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二月二十日 交際を始めるにあたって

 心地良い温もりの中、要はゆっくりと目を覚ました。冬の朝は身を刺すような冷気で満たされるのが四季の掟であるが、そんな法則もこの狭い空間には通用しない。

 誰よりも近い場所にいる愛すべき存在――沙織と共に包まれた布団が生み出す無限の熱によって、早くも朝から要の頬は染め上げられていく。


 愛しい人の無防備な寝顔。流れる黒髪はまるで額縁のよう。今この瞬間、自分だけが見ることを許された姿。

 眼鏡がないため視界は不明瞭だが、それは特別さを演出する舞台装置となる。他の余計な物を見ることなく、本当に視界を独占するべき人だけに焦点を合わせればいいのだから。

 それに裸眼なのは沙織も同じ。眼鏡をつけていない顔だって何度も見ているはずなのに、どんな芸術作品にも負けない輝きすら感じられてしまう。


「沙織……」


 半覚醒の意識に先駆けて本能が密着を求め、気だるい体を動かした。わずかな隙間さえも惜しく、既に近い距離を更に詰めて頬に触れる。徐々に生み出されていく新たな熱の誘惑を振り払うことは難しい。


 誘惑は同時に実感を与えてくれる。昨日の出来事は幻ではない。確かにあったことなのだと。

 想いが通じ合い、二人の関係が一歩先へと進んだことは揺るぎない真実。


 こうして一つの布団を分け合っているのがその証明。それ自体は以前も何度か経験していることだが、眠る前に唇を交わしたのは昨夜が初めてだった。

 特別だという実感は世界を変える。要の両目が細められている理由は眠気だけでは説明できない。


 体を寄せたまま見つめ続けていると、やがて沙織の瞼が震え始めた。


「ん、うぅ……」


 身じろぎは視覚だけでなく、触れたままの指先からも伝わってくる。急に無断の接触を後ろめたく感じた要は、手を引いて寒さから逃げるように布団へと潜らせた。

 けれど視線は外さない。ゆっくりと瞼が開かれ、瞳があらわになっていく様を一瞬たりとも逃さぬよう見届ける。


「あ、かなめぇ……おはよ」

「おはよう、沙織」


 ふんわりとした寝起きの声は、要の声までも優しくさせる。カーテン越しの薄日でもここまでの柔らかさは生み出せない。

 寝惚け眼で状況を把握できていない沙織と、そんな様子を愛おしく眺める要。今は偶然この構図になっているだけで、逆の立場になることもあるだろう。見せる姿も違うものになっているかもしれない。

 そんな何気ない時間として片付けられそうなやり取りを数え切れないほど積み重ねていきたい、と要は高まる熱の中で強く願った。


「かなめ……かなめだぁ……」


 一方の沙織は普段では聞けない声色を披露しながら、要へと手を伸ばしていた。頬に触れた指は存在を確かめるように這いずり回り、要の決意ごと意識を甘く溶かしていく。

 要は接触の瞬間こそ肩を震わせて困惑したが、次第にこのまま動向を見守っていたいという気持ちが強くなり、頬を含めた顔のすべてを差し出して沙織の成すがままになっていた。


 頬だけに飽き足らず耳や首までを弄んでいた指はやがてその動きを止め、密着面にたちまち熱を生み出していく。目覚めたばかりの沙織には窺い知ることもできないが、要は密かに与えられた仕返しに心を震わせていた。

 無意識に動いた自身の手に気付き、その意思に従って要は頬の熱源へと導いた。重なり合う二つの手。催促するように軽く握れば、沙織もすぐに接触対象を頬から要の手へと移して深く繋がる。


「要がこんなに近くにいる……」

「いるよ。一緒に寝たんだから」


 言葉は明確な形を持ち始めたものの、沙織はまだ夢見心地の様子。要はこの幸せな時間が現実なのだと伝えるように繋いだ手を握り直した。


「はわぁ……」

「どうしたの」

「なんか……すごく幸せだなあって」


 雰囲気で察していたとしても、言葉にしなければ答え合わせはできない。

 そういった意味では沙織の言葉が要の心に深く突き刺さったのも当然と言える。愛する人と同じ気持ちでいることの喜びを知るには短くとも十分すぎる声だった。


「私も、幸せだよ……」


 言葉だけでは静まらない想いに要の体は突き動かされ、沙織を抱き締めていた。もちろんそれで平静を得られるはずもなく、触れ合う面積の増大と比例して幸福と愛情は膨れ上がっていく。


