一月十六日 動揺と恋心の自覚
翌日、沙織は待ち合わせの時間より少し早く集合場所に着いていた。周囲を見回し、要がまだ来ていないことを確認する。
「……ふう」
気持ちを落ち着かせようと意識して呼吸をしてみた。しかし効果は薄いようで、視線と鼓動は忙しなく慌ただしい。
昨夜秋奈に真意を指摘されたせいか、要と会うだけなのに動揺が隠せない。髪型や服装におかしな所がないか、何度も確認しては秋奈に呆れられた。
それでも早起きしてしまったせいで、時間は十分に余っていた。部屋にいるのも落ち着かず、こうして早めに出てきたのである。しかし、それで平静が取り戻せるというわけでもない。
落ち着かない自分を隠すように、街に背を向けて壁と対面する。あからさまな仕草は余計に人の視線を集めることにもなりかねないが、悩む表情を見られるよりはましだった。
電話では普通に話せていた。それなのに、今こうして気持ちがざわめいているのはどうしてなのか。要と会えるのだから嬉しいのは当然なのに、顔を向かい合わせるのが怖くもある。
秋奈が放った特別という言葉。それが意味するところが完全にわからないというわけではない。ただ、それが確実なものなのかという自信が持てないでいる。同性に対する感情として正しいのだろうか。
思い悩んでいる時点で答えが出ているようなものだが、沙織はそれすら気付かずに出口のない迷路を堂々巡りしていた。
そうして自分でもわからないほどの時間を費やし、とにかく会ってみなければわからないと強引に結論付けて顔を上げると、目の前に要が立っていた。
「あっ……」
ほんの一瞬、時間が止まったような感覚を味わう。もちろんそれは錯覚で、すぐに要が声をかけてくれる。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「いや、えっと」
咄嗟に言葉が出てこない。要の姿が眩しくて直視できない。じっとしていられない。
「どうしたの沙織?」
顔を覗き込んでくる上目遣いのせいで何も考えられない。
「な、なんでもないよ。おはよ、要」
要、と名前を呼んだだけで跳ねる鼓動の意味がわからない。
「そう? ならいいけど……」
完全に納得したとはお世辞にも言えない表情をしているが、要は一応の納得をしてくれたらしい。「じゃ、行こっか」と目的のファミレスに向かって歩き出したので、沙織もその後を追う。
以前、デザートのサービスをしていた頃にも来た駅前のファミレスに入った。休日の昼ということもあってか、店内は賑わっている。窓際の席へと案内された二人は、特に迷うこともなくランチメニューを注文した。
注文から提供までが短時間というのがこのファミレスの売りであるが、多数の客を少人数で回しているせいか料理がなかなか来ない。
そうなると、必然的に沙織は手持ちぶさたとなってしまう。要に話しかけようとは思うのだが、何を話すべきかと迷ってしまう。普段なら深く考えることなく会話を盛り上げられるのに、今日はそれができない。明らかに異常だった。
思考と共に巡る視線が要とぶつかる。何か言わなくては。
「あ、あの」
「うん?」
「最近、寒さが厳しくなってきたよね」
「ほんとにね」
「うん……」
そして訪れる沈黙。居心地が悪いというわけではないのだが、どうにも落ち着かない。要はどう思っているのかと不安になる。
気付かれないよう、そっと要の様子を窺う。首をわずかに傾げながら、眼鏡の奥から視線が注がれているのがわかる。不思議がっている表情だ。
料理さえ来れば、食べるのに集中できる。早く来いと願うほどに時間の流れが遅くなっている気さえした。
「沙織」
「うぇっ?」
突然の自分を呼ぶ声に、思わず変な声が出てしまう。
「飲み物、何にする? 持ってくるよ」
要の言葉から数秒遅れて、ランチメニューにドリンクバーが付いていたことを思い出した。これでいくらか時間稼ぎができると、沙織は秘かに緊張を解く。
「じゃあ、コーヒーで。種類はなんでもいいよ」
「わかった。ちょっと待っててね」
ドリンクバーへと向かう要を見送り、沙織は他意もなく両側の席を見る。
どちらも団体が占拠しており、店内の喧騒を維持するような話し声を絶えず放ち続けている。沙織たちのことを気にしている様子は微塵も感じられない。
