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一月十九日 仕組まれた目撃と予想外の衝撃

 彩たちに背中を押されて考えをまとめた結果、沙織は精神的に自信を持てるようになっていた。そのおかげで、要に接する態度もぎこちなさが消え、以前のように触れ合うことも多くなっている。

 そう。多くなっていたのだ。


「今日のお弁当も、とってもおいしそう」

「そろそろ二人分作るのにも慣れてきたからね」


 昼休み、いつものように中庭で食事をする二人の姿があった。木の机を前にして、二人は長椅子に隣り合って座っている。晴れた日中でも感じる寒さを和らげるように、その体を寄せ合っていた。

 反対側にも椅子はあるのだが、そちらを使って要から離れる気など沙織にはない。こうしてすぐ近くに要を感じることが嬉しいからである。


「ほら、沙織が好きな玉子焼きもあるよ」

「ホントだ。食べたいなー」


 そう言って、沙織は要の方を向いて口を開ける。自分では箸を持たず、餌を待つ小鳥のような眼差しを放ちながら。


「しょうがないなあ。はい、あーん」


 要も慣れたもので、玉子焼きを沙織の口元へと運んでいた。そのまま沙織が食べ終わるまで視線は外さない。


「……んっ。やっぱりおいしい」

「ありがとう。そう言ってもらえると作り甲斐があるよ」

「こんなお弁当を作ってもらえるわたしは世界一の幸せ者かも」

「大げさだよ」

「そんなことないってばー」


 そう言って沙織は繋いだ手を握り直す。


「褒めても何も出ないんだからね」


 そうすれば、要からも握り返してくれる。絡まる指先に触れる手の甲は温かい。

 沙織が要の隣に座る最も大きな理由がこれである。利き手が異なる二人だからこそ、どんな時でも手を繋ぐことができる。机の陰に隠された手は、誰の目にも触れることはない。どれだけ絡み合っても、それは二人だけの秘め事となる。

 それを共有していることが嬉しく、そして要が受け入れてくれることもまた沙織の喜びとなっている。要との距離が縮まったことを感じ、沙織の秘めた想いは更に膨らんでいくのだった。







 放課後、沙織と要は下駄箱に向かって廊下を歩いていた。もちろん下校するためであるが、この時既に状況は動き始めていた。


「あれっ、彩だ」


 不意に沙織が発した言葉。それが皮切りとなる。


「どこ?」

「あっちの階段の方。なんだかキョロキョロしてたみたいだけど」


 言いながら沙織が示した時には、もう彩の姿はそこにはなかった。


「どうしたんだろう。あっちに用事があるなんて珍しいね」

「ねえ、ちょっと彩の後を追ってみない?」


 この言葉に要が乗らなければ今日は失敗となる。そんな懸念さえあったのだが、どうやら要も乗り気であるらしい。


「そうだね。気になるし」

「よーし、じゃ早速」


 第一段階の突破に安堵しつつ、沙織は要を連れて彩が消えた階段へと向かう。追っては消える後ろ姿に釣られて上階へと進んでいくと、次第にその行き先が明らかになってくる。


「この先って、屋上だよね?」

「うん。でも確か扉には鍵がかかってるはずだけど」


 要の言葉は正しく、安全上の観点から通常は屋上への扉は施錠されている。そこを開ける鍵の所在は職員室か、用務員室か、果ては保健室である、などという噂が飛び交うほどに捉えどころがなく、開かずの扉として語られている。


