十二月二十五日 秋奈と衿香のファーストキス
「──んっ」
衿香よりも先に目覚めた秋奈は、ぼやけた意識の中で体を動かす。昨夜繋いだ左手が今も離れていない。固く結ばれた手は容易には離れそうもなかった。
「はあ……」
計画が頓挫しそうなことを察知し、秋奈は小さく溜息をついた。
首を動かすと、すぐ近くに衿香の寝顔があった。秋奈にとってはこの世で最も貴重な、愛しい女性の無防備な姿。
思わず自由な右手が動き、その頭を撫でていた。衿香の髪はその活発で明るい性格を表すように短いけれど、その小さな体に秘めた弱さを秋奈は知っている。
「えりかぁ……今日もかわいい」
自分だけが知っている。自分が衿香にとって特別な存在であるという喜び。その気持ちを抑えられなくて、秋奈は衿香を愛でてしまう。
やがて、衿香が目を覚ました。しばらく意識がはっきりしないようだったが、数秒もすれば自分が置かれた状況を理解したようで、驚いた声を出す。
「あ、秋奈ちゃん? 何してるの?」
「何って、衿香の寝顔を見ながら頭を撫でてたんだけど」
その頃には秋奈も完全に目覚めており、余裕を持って答えられた。数分前の甘い声は今ではその片鱗すら窺えない。
「うう、恥ずかしいよ……」
衿香は顔を布団に潜らせてしまう。
「出ておいでよ」
「やーあっ」
「もう、ほらほら」
「……ん」
再び頭を撫でられ、満更でもない声を出す衿香。その姿がまた、秋奈の歯止めを利かなくさせている。
午前七時。二人は未だ布団から出てすらいない。
そんなやり取りを終え、ようやく布団から抜け出した秋奈は自分の鞄を探っていた。目当ての物に触れ、手を中に入れたまま衿香に声をかける。
「衿香、メリークリスマス」
言葉と同時に出した手には、小さな箱が乗っていた。本当は衿香が眠っている間に枕元へ置くつもりだったのだが、その計画は既に崩れている。
「え、これ……」
「衿香へのクリスマスプレゼントだよ」
大きく見開かれた衿香の目。秋奈の顔と箱を交互に見ては、抑えきれない期待と感動を振りまいている。
「開けてもいい?」
「もちろん」
衿香は箱の封を切って開ける。その慌ただしい手つきを見ている秋奈の表情は緩んだままであった。
「わあ……」
中に入っていたのは手袋だった。グレーの下地に縫い込まれた、赤と黒の模様。衿香は手にとってその感触を確かめている。
「ほら、今は冬だし、寒いからさ」
秋奈の言葉も耳に入らないのか、衿香は心ここにあらずといった様子で手袋を眺めている。
「これ、つけてもいい?」
「いいよ」
衿香は秋奈の視線を窺いながら手袋を付ける。
「あったかい……」
「でしょ? 使ってくれると嬉しいな」
「もちろんこれから毎日使うよ!」
「大げさだなあ……」
それが秋奈の願いだったとはいえ、いざ叶うと気恥ずかしくて視線を逸らしてしまう。たまに横目で見ては視線が重なり、またそっぽを向く。
「あのね、秋奈ちゃん」
「ん?」
「あたしも、秋奈ちゃんにプレゼントがあるんだ」
「えっ?」
驚きの声を上げた秋奈を前にして、衿香はもじもじとしている。
「あたしの部屋にあるから……持ってくるね」
「待って」
秋奈は立ち上がろうとした衿香を呼び止める。
「それなら、私も一緒に行くよ。それに、まだ朝ごはんも食べてないでしょ」
「……そうだった」
「ふふっ、衿香のプレゼント楽しみだなー」
秋奈は陽気に言うが、内心は楽しみで仕方なかった。顔が赤くなっていないか、心配でならない。
朝食や身だしなみなど、やるべきことを終えてから衿香の家へ向かった。部屋に入るとすぐ、衿香はタンスの戸を開ける。
「あのね、プレゼントなんだけど……」
そうして中から引っ張り出したのは小さな箱。
「はい、秋奈ちゃん」
「ありがとう。開けてもいい?」
「いいよ」
箱の中には秋奈の贈り物と似て非なる物──手袋が入っていた。黒一色で無地という簡素な作りだが、素材の温かさが重視されているようだ。
「これ……」
「うん。秋奈ちゃんとかぶっちゃったね」
「ふふっ。同じ物をプレゼントするなんて、なんだか私たち以心伝心っぽくない?」
「そう、かな?」
「考えてることが一緒だったってことでしょ? なんだか嬉しくなっちゃう」
「……うん、あたしも」
衿香に促されたわけではないが、秋奈は手袋をつけることにした。指を動かしたり握ったりしながら、その具合を確かめている。
「あったかいね」
「ほんと? やったあ」
「あ、そうだ。衿香もさっきの手袋つけてみてよ」
「うん」
手袋を取り出した衿香は、既に慣れた手つきでそれをつけてみせた。
「衿香と私、これでお揃いだね」
「色も大きさも違うよ?」
「いいじゃん細かいことは」
そう言って秋奈は衿香の手を取った。きょとんと見上げてくる衿香に、秋奈はこう告げる。
「ほら、こうするともっとあったかいでしょ?」
「うん、とってもあったかい……」
