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十二月二十四日 秋奈と衿香のクリスマスイブ(2)

 一時間半も経過すれば、机の上には空になった皿が目立ち始める。食欲も満たされたので秋奈が片付けようとしたのだが、思わぬ横槍が入る。


「こら、今日の主役はそんなことしなくていいの。私たち大人に任せときなさい」


 そう言って自分の娘を止めた母親は、目元も口元も緩みきっていた。そんな顔で自信たっぷりの言葉を言われても、逆に心配になってしまう。


「流しにお皿置くだけだってば」


 けれど、その迫力に逆らうこともできない。秋奈はそれだけを済ませて逃げることにした。


「秋奈ちゃん、ケーキあるんだけど……どうする?」


 隣に戻った秋奈に、衿香は酔っ払い二人を横目に見ながら訊ねた。それだけで、秋奈にも言わんとしていることがわかる。


「さすがにここで食べるのは、ね」


 呆れた声を出しながらも、秋奈の中では既に答えが決まっていた。


「だからさ、私の家に行こうよ。今ならまだ父さんも帰ってないだろうし」


 母親たちの話では、父親二人も仕事が終わり次第衿香の家に集まるらしい。そのどちらもまだここに現れていないということは、大方の予想通り帰宅時間は遅くなるということなのだろう。


「うん! 秋奈ちゃんち、行きたい」

「決まりだね。それじゃ早速」

「あ、ちょっと待って。準備してくるから」


 そう言って居間を出て行った衿香は数分後、小さな鞄を肩にかけて戻ってきた。


「それは?」

「お泊まりセットだよ。着替えとか、歯ブラシとか」

「意外と早い準備じゃない」

「だって前から用意してたんだもん」


 無邪気に微笑む衿香は、昔と何も変わっていない。感慨深く秋奈が眺めていると、衿香は冷蔵庫からケーキの入った箱を取り出す。


「じゃ、今度こそしゅっぱーつ!」


 無断で席を外すのも気が引けるので、酔っている母親に家へ戻ることを告げたのだが、


「今日は帰らないかもしれないから、何してもわからないからね」


 そんなことを秋奈は耳打ちされた。


「は? どういう意味?」

「いいのいいの、今日の主役は何したって許される!」


 わけがわからぬまま、秋奈は背中を叩かれて送り出された。


「いてて……なんなのかな、あの酔っ払いは」

「秋奈ちゃん、大丈夫?」


 叩かれた部分を衿香が撫でてくれる。


「平気だよ。ありがと」


 数時間ぶりに戻ってきた秋奈の部屋は、とても静かだった。数軒隣ではあんなに騒いでいるのが嘘のようである。幻聴さえ聞こえそうな静寂に少しだけ不安を感じて、秋奈は衿香の手を引いてしまう。