「何しに行くんだろう……」


 実際はその答えを知っていながら、沙織は呟きを落とした。要を騙しているような気がして、少しだけ心が痛む。


 そう。これは先日話していた「要が女性同士に抵抗がないか」を確認するための作戦である。

 この後、彩を追って屋上の扉前へと辿り着いた二人は、何故か開いている扉の隙間から逢瀬の場面を見てしまう──そんな筋書きが待っている。

 そこで彩と悠希がどのような光景を見せてくれるのか、詳細は沙織も知らされていない。ただ、悠希の「ご期待ください」という意味深な言葉だけがそこにある。


 計画通り、屋上へと続く扉の前までやって来た二人。周囲を見渡して誰もいないことを確認している要を尻目に、沙織は扉にそっと手をかける。


「あれっ、開いてる」


 予定調和の言葉と共に、要と二人で覗ける程度の隙間を作る。物音を立てないよう注意しながら、屋上へと消えた彩を探す。見当たらなければ、更に扉を開いて視野を広げて探索を続けた。

 そうして見付けた彩と悠希は、屋上の中心で抱擁を交わしていた。


「……」


 沙織も、要も、言葉を忘れてしまったかのように息を飲む。突如現れたその光景に目を奪われてしまっていた。

 冬の風に揺れる悠希の髪は、その胸に体を預ける彩に降りかかる。抱き寄せた彩の髪を撫で下ろす悠希の表情は、見たことのない穏やかさで目を細めている。離れたこの場所までも、寒さを吹き飛ばすような温もりが伝わってくるようだった。


 わずかに体を離した二人は、そのまま視線を絡めている。恥じらうように頬を緩めながら目線を逸らしては、また見つめ合う。何度も繰り返すその動きは、彩の頬に手を添えた悠希によって終わりを告げた。

 二人を包む空気の色が変わったのは、沙織にもわかった。要も同じようで、気まずい様子をそのままに視線を泳がせている。


「えっと……これって、さ」

「わたしたち、ここにいていいのかな……」


 ここまでするとは、沙織の予想を超えていた。せいぜい軽いスキンシップ程度だろうと甘く見てしまっていた。

 向こうは見られていることを知っているはずなのに、どうしてあんなに過激なことができるのだろう。見ている方が照れてしまう。


「ど、どうしよう」


 要も答えを出せずにいるようだった。その間にも悠希と彩の距離は縮まっていく。互いの吐息すら感じられそうなほどに近い。何が起ころうとしているのか予想できるだけに、対策が思いつかない。


「わたしに訊かれても……」


 そう答えながらも、沙織はその光景から目を逸らすことができずにいた。好奇心とでも言うべきか。女性同士の営みをこの目で見ておきたいという気持ちが強くあったのだ。

 盗み見ているという背徳感、しかし向こうもこちらがいることを理解した上でしているのだから、そんなものを感じる必要はないのかもしれないという願望。


 悩み続ける沙織に向けて、悠希の流し目が届く。普段の雰囲気とはかけ離れた妖艶さが滲み出ている。自信たっぷりに釣り上げられた口角は何を意味しているのか。

 推測する前に、その唇は塞ぎ隠されていた。


「あっ」

「わぁ……」


 思わず声が零れていた。要もそれは同じようで、目の前で繰り広げられる口付けに目を奪われている。驚きや焦りという感覚を全て吸い取られ、放心に近い形で二人はその光景を眺め続けていた。

 唇を重ね合わせている二人は、時折細かい動きを見せながらも、なかなか離れようとはしなかった。少し見えにくいな、と沙織が考えていると、それを察知したかのように角度が変わり、繋がった唇が明確に見えるようになった。

 互いの唇を挟み、吸う微弱な動きまで、眼鏡で矯正された視界に映り込む。熱い息遣いまでも聞こえてくるかのような錯覚。


 知らず、自分自身がその吐息の発生源となっていた。それに気付いた沙織は急いで口を噤み、要に悟られていないか窺う。

 口元に手を当てて俯きそうになる顔を押さえながら、やや上目遣いにその場面を見続けている。瞬きが多めに繰り返され、そのたびに綺麗な曲線を描く睫毛が揺れていた。


 いつまでも終わる気配がない二人の営みに、沙織の方が限界を迎えてしまう。染まった頬をそのままに扉を閉じ、言葉もなく要の袖を引いて階段を下りていった。







「部屋、来る?」

「うん……」


 そんな必要最低限の言葉だけを交わしながら、沙織は捉えどころのない浮遊感を抱えていた。このまま帰る気にはなれないような、自分でも正体のわからない感情。とにかく今は、誰の目にも触れない場所で落ち着きたかった。

