にいない。今頃は要と二人で甘い時間を過ごしていることだろう。
この舞台を作り上げた実行者は先の三人だが、協力者の存在も不可欠である。
その最たる例が沙織だった。事情を知った沙織は快く計画に乗ってくれた。沙織も春休みを利用して要の部屋へ行く予定だったので、互いの都合が一致したわけである。
「久しぶりの秋奈ちゃんの部屋だあ……」
そんな部屋を衿香は目を輝かせて見回している。来たのは初めてではないのに、砂漠でオアシスを発見した時のような反応。秋奈は胸の痛みや燻りが一気に消失する感覚を味わった。
「ここで来年から秋奈ちゃんと……」
「その前に受験があるでしょ。まあ、判定はいい感じみたいだけど」
「頑張ってるもん。秋奈ちゃんと一緒にいたいから」
真っ直ぐな言葉が深く突き刺さる。痛みの代わりに喜びを与えてくれる一撃。こんな攻撃ならいくらでも受けたいと思う反面、それは一種の倒錯ではないかと危惧しつつも秋奈に抵抗する術はない。
「でも、そっか……来月から衿香も三年生になるんだ」
「そうだよ。来年には高校生!」
並んで腰を下ろしながら、秋奈は時の流れを自覚する。時間は平等で、流れる速度も一定。
しかし重さは人によって違う。だからこそ同じ期間であっても長さを錯覚するようなことが起こるのである。
秋奈が抱えるその重さを解消できるのは、生身の衿香だけ。確かにここにいて、存在しているという事実。
「どうする? 寮の中でも案内しようか?」
努めて明るく振舞う秋奈。年上という自覚は仮面となって秋奈の顔を覆う。
「……ううん、いい。それは明日にして、今は秋奈ちゃんと一緒にいたい」
そんな仮面を外してしまうのもまた衿香だけである。身を寄せられるだけで秋奈は素直な一人の少女へと戻ってしまう。
「そっか。私もそれ賛成」
秋奈も体を寄せ返す。衿香の存在を強く感じたいと願った結果である。
沈黙の中、伝わってくるのは体温と鼓動。二人分の生きている証。
長い間、渇望しながらも得られなかったいくつもの瞬間を取り戻すように、二人は肌を寄せ合い続けた。
楽しい時間が早く感じるのもまた錯覚である。
けれど、それが悪いこととは限らない。かけがえのない時間を過ごしていることの証明でもあるのだから。
「衿香、寒くない?」
「寒くはないけど……もっと、ぎゅってしたい」
「ふふっ、仰せのままに」
一日が終わろうとしている夜、秋奈と衿香はベッドで身を寄せていた。吐息さえ絡み合いそうな近さで二人は求め合う。
まだ眠るつもりはない。眩しくない程度に抑えられた明かりの下、秋奈は確実に消費されていく時間を惜しみながら衿香の頭を撫でた。
「それ、されるの好き……」
「知ってる。だからもっとするね」
要求には当然ながら応じる。それが秋奈の使命であり、願望でもあるから。
撫でるだけでは飽き足らず、衿香の頭を胸に掻き抱く。秋奈自身にはもちろんのこと、衿香にも自分を刻みつけたいと考えている。
押し付けるような強い抱擁さえも受け入れる衿香。突きつけられた鼓動を耳に感じながら、抱き締めた秋奈の背中をそっと撫でた。
瞬間、秋奈の表情が歪む。胸に抱いて衿香の視界を奪っているからこそ勢力を増す感情の奔流に身を晒しながら、しかしその一切をこぼさぬよう目を閉じて衿香の存在に全神経を集中させた。
「秋奈ちゃん、何か悩んでる……?」
それがどんなに小さな囁きであっても、衿香の言葉ならば秋奈は聞き逃さない。
隠していた内側を覗かれたような気分はまず驚きを生み出し、続けて蜂蜜のように甘く蕩けた喜びを心に満たす。
見透かされ、その上で抱擁を受け入れてもらえているという事実。衿香と一時も離れたくないという思いが強さを増していく。
「うん……ちょっと不安なことばかり考えちゃってさ」
「不安なこと?」
「もし衿香が久永に合格できなかったらどうしよう……って」
顔を上げた衿香に向かって、秋奈は黒い妄想を吐き出した。
万が一にも衿香が久永に来られず、違う道を歩むことになったなら。秋奈の側から離れてしまったら。会えなくなったなら。
膨らむ暗部は離別という考えたくもない結末をちらつかせる。目を逸らそうとすればするほど目前へと回り込んでくる心の弱い部分。
今までずっと秋奈はそんな自分自身と戦ってきた。弱さは逃げ道を求め、あの時ああしていれば……と過去にまで痛みを見出していく始末。
衿香は静かに耳を傾け続け、秋奈が語り終えると小さく笑った。
「そこ、秋奈ちゃんが不安がるところ? なんか変なの」
混じり気のない無邪気な笑み。大して特別といった表情でもない。言葉だけを捉えるならば、突き放した言い方に思われる可能性もあるだろう。
だとしても、その瞬間に秋奈の長い自問自答が終わりを告げ、暗雲を散らす救いの陽光が射したのは紛れもない事実である。
「合格するかどうか悩むのって、それあたしがするやつじゃん」
衿香の声が届くたびに救われていく。
もはや秋奈は衿香がいなければ生きていけない。会えない時間は人を変えるというが、時としてその変化は莫大なものとなることがここに証明された。
「変……うん、変だね私」
「でも、秋奈ちゃんのそんなところ好きだよ」
「えっ」
「あたしのことをいーっぱい考えてくれたからそうなっちゃったんでしょ? だから……すごく、嬉しい」
いつしか目前に迫っていた衿香の眼差しは、秋奈の全身へ抗えない欲望を呼び起こす。
愛しい存在を絡み取って己の物にしろと心が叫ぶ。
だが、隠す必要など微塵もない。
衿香は自分のすべてを受け入れてくれるのだから。
秋奈は欲求を視線に乗せ、衿香は潤んだ瞳で受け止める。
それが終われば、あとは引き寄せられていくだけ。重ねた唇が想いのすべてを伝えてくれる。
触れ合うことで生まれるのは膨大な安らぎと、そして欲望。離れていた間に思い描いていた理想の地図が示す座標はここにある。
荒くなる吐息と絡まる手と指。
二人の夜はまだ終わらない。