周囲にどう見られているか。それをこの場所で意識することは無意味なのだろう。他者は思ったほどこちらを気にしてはいない。それは自分の立場から考えてもわかる明らかなことだ。
ならば、普段通りに要と接することも不可能ではないかもしれない。変わることなく、いつものように。
「んー……」
それはつまり、普通ということ。普通とは何か。自分はいつもどうやって要と接してきたのだろう。意識して考えることもなかった問題に直面し、いつにも増して答えが見出せない。
周囲に向いていた意識は収束し、自己の中へと閉じ込められる。
「沙織、コーヒー持ってきたよ」
「ひぁっ?」
そのせいで、要が戻ってきたことにも気付かなかった。余計に動揺が増す。
「あ、ありがと」
どんなコーヒーなのかも確認せず、沙織はカップを持って一口飲んだ。ふんわりと感じる香りに続き、濃厚な苦みが口の中に広がる。
「んぐっ……」
熱さだけではない理由で舌が痺れてしまった。
「ブラックでよかったかな? 一応ミルクと砂糖もあるけど」
要はそう言ったが、なんとなくそれを使う気にはなれなかった。
「大丈夫……このまま飲む」
そして再び広がる苦み。ブラックを飲んだのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。
慣れない刺激に耐えながら、沙織は少しずつ飲んでいく。濃厚な味わいの影響か、思考が明瞭なものへと変わっていった。
要の様子を窺うと、どうやら紅茶を飲んでいるようだった。既にパックを取り出しているので正確なところはわからないが、色の具合から見てアップルティーか何かだろうと推測する。
ふと、紅茶を飲み終えた要と目が合った。
数秒そのまま固まってしまい、最後はこちらから逸らしてしまった。もっと見つめ合っていたいのに、体は正反対の方向へ動いてしまう。
「おかわり持ってくるね」
要はそんな沙織の様子を気にしていないかのように、再度ドリンクバーへと立った。
「……はぁ」
これではいけないと、心の中ではわかっている。しかし体が追い付かない。折角の時間が変な雰囲気に包まれてしまう。それだけは避けなければいけないのに。
こちらに近寄る人の気配を察知し、沙織は勢いよく顔を上げる。しかし、そこにいたのは要ではなかった。
「お待たせしました。ランチセットが二つでございます」
淡々と料理を並べる店員の動きを目で追っていると、要が戻ってくる。
「あ、料理来たんだ。食べよ?」
要の合図で、沙織もフォークを持った。洋食レストランという体面上、箸は用意されていない。机に並ぶ二つのランチメニューは、内容も食材の配置も転写したかのように同じである。低価格を売りにしている故の大量生産か。
しかし、慣れ親しんだ味は簡単に舌へ馴染んでいく。空腹だったこともあり、料理はどんどん沙織の口へと放り込まれていた。
視線を感じて顔を上げると、要がこちらをじっと見ている。頬を緩めたその表情は、ずっと見ていたくなるほど優しく温かい。
「おいしそうに食べてるね」
「そ、そうかな?」
「うん。沙織が食べてるとこ見るの楽しい」
「見られてたら、なんか恥ずかしいよ……」
眼鏡を直す素振りをしながら、沙織は目を逸らす。その時感じていた照れは、不思議と居心地の良いものであった。むしろ安心さえ覚えている自分に気付く。
「いつもの沙織に戻ってきたね。よかった」
「えっ?」
沙織が顔を上げた時、要は一口大に切ったハンバーグを食べていた。咀嚼を終え、飲み込むまでの時間が長い。
「また何か、悩み抱えちゃってる?」
要に隠し事はできない。それは以前からわかっていたことのはずだった。
人の気持ちに敏感で、些細な変化も見逃さない。自分に似たその鋭さは、沙織の気持ちまでも見抜いているのかもしれない。
「……えっと」
「私で力になれることがあったら、なんでも言ってね?」
それならば、今ここで秘めた想いを打ち明けても良いのだろうか。周囲に騒音が飛び交う、穏やかな雰囲気とは無縁の場所だとしても。
そして、要はそれを受け取ってくれるのか。それこそが最大の望みであり、要が力になれることである。
想いを伝えたい。
しかし、拒絶される可能性という問題が、踏み出す先の足場を奪う。