衿香は頷いて、秋奈に身を寄せる。腰掛けているベッドのスプリングが、ぎしりと音を立てた。
「──冬休み終わったら、また秋奈ちゃん行っちゃうんだよね……」
不意に呟かれたその言葉。暗い声色だったのが秋奈にもわかったので、努めて明るく答える。
「でもさ、また時間できたら来るよ」
そんな言葉にも、衿香は首を振るだけ。
「秋奈ちゃん、あたし……寂しい」
「衿香……」
「秋奈ちゃんが向こうで誰か他の人を見ていないかって、すごく不安になるの。だって……秋奈ちゃんにはあたしだけを見てほしいから」
徐々に掠れていく衿香の声。その瞳が潤み始めたのも秋奈は気付いていた。
「ごめんね、こんな……わがままだよね。秋奈ちゃんを困らせてるよね。あたし、待つって決めたのに……」
これ以上震える肩をそのままにしておけなくて、秋奈は衿香を抱き締める。
「いいんだよ、衿香。私もね、ほんとは向こうでずっと寂しかった。だから、今こうして衿香と一緒にいられることがとっても幸せなんだよ」
「秋奈、ちゃん」
「衿香はわがままなんて一つも言ってないよ。そうやって私を求めてくれるの、すごく嬉しいもん。それにね、私だって同じなんだよ?」
「同じって?」
「衿香に私だけを見てほしいって、そう思ってる。だって──」
秋奈は衿香の耳に口を寄せて、心の奥底に秘めた言葉を囁いた。
「──私は、衿香のことが好きだから」
「あ、あき、な……ちゃ」
衿香の声は震え、ほぼ形を成していない。ただ断片を繋ぎ合わせているだけ。
「あたし、も、あ、きな、ちゃん、の……こと、が」
涙で濡れた衿香の顔を隠すようにその体を胸に抱き、震える頭を撫でながら言葉の続きを待つ。
「あきな、ちゃん……すき」
それだけをなんとか絞り出すと、衿香は嗚咽と共に泣き崩れた。秋奈は声こそ上げなかったものの、涙は流れるままにしていた。
ひとしきり泣いた後は、二人で顔を見合わせて苦笑するしかなかった。まだ午前中だというのに、自分たちは何をしているのだろうという気持ちもあったのだろう。
それも過ぎて落ち着くと、再び甘く穏やかな空気が場を満たし始めた。
「……ねえ、秋奈ちゃん」
「うん?」
「あのね、あたしが秋奈ちゃんの一番だっていう証拠……欲しいな」
「それって……」
「……」
顎を上げ、目を閉じる衿香。その仕草が何を求めているか、秋奈はすぐに予想ができてしまう。
だからこそ、どうすればいいのかがわからない。このまま一線を越えるべきなのかどうか。年上の余裕など今は気にしている場合ではなかった。
衿香は秋奈の動揺など知る由もなく、同じ姿勢で事の成り行きを待ち続けている。その無防備な姿を見ていると、秋奈の中で欲望が渦巻き始める。
自分の気持ちはどうなのか、今一度問い掛ける。答えはすぐに出た。一歩進みたい。衿香が求めてくれるのならば、それに応えたい。それならば──唇を重ねるべきなのか。
まるで硬直してしまったかのような力が瞼を束縛しようとする。それすらも振り払い、何かを覆い隠すように目を閉じる。しばし訪れた自分だけの瞬間を使い、心の声で自分を律した。
秋奈の中で響く、生唾を飲み込む音。それを合図に視界を取り戻し、同時に決意する。先ほどまでの無駄な力は入っておらず、その瞳にあるのは揺るがぬ意思だけ。
ベッドに手をついて、身を乗り出すようにして顔を近付ける。ゆっくりと、標的を逃がさないように。呼吸を衿香に勘付かれたくなくて、そっと息を潜めてみる。
ふわり、と漂う甘い香り。衿香の首筋から発せられるそれは、秋奈にとって媚薬にも等しい効果を持つ。真一文字に結んでいた唇が緩み、失敗した声のような吐息が漏れた。
これ以上は待てなかった。何より、自身の奥底から危険な欲望が顔を覗かせそうでもあった。その前に終わらせないと、何が起こるか予想もできない。
自身の心を抑えつけながら、秋奈はゆっくりと衿香の唇を奪った。
それはまさに至福の瞬間。しかし、初めての経験という壁は大きかった。緊張に耐えきれず、秋奈は一瞬の触れ合いの後に離れてしまった。
「えっと……どう、だった?」
間が持たずに、秋奈は思わずそんなことを訊いてしまう。
薄く目を開いた衿香は何も答えず、自身の指を口元へと持っていき、唇をすうっと撫でている。
「──えへへ。秋奈ちゃんにキスされちゃった」
「何よ、それ……」
「だって、こんなことまでしてもらえるなんて、思ってなかったから……」
「じゃ、じゃあ何をして欲しかったのよ」
「なんでもいいよ。秋奈ちゃんがしてくれるなら」
「もうっ。こんなことなら頭でも撫でとくだけにしとけばよかった」
「それでもあたしは十分満足できたけどなあ」
秋奈の全身を強張らせていた無駄な力が一気に抜けていく。
「……はあ。初めてだったのに」
「あ、あの……あたしも、だよ?」
「……そうなんだ」
「秋奈ちゃんが初めての相手だなんて、なんだか夢みたい」
そう言って衿香は、安住の場を求めるように秋奈の胸へ飛び込んだのだった。




