十二月二十四日 要と沙織のクリスマスイブ(1)
季節柄、とでも言うべきだろうか。
駅周辺の繁華街はともかくとして、一見寂しい雰囲気の住宅街さえも、どこかうっすらとした白色に染められているようであった。
肌を刺す低い気温、保育園の庭に立つ飾られた樹木、コンビニエンスストアから聞こえる鈴の音を基調とした音楽。それらの要素によって裏打ちされた、確かな空気が漂っている。
そんな街中を要と沙織は歩いていた。終業式を終えた二人が向かう先は駅である。沙織の話では、秋奈は前日から帰省の準備をしていたらしく、今頃は寮の部屋で着替えているだろうということだった。
その間に二人は先に駅で待ち、秋奈を見送る予定でいた。続けて要の部屋へ行くつもりでもいたので、うまく計画がまとまった形である。
その道中でのこと。今日という日を意識しないようにすればするほど、沙織の思考は逆方向へと進んでしまう。駅まではまだ距離があり、道中で時折見かける幸せに没入した恋人たちの姿に意識が引きつけられていた。
「──ってわけでさ、結局その先生は材料を取りに家まで戻っちゃったんだ」
「えっ。じゃあ、その間授業はどうしてたの?」
「もちろん自習だったよ。でも、騒いでると先生がいないのバレるから静かにしてなさいよ! って言われて、みんな不自然なほどに静かでさ──」
こんな他愛もない話をしながらも、視界の端にその姿を見ては別のことを考えていた。次第にその想いは大きくなり、つい言葉に出してしまう。
「えっとさ、要?」
「うん」
「今日は、わたしの部屋に泊まってくれるんだよね?」
それは明らかなことだった。これから要の部屋に行くのは、その準備をするためなのだから。既に決められていた約束なのだが、改めて沙織は口にしていた。
「うん。ちゃんと用意して行くから、今日はずっと一緒だよ」
要はそう言って沙織を見上げた。その姿と言葉にこれ以上ないほどの喜びを感じるのだが、つい沙織は視線を泳がせてしまう。もっと見つめていたいのに、どうにも照れてしまうのだった。
一方の要もすぐに俯き加減になっていたのだが、目を逸らしてしまった沙織が知ることはなかった。
あれほど沙織が気にしていた人々と同じような空気を自分たちが出している。それを沙織が悟る前に、二人は駅に着いていた。
「うわ、人だらけ」
改札から見えるだけでも、やけに人波が目立っている。沙織がその理由に達するまで、そう時間は必要なかった。
「やっぱり、みんなどこか行くのかな?」
「たぶんね。クリスマスだし、それに週末だし。もっと賑やかなところに行くんじゃないかな」
「なんでだろうね。ここだって十分楽しいと思うのに」
「楽しみ方は人それぞれだもん。しょうがないよ」
「要は、ここにいて楽しい?」
「うん。沙織は?」
「わたしも。同じだね」
「ねっ」
そうして二人は微笑み合う。この瞬間が永遠に続くことを沙織は考えたが、そうはいかないのが現実だった。
「やあやあ、お二人さん。冬だってのにアツいねえ」
秋奈が大層な荷物を持って現れた。肩から提げた鞄は幅が広く、電車の座席を秋奈一人分よりも多く占拠しそうなほどである。
「意外と早かったね」
沙織がまず歩み寄った。
「んー? 意外とって何よ。もっと要さんと二人きりでいたかった?」
「そこまでは言ってないじゃん」
「まあ、これから思う存分二人の世界を堪能すればいいじゃない」
相変わらずの調子を見せる秋奈に、今度は要が声をかける。
「秋奈さんとは、これが今年最後になるんだね」
「そっか、そうなるね」
「来年もよろしくお願いします」
「いやいや、こちらこそよろしくお願いします」
頭を下げ合う要と秋奈。その両者に視線を往復させていた沙織だったが、ふと我に返って自身も加わろうとする。
「えと、よろしくお願いします」
今度は沙織が二人の視線を受ける番となった。頭を上げた沙織は、再び視線を往復させて戸惑う。
「……なに? どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。ねっ、要さん?」
「深い意味はないから気にしないで」
目配せをし合って笑みを浮かべた二人の前で、沙織は一人首を傾げる。
「なんなのかなあ……」
「さて、そろそろ行こうかな。電車の時間もあることだし」
秋奈が駅構内の時計を見上げ、現在時刻を確認していた。午前十一時三十四分。三分後に快速が到着する予定となっている。
「あ、もう行くの? 気を付けてね」
「またね、秋奈さん」
沙織と要が手を振った。見事に左右対称なその動きに、秋奈は小さく吹き出してしまう。
「ありがと。よいお年を!」
同じように返しながら、秋奈は改札の向こうへと消えていった。
振っていた手を下ろすと、ほんの少しだけ静寂が訪れる。実際は周囲の喧騒が絶え間なく続いているのだが、二人の間にだけはそれがあった。
「秋奈、なんだか楽しそうだったね」
やがて、沙織が口を開いた。
「沙織もそう思った? どうしてなんだろう」
「たぶん、好きな人に会えるからだと思う」
「えっ、秋奈さん好きな人いるの?」
驚いたように目を見開く要の姿に、言い出した本人である沙織もたじろいでしまう。
「いや、あの……そうなんじゃないかなーって」
沙織は少しだけ視線を斜めに外しながら続ける。
「今まで色々な秋奈を見てきたんだけどさ、なんかそんな節がありそうなんだよね。長い時間ずっと電話してたりとか、やけに張り切っておしゃれしてたりとか」
「秋奈さんが……なんだか意外かも」
