秋奈過去編 九 浄化 / 十 過去
九 浄化
数日後、沙織は見違えるほどに良くなっていった。明るくなり、沙織から私に話し掛けてくることも多くなっている。この調子なら入学してからもクラスに馴染めるだろう。
けれど、今も私以外の人には向き合おうとしない。こうして仲良くなれば沙織の人柄もわかっていい付き合いができるんだけど、その始まりが難しい。最初が肝心なのに、沙織はそれをしようとしない。このままでは沙織が前に進めない。
ある日、沙織に迫ってみた。もう四月まで日がない。いつまでもこんなだと沙織がダメになってしまいそうだ。外に目を向けさせないと。
「沙織ってさ、どうしてこの学校に来たの?」
それは今まではぐらかされてきた質問。今日こそは逃がさない。
「えっ、それはその、ほら、奨学金貰ったから」
またいつもの答え。もう少し踏み込んでみるか。
「地元の方で、何かあった?」
大方の予想はできているので、隠していた手札を少しだけ見せた。沙織の表情が一瞬曇る。
「いや、特にないよ?」
「そうは思えないんだけどなあ。まあ、本当にないんならいいんだけど」
沙織の視線が泳いでいる。待っても返事がないので再び口を開く。
「過去に何があっても、私はそれをバカにするようなことしないって沙織もわかってるでしょ? 抱えてることがあるなら、私に言ってほしい。一緒に分けあおうよ」
「……でも、わたし自身のことだから」
「話したくないなら無理強いはしないよ。だけど、私は沙織のそばにいるよってことを言いたかっただけ。話すのは気が向いたらでいいからさ」
そこで言葉を止め、ゆっくりと体の向きを変えていく。横目で沙織を見ながら、完全に背中を向けようとした、その時。
「──ほんと、昔のことなんだけど」
固く閉じられていた心の扉から、一筋の光が差し込んだ。私は沙織に向き直り、揺らぐその目を見つめる。
「どれくらい昔?」
「小学校とか……そのあたりから」
ぽつりぽつりと、沙織は話を紡ぐ。
「小さい頃から、ずっと身長が伸び続けてたんだ。背の順ではいつも後ろ。男子よりも背が高かったから、悪い意味で目立つようになって、ちょっかいとか出されるようになった。でも、いじめとかそういうのじゃなくて、素直じゃない男子の悪ふざけみたいなものだったな。
学年が上がっていって、勉強も少しずつ難しくなっていってさ。他のみんなはテストの点数が安定しなくなってた。でもわたしはいつもいい点数だってことが知れ渡ったんだ。それからはとてもわかりやすいよ。わたしを頼るか嫌うかの二つだけ。どこそこを教えてーとか、ガリ勉メガネーとか、両極端過ぎたんだ。そんなのが続いて、なんかわからなくなった。
わたしってなんなんだろうって。一緒の班になってくれる人も、何かあればノート見せてって。宿題忘れたから見せてって。断るのが怖かった。そんなことしたら一人になっちゃいそうだったから。だけど、そうやって我慢し続けることの方がつらかったんだ。
だから中学に上がってから、それまで以上に勉強を頑張った。人に頼るような、そんなまがいもの、わたしはいらなかったから。それに、あんなのがいっぱいいる場所からも逃げたかった。どこか遠い、誰もわたしのことを知らない所に行きたかった。
だって、中学でもわたしの扱いは変わらなかったから。ただ面倒な勉強を押しつけるだけ。一緒に遊ぶなんて言っておきながら、わたしの宿題をみんなで回して書き写すだけ。そのうち、みんながわたしと仲良くする本当の理由がわかってきたんだ。断ることもなくて都合良く利用できるから。結局、本当の友達なんていなかった。
先生がここを紹介してくれたんだけど、考えていた条件を全部満たしていたのが決め手だった。親にも話して、女子校だから変な虫も付かなくて安心だろうってことで認めてくれた。奨学金もあったし、他に合格していた学校を蹴るには十分な理由だった。
そうやって、わたしは逃げてきたんだ。だけど、いざ来てみたらさ……怖かったんだ。どうやって人と接したらいいのか分からなくて。だって、今までは勉強のダシにしようと声をかけられてばっかりだったから、自分から話しかけるなんて考えられなかったし、そんなことしたくもなかった。それで、秋奈にはあんな態度取っちゃって……ごめんね」
沙織の長い独白は終わり、重い沈黙が横たわった。私は頭の中で言葉を選ぶ。確かに、寮監からある程度の話は聞いていたし、今の内容も初耳ではない部分もあった。ここを選んだ理由とか、人への不信感とか。
