十二月二十四日 要と沙織のクリスマスイブ(4)
時刻が午後九時半になろうかという頃、要がこんな話を切り出した。
「今日ってさ、クリスマスイブでしょ?」
「そう、だね」
そんな当然のことを訊ねられ、沙織はまた変に意識してしまう。世間では聖夜と呼ばれるこの日が、どのような意味を持つのかを。
「それでね、実は沙織にプレゼントがあるんだ」
「えっ、プレゼント?」
「そんなに凄いってほどの物じゃないんだけど……」
言いながら要は自分の鞄を探っていた。沙織はそこで、ほとんど条件反射のように告げてしまう。
「あの、わたしも……要にプレゼント用意してるんだ」
要の手が止まる。驚きと喜びが混ざり合った、どこか泣き顔にも似た表情を浮かべていた。
「……ほんとに?」
「……うん」
「じゃあ、プレゼント交換だね」
そこでようやく要が頬を緩めたので、沙織も緊張から脱することができた。机の引き出しを開け、包装された小箱を取り出す。
ちょうどその時、要もプレゼントらしき箱を持っていた。
「えっと、お店の人に包んでもらったんだけど……」
「わたしだってそうだよ。本当は自分で包めればよかったんだけど」
「そうだよね」
「だよね」
「……」
言葉数は少なくなり、沈黙が訪れてしまう。どちらが先にプレゼントを渡すかの探り合い。
「あの」
「これ」
重なる言葉。視線が交わり、二人は同時に吹き出した。
「受け取ってくれる?」
「要が選んでくれたんだもん。絶対もらうよ」
「沙織のも、ほしいな」
「あ、ごめん! はいこれ!」
勢い余って押しつけるようになってしまったが、要は受け止めてくれた。
「開けてもいい?」
「もちろん! 要のも開けていい?」
要は頷き、受け取った箱を開封し始めた。沙織もそれに続く。
「わあ……これって」
「あったかそう……」
要の手にはニット帽があり、沙織はマフラーを持っていた。その双方が、見るからに温もりに満ちた素材で作られている。
「これ、かぶっていい?」
「あ、うん」
沙織の返事を受けて、要はニット帽を頭に持っていった。純白の新雪を連想させる色合いのそれは、眩しいほどの光を帯びて要の髪を包んでいく。
沙織が見守る中で、帽子が頭に収まった。要は手を当てて微調整をしている。
「えっと、どうかな?」
「バッチリだよ。似合ってる」
「……うん、ありがと」
要は腕を下ろし、ちょこんと座る。その姿が、沙織には何かのマスコットのように見えた。とても愛らしく、思わず抱き締めたくなるような衝動が巻き起こる。
しかし、それを表に出せるはずもない。自分が抱く気持ちの正体すらわかっていないのだから。今できるのは、こうして要を見つめるだけ。
「……あの、そんなに見られると、さ」
要の視線が泳いでいた。沙織も釣られて慌ててしまう。
「ご、ごめん。その……つい、見入っちゃった」
「むうー……」
要は帽子を深く被り、目元を陰にして俯いてしまった。沙織を遠ざけるための行動なのだろうが、むしろ逆効果であった。
「っ!」
帽子を掴んで引き下げる仕草が、沙織の視線を釘付けにする。先ほどから感じていた愛らしさが、更に増幅された。
以前なら、この抑えられなくなった衝動を気軽に発散できた。誕生日にプレゼントを受け取った時のように、要の胸に飛び込んで抱き締めたこともある。
「……沙織?」
だが、今はそれができない。考えなしに抱き付いていた時期は、今ではまるで遠い昔のよう。何をするにも思考と理性が邪魔をして、要に対して積極的な行動が取れないでいる。
それでも、要に近付きたいという欲求は消えたわけではない。できることなら距離を詰めたいし、気軽に触れ合いたいと思っている。
「どうかしたの?」
固まってしまった沙織を気にしてか、要が顔を覗き込んでいた。間近に迫った要の視線。それが、今度は沙織を緊張から解放した。
「な、なんでもないよ」