「あれでいて秋奈もナイーブなところあるから、わたしも深く聞いてみるのがなかなかできなくてさ。そのうち話してくれるんじゃないかなって待ってるんだけど」
「沙織って、友達思いなんだね」
「そ、そうかな? 秋奈ってああいう性格だから、これでいいのかよくわかんないけど」
外していた視線を更に泳がせ、沙織は照れくさそうにはにかんだ。
「大切だから、そうしてるんでしょ? 秋奈さんは幸せ者だよ」
「それはそうだけど……要だって大切だよ?」
「えっ?」
「あっ」
無意識に出た言葉の意味を、そこでようやく沙織は理解した。本人がいる目の前で、その人が大切だと告白してしまった、その事実を。
「あ、あの、ありがと……」
そう呟いた要までもが視線を外してしまう。今は顔を向かい合わせることができない。
それでも、時折視線の端で互いの様子を窺っては目が合っていた。その都度、まるで磁石が反発するかのような勢いで目を逸らしてしまうのだが。
今度こそ沙織は気付かされた。自分たちがこの町を包む、色付いた空気の一端を担っているということに。
もう一度だけ、要の様子を窺う。視線は交わらなかったが、その分だけ要をじっくりと見つめることができた。
要の部屋へ二人がついた時には、もう正午を過ぎていた。昼食を済ませずにここまで来たせいもあってか、沙織は空腹を感じ始めている。しかし、沙織はそれを気にしている場合ではなかった。
いつものように和室で要が着替え終わるのを待っている沙織。最近ではそわそわするようなことも少なくなっているのだが、今日は特別だった。何しろつい先ほどまで、あの空気を全身に浴びていたのだから。
クリスマスイブに誰かと二人きり。それがどのような意味を持つのか、沙織も十分わかっている。だからこそ、要が自分といても良いのだろうかと考えてしまう。要はそれで満足しているのだろうか。負担になっていないだろうか。
一度負の思考を始めてしまうと、自分ではもう止められない。要の心情について考えていたはずが、いつしか自身の価値までも浸食しようとしていた。
そんな時である。
「お待たせ……沙織、どうしたの?」
要が戻ってきたのだった。心配そうに顔を覗きこまれ、沙織はようやく我に返ることができた。
「あ、ううん、なんでもないよ」
急いで作り笑いを浮かべて取り繕うが、それもすぐに崩壊する。
「そう? それならよかった」
すぐ隣に腰を下ろした要を見ていると、心の底から笑顔になれたのだ。今まで悩んでいたことが、とても小さくてくだらないことだったような気さえする。
安らぎを得た沙織の心は、忘れていた空腹感を訴え始めていた。
「ところでさ。沙織、お腹空いてない?」
「えっ?」
心を読まれたのではないかと本気で思い、沙織は自分でも驚くほどに鋭い声を出していた。
「ほら、これから沙織の部屋に行くでしょ? だから、その前に残ってる食べ物を片付けておきたくて、その、一緒に食べようかなって」
どこか早口に要はまくし立てた。間近に迫られ、沙織は喉が詰まるような緊張感に包まれる。
「そういうことなら……」
「決まりだね。すぐ用意するから待ってて」
「あ、わたしも手伝うよ」
「いいの。今は……私が、沙織に作ってあげたい気分だから」
語尾はほとんど独り言のようになりながら、要が部屋を出ていった。
その姿を見て沙織は思う。要も自分と同じ気持ちでいるのだろうかと。それならば、これ以上の幸せなどない。
──これ以上。
少なくとも要とは親友である。沙織はそう考えているのだが、気になるのはそこではない。これ以上とは、どのようなことを言うのだろうかということだ。
町中に溢れる空気を作り出しているのは、今まで沙織が見た限りでは男女の二人組だった。女性の二人組もいくつか目撃したが、それらはいまひとつ沙織の心には明確な形としては映らなかった。
あの男女がどのような関係なのか。それは沙織にもわかる。彼らから溢れ出る雰囲気が、要と自分がまとう空気と同じ性質だとしたら。
それならば、要と自分はどういう関係になるのだろうか?
終着点の見えない自問自答。答えは心の奥深くに見えているのに、あえて目を逸らして悩むことで紛らわせようとしている。
それは秋奈に対しては抱かなかった感情だから。それは同性間でも成立するのか不安だから。それは向き合うのに多大な勇気が必要だから。
言い訳ならいくらでも出てくる。寄り道をして出口から逃げるのは簡単なこと。だから、一時しのぎの答えもすぐに出せる。
今のままでいい。こうして二人でいられることが、それだけで幸せなのだから。それ以上を求めてはいけない。求めるべきではない。
いつからこんな悩みを抱えているのか、当の沙織自身も正確には把握していない。四月に初めて出会い、五月に初めて要の部屋で朝を迎え、八月に初めて沙織の部屋で共に眠った。
そんな初めて尽くしだった要との日々。秋奈にはやし立てられたせいもあったのかもしれないが、いつしか沙織は要を強く意識するようになっていた。毎日のように多くの時間を共有していたのも、それが自分の望みだったからに他ならない。
それでも、飽くなき欲求を持ってしまうのが人間の性だろうか。今日という日に二人でいるということ。そこに何か深い意味を見出したくなってしまう。意味などなければ自分で作り出したくなってしまう。胸の痛みは、今はもうその段階まで激しくなっていた。
沙織が蓋をしたのは、そんな想いだった。要の隣にいるだけで幸せ。その言葉自体に嘘はない。ただそこに続く核心を排除しただけ。
──要の隣にいるだけで幸せ。そして、要が自分だけを見てくれたなら。




