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二月十九日 想いと共に重なる唇

 この日、要は決意を固めて通学路を歩いていた。土曜のため、授業は半日。午後からすべての時間を使うことができる。今週、今日までずっと考えていた想いに結論を出すために。

 当然ながら、沙織への返事である。あの日、沙織がどれだけ緊張していたのかが、今なら身に沁みて理解できた。


「沙織。今日授業終わったら……うち、来ない?」


 たったそれだけの言葉を告げるだけでも、口内は渇いて喉は詰まってしまう。その後に控えることを考えれば、背筋が過剰に張り詰める。


「いいの? 行く!」


 期待した通りの返事で、こんなにも楽な気持ちになれる。こんな苦しさを乗り越えて好きだと言ってくれた沙織に尊敬の念さえ抱き、やがて愛情へと変わっていく。

 沙織の気持ちがこの数日で変化していなければ、結果は明らかである。そして、要が見る限りでは沙織の様子は変わってなどいない。

 つまり、これは最初から勝ちが見えている八百長のようなものだ。主導権を握っているのは要なのだから、何も恐れる必要はない。


 そのはずなのだが、要はどうしても落ち着くことができなかった。授業に集中するなど無理な話である。気付けば隣に座る沙織を目で追っていた。

 板書を真面目にノートへ映す姿も美しく、要は自分を見失うほどに見惚れていたのだった。







 沙織は一度寮へ帰り、私服に着替えてから要の部屋にやって来た。要もこの日のために考えた最高の服で出迎え、普段よりも高価な紅茶を淹れる。

 見栄を張っているという感は否めないが、これ以外のもてなし方を知らない要にとっては受け入れるしかない。沙織が喜んでくれればそれで良い。


「……」


 ぽつぽつと続けていたはずの会話が途切れ、じんわりとした沈黙が場を支配する。居心地が悪いと言うよりは、互いに出方を窺っているような鋭さが溢れている雰囲気だった。


「あの……今日、呼んだのはね。この前の返事をしようかと思って」


 それだけですべてを察したのか、沙織の表情が硬くなる。釣られて要も緊張が溢れ出すが、ここで勇気を出さねばと己を奮い立たせる。

 目の前で固く結んだ唇を震わせている沙織に、要は考え続けた返事を告げた。


「沙織に好きだって言われて、嫌だとか気持ち悪いとか、そんなことは全然思わなかった。それよりも、私……嬉しいって思ったんだ」


 秋奈の言葉を思い出す。その人と一緒にいたいかどうか、単純に考えれば答えは出る。

 その通りだった。沙織とは片時だって離れたくない。それならば結論は一つ。


「でもね、私、付き合うとか恋愛とかそういうの、まだよくわからなくて……だから、どうしたらいいのかもわからなかった」


 問題はいくつもある。だが、そのどれもが沙織と共に乗り越えていけるものだという確信もある。


「だけど、私も前から他の人とは違う想いを沙織に持ってて……それが何か、ようやくわかったの」


 沙織との関係を新たなものへと変えるため、要はその一歩を踏み出した。


「私も、沙織のことが好き。こんな私でいいのなら、恋人に……してくれるかな」

「かな、め……」


 沙織の体がすぐ近くにある。こちらから手を伸ばすより先に、その長身に抱き締められていた。長い黒髪が頬を撫で、耳元では歓喜の囁きが奏でられる。


「こちらこそ……よろしく、お願いします」


 沙織の背中に手を回し、要は想いが通じ合った喜びに浸る。

 その幸せが沙織にも伝わるように、もう二度と寂しさで震えないように、強く力を込めながら。







「──うん。後で着替えとか取りに行くから」


 要の隣で、沙織は秋奈に電話をかけていた。今日はこのまま要の部屋に泊まることになったということを伝えるためである。


「えっ? そ、そんなこと……もう! とにかく後でね!」


 何を言われたのか、沙織は早口にまくし立てて通話を切った。秋奈の性格からして、少し刺激的なことでからかわれたのだろう。


「秋奈さん、なんだって?」

「おめでとうって言ってた。それと、むしろ帰ってくるな。週明けまで二人の時間を大切に過ごせ、とか。あとは……えっと」

「あとは?」

「……なんでもない」


 なぜか頬を染めて目を逸らされてしまう。不思議に思って顔を覗き込むと、更に俯いて逃げてしまう。その自分を意識してくれている証拠が嬉しく、また沙織のことが愛しくなる。

 すぐにでも手を伸ばして抱擁を交わしたくなるが、そこで要は戸惑う。恋人という関係になった今、その行為は今までとは別の意味合いを含んでしまうのではないかと。

 結果、要も沙織の顔をまともに見ることができずに俯いてしまう。


 横目で互いの様子を窺う二人。どちらかが流し目を送れば、示し合わせたかのようにもう一方も視線をぶつけてくる。最初こそすぐに目を逸らしてしまうが、徐々に絡み合う時間が長くなっていた。

 顔を上げて見つめ合うと、どちらからともなく手が伸びて繋がった。そこから腕、肩と触れ合う範囲が広がっていく。最初に脱力したのは沙織の方で、要の胸へ音もなく体を委ねてくる。間近で潤む沙織の瞳は、今までに見たこともない輝きで満ちていた。


 瑞々しい唇が、何か言いたそうに小さく開いている。沙織の口元へ視線を落としながら、要は無意識に自分の唇を湿らせていた。以前屋上で目撃した彩と悠希の姿が脳裏に浮かぶ。あれが恋人同士の特別なことなのか。

 沙織は何も言わず、切なげな表情のまま要を見上げていたのだが、そこでゆっくりと瞼を閉じてしまう。これが何を求めているのかは要でも理解できた。だが、それで体が動くかどうかは別問題である。