本心とは逆に、思わず身を引いてしまう。投げ出された視線は部屋の中をさまよい、斜め下の床面へと落ち着いた。
「もう、変なの」
要が苦笑している。そんな些細な表情の変化も、まるで真新しい現象のように映った。新鮮な発見が嬉しく、沙織の頬も緩んでしまう。
「ねえ、私のプレゼントは試さないの?」
真っ直ぐと見つめられ、また沙織は動揺してしまった。
「ううん! 試すよ、もちろん!」
沙織は手に乗せていただけのマフラーを持ち直し、自らの首に巻き始めた。藍色のグラデーションで染められたそれは一応の形になったものの、余った部分がだらりと垂れ下がっている。
「あれ、そんなに長かったかな」
用意した要の方が動揺してしまっていた。揺れるマフラーの先端と要の顔を交互に見ながら沙織は言う。
「きっとわたしの巻き方が変だったんだよ」
苦笑しながらマフラーをほどいた沙織。間髪入れずに、要からこんなことを告げられてしまう。
「じゃあ、私が巻いてあげる」
思わぬ要からの申し出。沙織の動揺に拍車がかかる。
「でも、そんな悪いよ」
「ううん。これも私からのクリスマスプレゼントだと思って」
要の手が伸びる。沙織が持つマフラーを取り、体も近付いてきた。沙織は断ることすらできず、要の挙動をぼんやりと眺めることしかできない。首に回されるマフラーと、それをあやつる要の手。目が合ったのは一度や二度ではなかった。
「これでどうかな?」
そう言って要が離れたので、ようやく沙織は自分の姿を見下ろすことができた。ついさっきとは別物かと思うほどに整った結び目が揺れている。
「ありがとう……要って器用だね」
「そんなことないよ。ただ巻いて通しただけだもん」
言葉とは裏腹に要は照れくさそうに微笑んでいた。マフラーとその表情で沙織の体温は上昇し、その結果が顔に出てしまう。
「沙織、なんだか顔が赤いよ?」
「そう言う要だって赤いじゃない」
「そうかな」
「暖房が効き過ぎてるのかもね」
手で顔を仰ぎながら沙織はエアコンを見上げた。室温調整のため小休止をしているのか、温風は出ていない。だた機械の唸るような音が聞こえるだけ。
「なんだか汗かいてきちゃった」
要も手でなけなしの風を自らに送っている。それでも帽子は脱がない姿が沙織には嬉しかった。
「お風呂入る? それなら沸かしてきちゃうけど」
「今日は一階の方には行かないの?」
要に訊ねられるまで、その選択肢自体が消えていたことに気付く。
「部屋で落ち着いていたいなって。こんな日だし」
「じゃあ、お願いしようかな」
「わかった。ちょっと待っててね」
沙織は浴室へ向かい、給湯ボタンを押した。既に浴槽の掃除は済ませているので、あとは湯張りが終わるのを待つだけである。
待っている間、部屋で要と並んで座っていた。特筆するようなことは話していないが、互いが身に着けたプレゼントが似合うとか可愛いとかいうことを話していた。
やがて軽快な音楽が流れ、女性の機械音声が湯張り完了を告げる。会話が途切れ、沙織は部屋の戸へ視線を送った。その向こうにある浴室を見通すかのような目で。
「先に入っちゃっていいよ」
「いいの?」
「うん。遠慮せずにどうぞ」
要を送り出して、部屋に残されたのは沙織一人。遠くから聞こえるシャワーの音に耳を澄ませる。弾けるような水音。頭でも洗っているのだろうか──そんなことを考えていた。
そして、こうも考えていた。一緒に入ることもできたのに、と。
今までは二人で入浴することも珍しくなかった。沙織から誘ったこともあれば、その逆もあった。何も言わずとも、自然な流れでそうなったこともあったほどだ。仲が深まっている証拠。距離が近いからこそ、接する時間が増えていく。
それなのに、今日はそうしなかった。要と過ごしたいから、こうして部屋に呼んだというのに。一人は嫌だったはずなのに、今だけはこうしていたいと思ってしまう。