もはや沙織は自身の気持ちに目を背けることができなくなっていた。気付かない振りをしていた代償が、不可視の真綿となり全身に絡み付く。
「……うん。ありがとう」
沙織が初恋を自覚した瞬間だった。
要のことが好きなのだと、今なら明確にわかる。
「ただいま……」
寮の自室へと戻ってきた沙織は、どこか疲れたような陰のある表情をしていた。
「おかえり。楽しんできた……とはいえないような顔してるね」
「いや、そんなことはないんだけど」
「けど?」
秋奈の短い質問には答えず、沙織は自分の椅子へ腰を下ろした。
同時に溜息が零れる。不快というわけではない。むしろ心は高ぶっている。
ただ、初めての感情をどう扱うべきなのかがわからない。しかも対象が同性の友人に向けてのものであるという事情もある。
わからないこと尽くしで、沙織も何をどうすればいいのか手の打ちようがなかった。
「──あのね、秋奈」
「ん?」
こちらから話すまで待っていてくれたことに心の中で感謝しつつ、沙織は秘めた想いを打ち明けて相談しようと決めた。自分一人で抱えていては、いつまでも進展が期待できない。
それならば、信頼できる親友に何か言ってもらいたい。
年末に聞いた話が正しければ、彩と悠希が交際していることを秋奈は既に知っているはずだ。その上で以前と変わらぬ姿勢で彩たちと接しているのだから、そういったことに抵抗がないのだろう。
そんな希望的観測にも頼りたくなるほど、沙織は先が見えなくなっていた。
「あのね、引いたりしないで聞いてほしいんだけど……」
「引かないよ。言ってごらん」
予防線としての発言にも、寛大な言葉を返してくれる。やはり秋奈は唯一無二の友だと再認識する。
「わたし、要のことが──」
初めて口にする自分の気持ち。言葉にすれば、そのまま大気に溶けてしまいそうな錯覚に陥るが、それでも秋奈には聞いてほしかった。
握り締めた掌と強張る背中に走る冷や汗を感じながら、続く言葉を絞り出す。
「──好き、みたい」
秋奈は何も答えない。声が震えていたのだろうか。明確に届かなかったのだろうか。こんな気持ちは予想の範囲を超えていたのだろうか。
不安ばかりが渦巻いていく。何か言ってくれれば、こんな思いはすぐに消えるのに。
「そっか」
待ち望んでいた言葉は、そんな短いものだった。必死の告白に対する返事としては、あまりにも拍子抜けである。
しかし、それだけでは終わらなかった。秋奈が沙織の方へと歩み寄ったのである。その頬笑みは、沙織がこの部屋へ初めて来た頃に向けられたものと似ていた。
「やっと自分の気持ちに気付いたんだね」
その声を聞いた瞬間、沙織の頭が撫でられていた。間近に接近した秋奈の手から、絶えず心地良い刺激が送られる。
「要さんと、友達以上になりたい?」
あっさりと自分の希望を見抜く秋奈に対し、沙織は打ち明けて良かったと心の底から安堵した。張り詰めていた心が緩み、秘めた想いが溢れていく。
「うん……要の特別になりたい。でも、どうしたら」
「さっき、私に言ったことを要さんにそのまま伝えればいいんだよ。大丈夫。きっと要さんなら沙織の気持ちを受け止めてくれる」
「けど、言えないよ……こんな気持ち」
秋奈の言う通り、要なら真剣に考えてくれるだろうと沙織も信じている。しかし、万が一という考えを捨てきれない。想像上の物語は、常に悪い方へと流されていく。
「それなら、ずっと今のままでいいの?」
そんなことを考えていた時期もあった。けれど、今の沙織はそれだけでは満足できなくなってしまっていた。それこそ、独占欲ともいえるような思考すら芽を出している。
先へ進みたい。それを願いながら、沙織は首を横に振って答えた。
「だったら、ちゃんと言わないと。でも、勇気が出ないってのも仕方ないことだし──」
言葉が途切れたので、伏せていた顔を上げてみた。思いのほか秋奈の顔が近くにあり、体を引いてしまいそうになる。
しかし、そうする前に秋奈の方が離れていた。自分の椅子へと戻り、沙織と向かい合う形になる。
「しっかりサポートしてあげるからね。私たちが」
「わたし、たち?」
首を傾げる沙織の前で、秋奈は肘掛けに頬杖を突き、脚を組んだ姿勢で頷く。
「そう。私と、彩と、泉沢先輩」
「……えっ?」
事態の把握が追い付かず、沙織は怪訝な表情を作ることしかできなかった。