 その速度は、沙織が抱き返してきたことで勢いを増す。愛する人に愛されている実感を制御するのは難しい。

 抱擁を交わしながら、時折短い言葉で愛を囁く。そんな時間こそが、一つの布団という甘い密室に篭もる二人にふさわしいと言えるだろう。









 朝食後、二人の間には探り合いの空気が漂っていた。

 布団が片付けられた部屋で隣り合って座ってはいるものの、その距離には微妙な空間がある。


 手は繋いでいない。だが動向を迷っているようなもどかしさは両者共通。視線も落ち着かない。

 目覚めの時とは明らかに異なる、いや寝起きの密着があったからこその空気と言うべきか。


 つまるところ、二人揃って気恥ずかしいのである。いざ付き合うとなった瞬間は舞い上がった気持ちに任せてなんでもできるような気分になっていた。

 しかし一夜明け、時間を置くと揺らぎが生じてしまった。寝起きにはそれがまだ薄く、本能が求める欲望が素直に出てしまったのだが、それを思い出すとまた照れが生まれ……


 とは言うものの、空気自体は悪くない。

 些細なきっかけさえあれば容易に転換できるであろう火種は消えていない。


「……ふふっ」


 要が小さな含み笑いと共に息を吐く。この奇妙な状況がなんだかおかしくなってしまったのだ。


 手を伸ばす必要もない。指を伸ばせば沙織に届く距離なのだから。ほんの少し動けば愛しい存在に触れられる近さ。

 ちょん、と様子見のつもりで触れた指。わかりやすいほどに体を震わせながらも、沙織が触れ返したことで指の本数は増え、要も応じることで更に増え。

 二人の手が繋がり、体を寄せ合うまでになるのはごく自然なことであった。二人が求める先が同じなら、回り道をしても結局はそこへと行き着くものなのである。


「今日も……泊まってくんだよね?」

「……うん」


 そのために前日、一度寮へと出向き沙織の必要な物を持ってきたのである。

 週が明けるまで二人の時間は終わらず、その先もたとえ世界中に他の人がいたとしても要と沙織の関係は続いていく。


「じゃあ、ずっとこうしていられるね」


 そう言って見つめれば沙織は顔を赤くしながら頷いた。その仕草が可愛く思え、愛しさが膨らんでいく音を要は強く感じる。

 布団という密閉空間から出ても、この部屋自体が外界と隔たれた二人だけの世界。生まれていく熱は二人で分かち合う。


「要と、ずっと……」


 呟きに合わせて、繋いだ手に力が込められた。求められている実感に要の中では更なる音が響く。

 自身も沙織を求めていることを伝えたいという欲求は行動となり、沙織の腕を抱き寄せた。


「ずーっと、だよ」


 恋愛の様式を誰に教わったわけでもない。それは二人とも共通している。

 それでも言葉や行動が出てくるのは、互いが相手を求め合うからこその結果。そうしたいからする。たったそれだけの単純明快な話を止める道理などありはしない。


 それから二人は穏やかな求め合いに時間を費やしていたが、やがて要がある違和感に気付く。

 誰よりも近くで、誰よりも沙織のことを見ている要だからこそ察した機微。

 沙織の呼吸や細かな動作の端に自然と浮き上がってくるのは、何かをためらっているような様子。秘められたその何かに、要は興味を抱いてしまった。


「沙織、どうしたの」

「えっ!」


 訊ねてみれば、答え合わせとばかりに沙織はわかりやすい反応を見せる。要と密着していなければ立ち上がっていたかもしれない。


「な、なんで?」

「なんでって、沙織が何かを迷ってるような気がしたから。違う?」

「うっ……」


 明確ではない返事こそが肯定の証明だった。 秘め事は場合によって賛否どちらにも傾く可能性を持つが、要は好意的に捉えている。

 それは前向きな意味合いでもあり、文字通りの好意を表すものでもある。


「何かあるなら言ってみて? 沙織のこと、もっと知りたい」


 それだけ言うと、要は沙織からの返事を待つことにした。その間もただ待つわけではなく、沙織の手をくすぐってみたり腕を撫でたりして甘い催促を続けた。

 もちろん沙織の顔から視線を外していないので、何かするたびに色を変える表情を要は余すことなく堪能できる。


「……あの、ね」


 百面相の果てに、意を決した様子で沙織が口を開く。そこまでの決意が必要な内容なのかと要も思わず身構えた。

 何を言われても受け入れるつもりではあるが、実行するには心と体の準備が必要になるかもしれない……と考えが広がっていきかけたのだが。


「……ぎゅって、したい」

「……ぎゅ?」


 不可解な言葉だった。

 いや、言葉が意味すること自体は理解できる。体の密着を求めているのは明白。


 それでも首を傾げてしまったのは、今まさにそれをしている最中だからであった。食事をしながら「お腹がすいたからご飯にしよう」と言われたようなものである。


「ぎゅって、今してるよね?」


 要がそう口にしたのも当然だろう。発言を証明するように沙織の腕を抱き寄せ、体を密着させる。

 強くなった接触に目を見開きながらも、沙織は慌てふためく口から言葉を紡いだ。


「してるけど……もっと、ちゃんとぎゅってしたい」

「ちゃんと」


 復唱しながら要は言葉の意味を探る。

 つまりは今のままでは満足できないということか、と察するまでに長い時間はかからなかった。


 現状も隙間がないほどの密着をしているが、それは半身に限った話。体全部を重ねているわけではなく、そのことに気付いた途端に要も寂しさと恋しさが同時に沸きあがるのを感じた。