そしてまた、一人になると決まって考えてしまうことがある。要の部屋でも繰り広げた、答えも出口もない思考の迷路。
こんな気持ちを抱え始めたのはいつからだろうか。つい最近、数か月の間ではないかと沙織は推測する。要と会うことに喜びと寂しさを感じるようになった。過ごす時間への喜びと、別れる瞬間への寂しさ。
その頃からである。沙織が要を特別に意識するようになったのは。秋奈がそばにいる時はまだ良かった。しかし、ふと一人になる瞬間が訪れると精神が一変する。心の奥底が急激に冷却されたような感覚に襲われ、思わず身を抱いてしまう。
その原因に、本当は早いうちから気付いていた。けれど目を背け、足踏みを続けてしまう。踏み出すことが怖かった。先が見えない方へと進むことが、沙織にはできなかったのだ。
いくら落ち込んでいたとしても、要に会えば気分が晴れる。それも沙織を立ち止まらせる原因になっていた。安定した場所から動こうとせず、居心地の良いぬるま湯に浸かり続けるだけ。
最初は不安定だった浮沈さえも、今では慣れてしまった。今こうして楽しめているのだから、これ以上は望めない。望んでしまったら壊れるかもしれない。そう思ってしまう。
それですべてが丸く収まるはずだった。それなのに、どれだけ待っても抱える霧は晴れてくれない。むしろ濃度を増していくばかりだった。自分の気持ちと正面から向き合うことがなかったために、今ではその想いが真実なのかさえもわからなくなっていた。
「……はあ」
溜息をつきながらベッドに寝転がる。一人で悩んでも、結局は答えなど導き出せない。いや、答えなどなくても構わない。ただ気持ちの整理さえできれば、それだけで。
ふと思い返す彩と悠希の姿が、とても眩しく見えた。目指すべき形がそこにあったから。遠いと思っていたものが、手を伸ばせば届く距離にあったのだ。
──いつか、それとなく相談してみようか。
うまく話せるかどうかなんてわからない。それでも、あの二人なら真剣に耳を傾けてくれるだろう。沙織はただ漠然とそう考えていた。自身で繰り広げる思考への没頭。
「お待たせ。沙織も次入る?」
だから、要が部屋の扉を開けた時には大袈裟ともいえるほど体が硬直した。
「……沙織、どうしたの?」
「えっ。な、なんでもないよ、うん」
慌てて起き上がったのだが、要に苦笑を返されてしまう沙織だった。
照明が消え、暗闇に包まれた部屋。その片隅に置かれたシングルベッドで、要と沙織は身を寄せ合っていた。
幾度となくこうしてきたというのに、沙織はまるで今日が初めてであるかのように緊張していた。こちらから手を取ることすらできない。
布団に潜り込んでから、かれこれ十五分は経過しただろうか。それでも二人はただ肩を寄せ合っているだけである。沙織は動けず、要も行動を起こそうとしなかった。
しかし、ここで要が動いた。沙織の右手が温もりに包まれたのだ。繋がれた手に感じる熱が沙織の心を揺さぶる。
「今日の沙織、なんだか大人しいね」
「そ、そうかな」
的確な指摘に対する不明瞭な返答。それを取り繕うかのように、沙織は不意に掴まれた手を握り返した。
「こうしてるとさ、なんだかほわーっとした気持ちにならない?」
要の囁き通り、沙織は頭がぼやけそうになっていた。初めて手を繋いだ時よりも、更に濃い霧が思考の海に立ちこめる。
沙織が返事をしなかったせいだろうか。繋いだ手に指が絡まってきた。もぞもぞした動きも一瞬のこと。組み合わされた手は簡単に外すことはできない。
たとえ、そこに大きな力が加わっていなくても。
「いつもの沙織らしくないな……」
さらに小さな声で呟かれた要の言葉。どきり、とさせられる。指を絡めたことで、何かを感じ取られたのではないかとさえ思った。
「悩み事があったら、私でよければいつでも聞くからね?」
「……うん。ありがと」
要の気遣いが嬉しく、そしてなぜか少しだけ寂しく感じてしまった。




