十二月三十一日 要と沙織の年越し(2)
それからしばらくして。
ふと沙織が食堂の隅を見ると、寮監が斜め上方へ視線をやっている。その先を目で追うと、そこにはテレビがあった。画面の向こうでは、年末恒例の歌番組が開催されている。
「そういえば、あれ見るのも久々だな」
「沙織の家では違う番組見てたの?」
要の問いかけに沙織は頷く。
「うちではね、お父さんの意見でお笑い番組を見てたんだ。要はどうだった?」
「私の家は格闘番組だったな。つまらなかったけど、お父さんが見るって決めてたから仕方なく」
「それが終わったあとは?」
「チャンネルをそのままにして、流れで年越しのカウントダウンが始まるって感じ」
「うちもそうだった」
「お互い、なんだか新鮮だね」
そこで要が視線をテレビに移したので、沙織もそれに続いた。テレビでは、超が付くほどに豪華な衣装をまとった女性歌手が歌声を披露している。
「あれがあの有名な……」
「今年の衣装、ってやつだね」
女性歌手の歌は終わり、司会の男女二人がコメントを添えている。
「──なんか、いいな。こういうの」
ぼそりと呟かれた要の言葉。隣に座っていた沙織の耳には容易に届いていた。
「こういうのって?」
「あ、いや。大したことじゃないんだけどさ」
要は視線を戻し、周囲のテーブルを眺めている。
「こうやって大勢で年越しするなんて、今までなかったから」
その頬がわずかに緩んでいるのを沙織は見逃さなかった。
「わたしも、まさかこんなイベントがあるなんて思いもしなかったよ」
周囲を巡っていた要の視線が戻ってきた。沙織の目を真っ直ぐに見つめている。
「これも全部、沙織のおかげだよ」
「え、えっ?」
「沙織と友達になれなかったら、私……今頃一人で部屋にいただろうから」
寂しそうな声色とは裏腹に、要の視線は熱を帯びているように感じられた。
「それに、沙織と一緒だとね、なんだかとても居心地がいいの。この一週間毎日会ってたけど、それが凄く嬉しかったんだ」
「……要」
応じる沙織の視線も、いつしか真剣なものへと変わっている。周囲に他人がいるにも関わらず、不思議と目を離せなくなっていたのだ。
「だから……沙織。ありがとう。これからもよろしくね」
「う、うん! こちらこそ!」
慌てて頭を下げる沙織。ちらりと上目で窺うと、要は口元に手を当てている。
「ふふっ。よかった、いつもの沙織だ」
「な、なんだよう」
顔を上げても上げなくても気まずいのがわかっているので、仕方なく沙織は顔を上げてそっぽを向いた。
「おやおや、相変わらずお二人は仲がいいねえ」
「先ほどいただいたモンブランよりも甘いデザートをありがとうございます」
彩と悠希にそんな言葉をかけられ、一気に現実へと引き戻される。
「あ……す、すみませんでした」
「……」
沙織は謝罪の言葉を述べ、要は俯いてしまった。そんな二人に微笑みを送りながら、悠希が首を振る。
「いいんですよ。お二人の仲がよろしいのは知っておりますから。存分に親交を深めてくださいね」
「はい……」
今の沙織には、ただ頷くことしかできなかった。
「さて、そろそろメインイベントを始めようか」
歌番組が終わり、テレビには荘厳な寺社の風景が映し出されていた。今年も残すところ十五分となった瞬間である。
「これがないと年越しって言えないよね? そう、こいつが今夜の主役だ!」
もはや様式美となった寮監の目配せ。今回運ばれてきたのは、細長い灰色の物体──蕎麦であった。
「こいつを食べて、来年も長く生きられますように……ってね。こういう縁起物に乗っかるのも悪くないでしょ?」
寮監が口上を述べている間に、各テーブルへ蕎麦が置かれていく。続けて海苔や葱といった薬味。めんつゆはストレートで使用できるものだった。
「そうそう。蕎麦だけに、一緒に食べた人のそばにいられますように……っていう願掛けもあるらしいね。みんなはそばにいたい人、いるかなー?」
マイクで拡散された声は、当然ながら沙織たちのテーブルにも届いていた。
「寮監さんもうまいこと言うねえ」
彩が大仰におどけてみせて、要と沙織を交互に見る。
「で、二人にはそばにいたい人はいる?」
目を逸らしたくなるほど輝いている彩の視線を受けて、二人は顔を見合わせてしまう。
「えっと……」
「……」
視線で会話しているかのように、眼鏡の少女たちは目を合わせていた。
「それじゃみんな箸は持った? せーの、いただきまーす!」
二人の間に流れた緊張は、寮監の声で破られた。周囲が色めき立ち、蕎麦をすする音が聞こえ始める。
「あれ、食べないの? あたしが全部もらっちゃうよ?」
既に彩は二杯目に手をつけようかというところだった。その姿に毒気を抜かれたかのような顔で、沙織は肩をすくめる。
「こんなに食べるくせに、彩って太らないんだもんなー」
「せっかくだし、私たちも食べようよ」
要はわさびを多めに入れて蕎麦を掻き混ぜていた。