でも、本人の口から語られると、その重みが比べ物にならないくらい違っていた。こうして話すのだって、とてつもない勇気が必要だったはず。私を信じて打ち明けてくれたことが、胸の奥に温かな嬉しさを生み出していた。今までとは比べ物にならないほど、大きな嬉しさ。
「……過去がどうだったからどうしろとか、そんなことは私に言えることじゃない」
沙織から視線を外さずに、目でも言葉を伝えるように。柔らかい言葉をイメージする。
「だけどね、そうやって話してくれたことは嬉しいよ。こうして同じ部屋になったのも何かの縁だろうしさ、気遣いとかいらないからいっぱい頼ってよ」
沙織が口を真一文字に結んでいる。鼻をすする音が目立ち始め、肩も小刻みに震えている。
「それに、今はもう明るくなれてるじゃない。私といる時はさ。普段からあんな感じでいられれば、きっといい方向に向かって行けるよ」
その震えを和らげるように、私は沙織の肩に手を置いた。小さく二回叩き、髪で隠れてしまった表情を想像する。きっと、ここに来た日の私みたいな顔をしているんだろう。
「気になる人がいたら、自分から話しかけなよ。そして友達になればいい。自分の力で得た仲間や友達ってのは、必ず助けてくれるし、自分の自信にもつながるから」
そして、その友達が沙織を支えてくれたら。私がいなくても沙織を引っ張ってくれたら。沙織にとって唯一無二の存在になってくれたら──そんなことを思っていた。
沙織はガラガラ声で「うん」と頷いた。その通りに変わってくれれば言うことないんだけど、この時は将来どうなるかなんてわかるはずもない。ただ、中途半端にしゃくりあげている沙織が不憫だった。
あの時の私はどうやって気持ちを落ち付けたか。一人きりの部屋で、ベッドの上で震えながら何をしていたか。
「泣きたいときはさ、思いっきり泣いた方がいいよ。私の胸で良かったら貸すからさ」
「あき、なぁ……」
こっちを向いた沙織の顔は、やっぱり歪んでいた。泣きたい気持ちと堪えたい気持ちのせめぎ合い。私に頭を預けるかどうかも迷っているようだ。
私はそんな沙織を、自分から胸に抱き入れた。背中を押してあげないと、いつまでも踏み出せそうになかったから。一人で泣くより、誰かに涙を受け止めてもらった方がいい場合もある。今がそんな時だ。
もしかすると、こうして誰かに甘えるということもあまり経験がなかったのかもしれない。それなら、私相手に様々な経験を積めばいい。実験台みたいに扱ってくれても構わない。沙織が遠慮することなんて何もない。
だって、私はとてもずるいことをしているから。沙織のことばかり聞き出して、自分のことは何も打ち明けていない。それは趣味がなんだとか好きな食べ物がなんだとか、そういうことじゃない。私がここに来た理由。課せられた二年間の戒め。衿香のことを考えると心がざわめくこと。それらはこうして回想している今も秘めたままだ。
対等じゃないな、と思う。いつか機会を見つけて話せる日が来るだろうか。
十 過去
そして入学式の日。沙織と一緒に式が行われる講堂へ向かう。試着を除けば、初めてとなる制服。沙織と二人でファッションチェックみたいなこともしてみた。
さあ行くぞと意気込んでいたら、寮の出口で寮監に呼び止められる。
「薙坂宛てに手紙が届いてるぞ」
渡された手紙。その差出人を見た瞬間、私は沙織が隣にいることも忘れてはっとした。
「どうしたの?」
沙織がいぶかしげに訊ねてくる。
「ん? なんでもないよ。実家の方から手紙が来ただけ」
平静を装い、嘘ではないごまかしを告げた。確かに実家の方だが、差出人は衿香だった。内心では心が興奮し、すぐにでも手紙を開封したい。けれど沙織の前ですることではない。
私はずるいから本心を明かさない。陽気な道化に徹するだけ。そうでもして気を紛らわせていないと寂しくてどうにかなってしまいそうだから。
時間がたてば、衿香に対するこの感情も少しずつ変わっていくのだろうか。心が落ち着き、離れていても不安定にならずに済むのかもしれない。そうなるのが嬉しいようで悲しくもある。
それでも、秘めた想いは変わらない。そう信じてる。
「さっ、早いとこ入学式にれっつごー」
手紙を鞄にしまい、歩きだした。後から沙織がついてくる。
「そんなに急がなくてもいいじゃない」
言いつつも小走りで私の隣に並んだ。
見れば周りには同じ制服の姿だらけだ。彼女たちは皆、今日から新しい生活をスタートさせるのだろう。私も気持ちを切り替えて、二年後を待ちながら日々を楽しんでいこう。前を向けと言った本人が後ろ向きじゃいられない。
朝日を反射する門をくぐり、私たちは学園の敷地へと足を踏み入れた。