 要の頭は真っ白になっていた。沙織の唇へと向かう自分を、どこか遠くで見つめているような感覚。あと少しで薄桃色の弾力が重なり合う。


 その時だった。

 沙織の携帯電話が震え、我に返った二人は体を離してしまったのだ。自分が何をしようとしていたのかを急激に理解し、走り出したいようなむず痒さが全身を巡る。

 向こうでは、沙織が電話を取っていた。


「も、もしもし? あ、うん──じゃあ、お願い。えっ? ど、どうだっていいでしょ!」


 それからいくつか相槌を重ねて、沙織は電話を置いた。視線がぶつかると、色々な感情が混ざって弾け飛び、それは照れ笑いとなって表に出る。


「電話、秋奈さんから?」

「うん。ちょうど寮監さんに会ったから、代わりに外泊の手続きしとこうか、だって」


 後ほど夕食の材料を買うついでに寮へ寄る予定だったのだが、その時にやることが一つ減ったことになる。

 予期せぬ電話で雰囲気が一変したが、要は今でも沙織の唇を意識してしまう。あのまま流されていたら、間違いなく初めての経験をしていただろう。

 決して嫌ではない。沙織も同じように、恋人同士の特別を求めてくれるのだろうか。期待は限界など知らずに膨れ上がるばかりだった。







 夕食と入浴を終えても、まだ今日は終わらない。パジャマ姿の二人は穏やかな時間の流れに身を任せていた。

 何をするでもなく体を寄せ合い、時折思い付くままに会話を交わす。今までもしてきたことなのに、それとは比べ物にならないほどの安らぎを感じていた。


「ねーえ、要」

「うん、なあに?」


 沙織の甘い囁きを耳にするだけで、全身の力が抜けていくような心地良さに浸れる。


「わたしたち、恋人同士になったんだよね?」

「うん。ずっと一緒だよ」


 繋いだ手に力がこもる。右隣の沙織から伝わる体温が上昇したようにも思えた。雰囲気が色付くのを全身で感じながら、要は沙織の頭に手を置く。


「沙織……さっきの続き、する?」


 髪を撫でながら言うと、沙織は見る間にその頬を染め上げて俯いてしまった。そんな照れ隠しの仕草が、ますます要の心に灯る炎を燃え上がらせる。


「それとも、そういうことは……したくない?」

「そういうわけじゃ、ない」


 顔を上げてくれない沙織の耳に向け、要は吐息混じりに囁く。言葉は考えるよりも先に口から出ていた。


「私は沙織のことが好き。沙織は?」

「んっ……好き」

「それなら、何をしたっていいんだよ。色んな沙織を知りたいし、理解したいって思ってる。沙織がしたいことは、なんだって叶えてあげたい」

「……なんか、すごく積極的だよ。そういうの、照れる」

「だって、あの日沙織が私に好きって言ってくれた時……いっぱい勇気出したよね? だから、今度は私が頑張る番かなって」


 そう告げると、ようやく沙織がこちらを向いてくれた。耳まで真っ赤になっているが、自分も同じような状態だからおあいこだろう。困ったように細められた瞼の奥で、潤んだ瞳がこちらを見ている。


「要、可愛い……なんか今、とってもキュンってしたよ」

「そんなこと言われたら、私だって恥ずかしいんだから……でも、沙織ともっと仲良くなりたいから私──」


 そこで要の言葉は止まった。沙織の指が、喋ろうとする唇に触れたからである。


「──うん。ありがとう。もう大丈夫」

「……」


 沙織の指が滑り、頬を撫でられる。微かなくすぐったさが心地良く、唇が僅かに開いてしまう。


「要……いい?」


 問いかけには言葉なく頷き、要は沙織の視線で射抜かれて動けなくなった。ゆっくりと、沙織の顔が距離を詰めてくる。

 不器用な二人は瞬きを忘れ、互いにその様子を観察し続けていた。それでも唇が近付くにつれて自然と瞼が重くなり、最後には共に目を閉じていた。緊張のあまり、呼吸まで我慢している。


 ──そして、二つの唇は重なった。


 数秒にも満たないほどの、短い口付け。それでも沙織の唇が持つ潤いと柔らかさは、要に十分過ぎるほど伝わっていた。そっと目を開くと、沙織も余韻を楽しむように唇を震わせている。

 目が合って、微笑み合う。言葉などそこにはなく、それが当然の流れであるように再び唇を重ね合った。熟練の技法など持ち合わせてはいないが、沙織を想う気持ちが動きを手助けしてくれる。


 背中に手を回して体が離れないように抱いてから、啄ばむように唇を触れては離す。たったそれだけの単調な動きであるが、二人の呼吸は熱を帯びたものへと変わっていた。何回かに一度漏れる短く湿った音は、要の心音を激しく打ち鳴らす。

 思考のすべてが沙織で覆い尽くされ、全身を甘い痺れが支配する。沙織の唇へ触れるたびに力が抜けていき、最後には動けなくなってしまった。


 そうして肩で息をしていると、沙織の体が静かに落ちてくる。回されていた手をそのままに、要は抱き締められていた。強い抱擁に、こちらからも応える。


「沙織……」

「その……変じゃ、なかった?」

「全然そんなことないよ。すごく嬉しかった」

「よかったあ……ふふっ」

「沙織は?」

「わたしも嬉しかったよ。とっても」


 囁く声が、そこで一段と小さくなる。ほとんど吐息と大差ない声で、その言葉が届けられた。


「要、大好き」

「うん……私も好き。大好きだよ、沙織」


 そしてまた、抱く腕から温もりを感じる。最大級の幸せに包まれながら要は誓う。

 これから先どんなことがあっても沙織を愛し続ける、と。

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