「そんなに入れて平気なの?」
「これくらいが好きなんだ。沙織はわさび嫌い?」
「あのツーンってするのがちょっとね。お寿司とかでも、できたらサビ抜き頼んじゃうな」
「沙織って、そういうところ可愛い」
くすくすと笑う要。沙織は気恥ずかしくなり視線を逸らす。
「だって……苦手なんだもん」
「いいんだよ、そのままの沙織で。そういうところ、私──」
要の言葉は、横から入ってきた彩に覆い隠される。
「やっぱり二人は仲良しだねえ。もしかしたら、来年はもっと深い仲になったりして」
「どうなんだろう……ね」
表面上は動じることなく応じた沙織だったが、彩の言葉は心を震わせた。深い仲という、その単語が意味することが。
隣では要が美味しそうに蕎麦をすすっている。今までこんなに意識して年越し蕎麦を食べたことなど沙織にはなかった。
──一緒に食べた人のそばにいられますように。
寮監の言葉を思い出しながら、沙織も要に倣ったのだった。
蕎麦は流し込むだけで食べ終わることができる食品である。数分としないうちに、食堂に集った寮生たちは蕎麦をたいらげてしまった。
そうして食べる物を片付けてしまった寮生の中には、年越しの瞬間を待たずに自室へと戻ってしまう者もいた。早々に眠ってしまうのか、それともルームメイトと二人きりの時間を多く取りたいのか。真相は当人たちにしかわからない。
「さてさて、気付けば今年も残り数分だよ。この由緒正しきお寺を見ながら静かに新年を迎えようじゃないか」
テレビからは「今年もあと少しです」と告げる落ち着いたアナウンサーの声が流れている。山奥に建てられた仏閣には、縁起を求めてか多数の参拝客が訪れていた。
「年明け近くになったら、みんなテレビに注目するんだよー」
そう言って寮監は、テレビが見やすい場所に椅子を移動させて腰を下ろした。このような雰囲気が、寮監の好みなのだろう。
「もう今年も終わりかあ。なんだかあっという間だったね」
年の瀬お決まりの言葉を述べたのは彩だった。それに対して沙織が頷く。
「ほんとだよね。ここに入学してから色々あったからかな」
「それだけ充実した一年だったという証拠ですよ」
悠希も普段通りの穏やかな笑みを浮かべていた。
「そう……なんでしょうか」
「色々あったよね。沙織とは」
しみじみと呟いたのは要だった。
「年末にこうしているなんて、四月の頃には考えもしてなかったから」
「それは……わたしだって同じだよ」
「沙織も?」
「うん。わたしって、人見知りするタイプだったから」
「でも、最初に話しかけてくれたのは沙織からだったよね」
「それはさ……色々あったんだ」
沙織は秘かに思い出す。ここに入寮し、秋奈と出会った頃のことを。そして、自分を変えたいと決心した日のことを。
「って要、そんなことまで覚えてるの?」
「だって、あれがなかったら今の私たちはなかったと思うから。私も人付き合いが上手な方じゃないし」
「要……」
「なあに、沙織」
名前を呼び合い、見つめ合う。年が終わる直前に、沙織は今年一番の幸せを得たような気がした。
「ねえ悠希。あたしたちも負けてられないね」
「こういうのは勝ち負けじゃないの。静かに二人を見守ってあげましょう」
その話し声が沙織に届いていたならば、今の見つめ合いは中断されていただろう。
そして、こうしてテーブルの下で秘かに手を繋ぐことも叶わなかったはずである。
「来年も、よろしくね」
「……うん」
繋いだ手を軽く握りながら、要と沙織は絆を確かめ合った。歴史のある寺社が映るテレビからは、除夜の鐘の音が鳴り響いている。
「ほら、そろそろだよ。みんなテレビに注目して」
パーティー中の陽気さとは真逆の、寮監が発した静かな声。テレビを見れば、袈裟に身を包んだ僧侶が鐘を撞いている。一斉に集中した視線は次の瞬間に飛び散り、高揚感にも似た色合いのざわめきが聞こえ始める。
たとえば、沙織の後方にあるテーブルではこんな会話がなされていた。
「どうしよう。年越しの瞬間にジャンプとかしとく?」
「何それ。いいから落ち着きなさいって」
「ちょ、ちょっとトイレ行ってくる」
「待ちなさい。それはさすがにマズイでしょ」
あちこちから届くざわめき。その間にも残された時間は着実に減っていく。
「えと、どうしよう?」
流されて焦り気味の沙織とは違い、要は落ち着いた様子で答える。
「このままでいいんじゃない? ほら」
繋がれた手へ力が込められた。それだけで沙織の焦りは霧散してしまう。
「……そうだね。このままで」
年越しの瞬間を要と手を繋いだまま迎えることなど、数分前の自分ですら予想していなかった。だからこそ決して離れないように、沙織は要の手を繋ぎ続けている。
「あと十秒くらいかな」
寮監による時報。要と沙織は視線を交わしたまま動かない。まるで他のものなど視界に映す必要などないとばかりに。
「もうすぐ年が明けるよ──」