 だからこそ要を部屋へと誘ったのだが、あのような光景を目の当たりにしてある種の色に染まった雰囲気の中で声をかけるということは、深い意味を持ってしまうのではないかという心配をする余裕すら沙織にはなかった。


 自室の扉を開けて中へ入った途端、沙織の肩が軽くなった。好都合と言うべきか、秋奈の姿もない。深く長い息を吐き、虚脱感と共に床へと腰を下ろす。


「あー……びっくりした」

「なんか、すごいの見ちゃったよね……」


 胸元に手を当てて視線を斜め下に落とす要は、当然のように隣へと座ってくれる。普段ならすぐにでも手を繋ぐのだが、今はそんな余裕すらない。要もそれは同じなのか、沙織の様子をちらちらと窺っている。


「彩と泉沢先輩が付き合ってるのは知ってるけど、やっぱりああいうことしてるんだね」

「うん。恋人同士なんだなってはっきりわかった」


 時間が経つにつれ、いくらか気持ちも落ち着いてきた。冷静になってみると、今なら話の流れを良い方向へ運べそうだ。


「要は……ああいうの、どう思う?」

「ああいうのって?」

「ほら、女の子同士で付き合うってこと」


 何気ない風を装って繰り出された質問に、要はしばし考える素振りを見せる。


「うーん、そうだなあ──」


 要が次の言葉を考えている間、沙織は未だ平静を保ってはいられなかった。目の前で繰り広げられたあの口付けは、心を乱すには十分過ぎる材料だった。そして、その行き着く先は決まっている。

 要とも、そういうことがしたい。唯一の特別な存在という証が欲しい。


「──別に、嫌だとか変だとかは思わないよ。誰を好きになったっていいと思う」

「そう、なんだ」


 安堵している自分に気付き、要に悟られていないかと気が気でない。そんな不安を覆い隠すように続けて質問を投げる。


「じゃあ、抵抗とかもない?」

「ない、と思う」

「それなら……要は、女の子をそういう目で見られる? 告白とかされちゃったら、どうする?」


 再びの沈黙。視線を落として考えている要の様子を、沙織は穴が開くほどに見つめている。それは要に察知されることを考えていないほどに無防備なものだった。

 幸いと言うべきか、熟考している要は沙織の視線に気付いた様子はない。結論が出たようで、その顔がこちらを向く。


「好きって言われたら嬉しいし、ちゃんと考えて返事をする……かな」

「そっか──」


 良かった、と心の中で呟く。

 否定的な考えは持っていないと知り、沙織の道筋から一つ障害物が取り除かれた。希望を持つことを許された気分に胸が躍る。


「ところで、さ」


 床に手を突き、身を乗り出すような姿勢で要に迫られる。顔が近い。


「沙織はどうなの? 私ばっかり答えてたら不公平だよ」


 どこか悪戯心を漂わせるような笑みと共に、そんな言葉をぶつけられた。


「えっ、わ、わたし?」

「そう。教えてほしいな。沙織がどう思ってるのか」


 まさかこちらの真意を見抜かれたのだろうか。屋上の件といい、要の言葉といい、予想外の事態が続き過ぎている。

 しかし、と沙織は考える。これは好機ではないか。こちらも抵抗がないことを打ち明けておけば、それが要を意識させる火種になるだろう。


「んっと、私も別に嫌とか考えてないよ。むしろウェルカムだね」

「へえー、そうなんだ」


 楽しそうな声の真意はわからない。身を引いて沙織の言葉を噛み締めるように微笑む要の姿を、良い方へと解釈してしまわないよう抑えるので精一杯だった。


 それでも、期待を抱いてしまうのは防げない。

 こんな質問をしてくるということは、既に自分はある程度意識されているのではないか、と。

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