「どうしたの?」

「……ううん、ちょっと寒いかなって」


 自分の行動に照れたせいか、つい適当な嘘をついてしまう。衿香は何も知らない様子で、エアコンのスイッチを入れてくれた。


「これで寒くなくなるよね」


 言いながら、衿香は持参したケーキを用意し始める。


「じゃじゃーん。秋奈ちゃんが好きなチーズケーキだよ」


 部屋の小さな机の上にケーキを置き、その横に寄り添って座る。その包装を見ただけで、秋奈にはわかってしまった。


「これって……」


 秋奈が感付いたのを察知してか、衿香が得意気に頷く。


「駅前の、あのお店のケーキだよ」

「ほんとに? あそこのケーキ、高くて一度も食べたことないのに」

「だからだよ。秋奈ちゃんに食べてもらいたくて」


 驚く秋奈から隠れるように、衿香は小さく付け加える。


「でも、少しお母さんに助けてもらったんだけど……」

「ありがとね、衿香。最高のクリスマスプレゼントだよ」

「わっ」


 感情を抑えきれず、秋奈は衿香を抱き締めていた。小さな衿香の体は、秋奈の胸にすっぽりと収まってしまう。

 いつも空想していた温もりに、今こうして触れている。感じる鼓動の発生源は自分か、それとも衿香か。そんなことばかりが気になって、衿香の言葉は耳に届かない。


「──これだけじゃ、ないんだけどな」


 このまま離したくないとさえ思い始めていた秋奈だったが、衿香が不意に体を離してケーキを指差した。


「食べよ?」

「おっと、そうだった」


 秋奈も気分を入れ替えて、ケーキを味わうことにした。未だに箱のままで、中身を見ていなかったのだ。


「さーて、どんなのかなー?」

「楽しみ? すぐ開けてあげるからね」


 その言葉通り、程なくケーキがその全貌を露わにした。


「うわ、すごっ……」


 一言で表すならば円形。小さめではあるものの、見事なホールケーキがそこにあった。焦げ目のついた黄土色の表面が、部屋の明かりを反射している。


「あたしと秋奈ちゃんだけのクリスマスケーキだよ」

「なんだか食べるのがもったいないかも」

「食べてよー。せっかく買ってきたんだからー」

「そしたら……衿香、食べさせてくれる?」


 二人きりだからだろうか。そんな言葉がつい出てしまった。衿香がどのような反応をするのか一瞬だけ怖くなった秋奈だったが、


「……いいよ?」


 それも取り越し苦労だった。衿香はいそいそとフォークでチーズケーキを手頃な大きさに切っている。


「はい、秋奈ちゃん」


 口元に運ばれてきたそれを、今更ながら恥ずかしく思いつつも秋奈は頬張った。

 とろけるような触感。一度噛むごとに甘味が口の中に広がり、霧のような後味を残して消えていく。


「おいしい?」

「ん、おいひい」

「もー、食べながら喋ったら舌噛んじゃうよ?」

「──んっ、だって衿香が話し掛けてきたんでしょ?」


 秋奈が軽い抗議をするが、衿香は気にした風もなく期待の眼差しを向けてくる。


「どしたの?」

「あたしも秋奈ちゃんに食べさせてほしい」


 予想していたことだが、こうして言葉にされると心に響くものがあった。


「お返しってことだね。フォーク貸してくれる?」


 間接キス程度で騒ぐ二人ではない。それくらいならば今までに何度もしてきた。もはやスキンシップの一つになっている。それは一歩進んだ関係の証だと、秋奈が心の拠り所にもしていることでもあった。


「はい、あーん」


 こうして食べさせ合うことも何度目かわからない。人前でこそしたことはないが、二人だけの時には、こうして楽しむこともあった。


「はむっ」


 ケーキを頬張り、存分に味わっている衿香。その様子を見ているだけで、秋奈も今しがた味わったケーキの甘さを思い出せる。


「おいしい?」

「うん! 秋奈ちゃんが食べさせてくれたからかな」

「買ってきたのは衿香でしょ?」


 食べさせ合いを続けていると、意外と早くケーキはなくなってしまった。


「ごちそうさまでした」

「また食べたいね」


 一息つくと、衿香が体を寄せてきた。秋奈もそれに応じて、衿香を後ろから抱く形になる。


「こうしてると、秋奈ちゃんに包まれてる感じがするの」


 腕の中で衿香が呟いた。まるで自分のなかで転がすためのような小さい言葉。


「衿香って、こうされるの好きだよね」

「うん。秋奈ちゃんが後ろから守ってくれてるからだよ」

「信頼されてるってことなのかな?」

「……うん」


 秋奈の腕に、衿香の小さな手が触れた。儚げに迷うその手ごと、秋奈は衿香の体を抱き締める。力を入れ過ぎて苦痛を与えないように、しかし決して離れないように。


「このまま、秋奈ちゃんの腕の中で眠りたいな……」

「まだお風呂入ってないじゃない」

「いいもん。朝起きたら入るから」

「だーめ。体洗ってあげるから一緒に入ろ?」

「……それなら入る」


 渋々といった様子で了承した衿香の頭を、秋奈はそっと撫でてやった。


「えらいえらい」


 年上の余裕を見せようとしたのだが、表情が緩んでしまうのは抑えられない。それでも、衿香が振り向かなければ知られることもない。

 だから、秋奈は誰にも咎められることなく恍惚の表情を衿香に向けることができた。







 そうして入浴を終えた二人は、一つの布団に潜り込んだ。電気の消えた暗い部屋に、時折囁き声が浮上する。


「ねえ、秋奈ちゃん」

「なに?」

「……手、繋いでもいい?」

「どうしたの? いつもはそんなこと訊かないのに」

「ねえ……だめ?」


 その問いに答える代わりに、秋奈は衿香の手に触れた。か弱く開かれた指の間に手を滑り込ませ、離れないように繋ぐ。


「はい、これでいい?」

「うん……ありがと」


 その言葉とともに衿香からも手が握られた。体ごとこちらに向き直った衿香は反対側の手もそこに添え、秋奈の腕を抱くような格好になる。


「おやすみ」

「うん、おやすみなさい」


 目を閉じた秋奈だったが、すぐに眠ることはできなかった。数か月ぶりに触れることができた衿香という存在が大き過ぎて、どうしても意識してしまうのだ。

 首を動かし、横を向いてみた。無防備な寝顔を晒した衿香が、静かな呼吸を繰り返している。もう眠ってしまったのだろうかと、秋奈はなぜだか不安に駆られた。


「……衿香」


 呟きにもならないような小さな声を漏らし、秋奈は再び目を閉じた。

 眠れるかどうかは気にしていない。ただ、すぐ近くに衿香がいるということだけを考えていた。

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