「じゃあ……ちゃんと、する?」


 言い切る前に要の体は動き、沙織の体に手を回していた。

 抱き締めたわけではない。これは誘いと前段階。受け入れと進展の意思表示であり、望み通りの抱擁へと向かう通過点に過ぎない。


「……する」


 返事は短く、行動は大胆に。

 沙織も要の体に抱きつき、自らの体勢も調整して確かな接触を求めて。


 二人は望んだままの抱擁を交わした。微妙な距離を取っていた頃の面影はどこにもない。互いの脚までもじゃれついて愛情を確かめ合っている。


 身長の差があるため、普通に抱き合えば背が低い要は沙織の肩と胸の真ん中辺りに頭が落ち着く。

 しかし、座ったままの体勢ならば容易に頬を寄せ合える。触れ合う頬は最初こそひんやりとしていたが、すぐに温かくなり極上の羽毛を凌駕する柔らかさで包み込んでくれる。


 服越しでありながら心臓の鼓動だけでなく、沙織が呼吸をするたびに収縮する肺の動きさえもわかる気がした。

 呼応するように自身の脈拍も加速する。愛されている実感と愛している証拠は至高の媚薬。


 ここに至って、ようやく要は沙織の言葉が理解できた。

 たとえ食事中であっても、更に美味な料理を求めるのは当然のことなのである。


「要、あのね」

「うん」

「本当はずっと、こうしたかった」

「そっか」


 言葉が短くても態度は比例しない。沙織を抱き締める腕には強さが増し、明かされた想いで胸は歓喜に震えてしまう。


「じゃあ……これからいっぱいしよう」

「……いいの?」

「いいよ。私も同じだし、嬉しいし――」


 思えば告白をしてきたのも沙織であった。ほんの数日前にあったことが遥か昔のように思えてしまう。

 それほどまでに濃密で確固たる衝撃を沙織の言葉は与えてくれる。今この瞬間だって例外ではない。


 ならば自分もそれに応じたい。沙織が勇気を出して素直な気持ちを見せてくれたのだから、自分も同じように勇気を出すべきだ。

 沙織がためらう必要などないと思えるよう、導けるような存在でありたい。

 それこそが、手探りで探す恋人というものの一つの形ではないかと要は考えた。


「――だから、なんでもできちゃうよ?」


 至近距離で囁かれた言葉は直接沙織の耳を撫でる。反射的に強まった抱擁に味を占めた要は、短く何度も愛を囁いて沙織の反応を楽しんだ。


「やっ、要……」


 止まらない攻撃に耐え切れなくなったのか、沙織が顔を引いた。

 結果生まれたのは見つめ合う格好になれる距離。交わる視線は言葉に頼ることなく互いの意思を伝え合う。


 先に抱く力を少しだけ強めたのは要だった。次いで沙織が何度も目を瞬かせながら、不器用な動きで顔を近付けてくる。

 不慣れな挙動さえも要にとっては愛おしく、沙織のすべてを受け入れるために小さく首を傾けながら目を閉じた。


「……あ、っふ」


 単調な接触に、時折混じる啄ばむような動き。探り合いの域を出ないささやかな口付けを続けながらも、二人の呼吸には薄い声が混じりつつあった。


 ぼやけた思考の中、どちらからともなく唇を離していく。合図をしたわけでもないのに閉じた目を同時に開き、二人は互いの潤んだ瞳から視線を外せずにいた。


「要ってさぁ……」


 吐息と熱をふんだんに盛り込んだような声に要の鼓動は平静を失う。既に口付けで乱された思考にとって、それは実に効果的な一撃だった。


「目、綺麗だよね」

「……そうかな」

「すごく綺麗。吸い込まれそうな瞳って、たぶんこういうのなんだと思う」


 言葉だけではなく視線すらも揺るがない。沙織の攻勢に、要は堪らず目を逸らした。


「……恥ずかしい」

「可愛い」

「……それ、ずるい」


 言葉ではそう口走っているが、嫌悪感など微塵もありはしない。あるのは高揚感と幸福感。沙織に与え、与えられるという歓喜の渦から要は抜け出せずにいる。

 だからこそ、要は再び沙織と視線を絡め合った。逸らしていた目の端に沙織がそれを求めているのが映っていたから。


 そうなれば、再び言葉のいらない時間が訪れる。視覚を遮断し、二人は唇の感触に神経を集中させ続けた。


「わたし、一つわかったことがあるんだけど」


 目が眩むような時間の後に沙織が告げた言葉。要は促すことすらできず、霞みそうな意識の中でただ待つしかない。


「キスのとき、なんで目を閉じたくなるのかっていう理由」

「……私も、ちょうど今わかったかも」


 一瞬の間と、直後に訪れる微笑み。

 抱擁を交わすのは単純な欲求か、それとも赤く染まった顔を見られたくないという照れによるものか。

 その答えを知るのは要と沙織の二人だけでいい。


 だが。

 こうやって過ごす時間を一緒に共有していけるのなら、こんな幸せなことは他にない。

 それが二人の共通認識である、ということは明示しても構わないだろう。


 これからも、ずっと。

 要と沙織の絆が消えることはない。

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