秋奈過去編 八 人情
八 人情
入寮して数日。いい加減ここの暮らしにも慣れてきた。沙織が来たのは、そんな生活に退屈しかけていた時のことである。
椅子に座ってくつろいでいると、部屋の扉がノックされた。寮監さんからあらかじめ今日新入りが来ると教えられていたから予想はできていたし、荷物も昨日のうちに運び込まれていた。
「はーい、今開けますね」
扉を開けると、二人の女性が立っていた。一人は寮監。そしてもう一人は初対面。私よりも背が高く、長い髪の少女だった。
「やあ、おはよう。こいつが今日から薙坂のルームメイトになる子だ。仲良くしてやってな」
寮監に背中を押され、よろめきながらその子が部屋に入って来る。黒髪が顔にかかっており、その表情を隠している。一目で雰囲気が普通ではないことがわかった。
一言で表すならば、とにかく暗い。人を寄せ付けないオーラがひしひしと感じられた。
「ほら、何事もまずは挨拶と自己紹介だよ」
寮監が目線を送って来る。私から切り出せということだろう。
「私、薙坂秋奈。これからルームメイトになるわけだし、よろしくね」
そして訪れる沈黙。てっきり向こうからも挨拶が返って来るかと思ったら違った。それどころか私と目も合わそうとしない。なんなのこの子。
「あんたも何か言いなさいって」
寮監が彼女の背を叩いた。それに反応して、ちらりと私に視線を送ってきた。髪の間から覗く目は、分厚いクマでもできてるんじゃないかってくらい重苦しいものだった。おまけに眼鏡が鈍く光っている。なんだか見えない力に押し潰されそう。
「名前……麻生、沙織」
かろうじて聞き取れたのはそれだけ。沙織と名乗った子は部屋の中へ滑るように入り込み、隅に積まれた段ボール箱に手を出し始めた。床に座り込みながら黙々と荷物を片付けて、私のことは完全無視だ。これから同じ部屋で暮らすってのに、これはあんまりじゃないか。
「いやー……なんつったらいいか」
さすがの寮監も苦笑せざるを得ないようだ。
「なんなんですか、あれ。寮生活に向いてないんじゃないですか?」
小声で不満をぶつけてみた。寮監は難しい顔をして何かを考えている。
「薙坂、ちょっといいか? 話がある」
「ええ、いいですけど」
「決まりだな。おーい、麻生。ちょっと薙坂借りてくからなー」
返事をしない沙織を背に、私は寮監に引っ張られていった。
「──で、お話というのは?」
寮監室に連れ込まれ、私は椅子に座らされていた。ふかふかの高級そうな椅子で、その気になればどこまでも倒れてしまいそうな可動式の背もたれ。
「ああ。大体予想はしてると思うが、麻生のことだ」
対して寮監は硬そうなパイプ椅子。この差はなんだろうかと少し申し訳なくなる。
「やっぱり……」
「率直に言うとな、あの子は根っこの方はいい奴なんだ。性格も、成績も。ただ、ちょっとデリケートな問題があってな」
話す顔は真剣そのもの。姿勢を正して続きを待つ。
「あたしが全部を実際に見聞きしたわけじゃないから、いくらかの推論は混ざっちまうだろうけど……麻生について、ちょっと語らせてくれ。ただし──」
寮監の目が、続きを聞く意思があるかどうかを訊ねてきた。しばし考える。沙織について、なんでもいいから知りたい気持ちはある。それに時間をおいた今なら、あんな風になったのにも何か理由があるはずだと想像できた。頷き、その目を見つめ返す。
「──ここで聞いたことは他言無用だ。もちろん麻生にも。約束できるか?」
私はもう一度頷いた。抱える秘密が、また一つ増えた瞬間である。
部屋に戻ると、沙織はまだ荷物の片付けをしていた。そんなに大量ってわけでもないのに、どこで手間取っているんだろう。
「手伝おうか?」
近付きながら、その背中に声をかけた。背が高いくせに、しゃがむと意外に小さい体をしている。足が長いってことか。少し分けてほしいものだ。
「……いい」
案の定、振り向かずに小声で答えが返ってきた。以前の私なら肩を掴んで強引に振り向かせていたかもしれない。
けれど、寮監から話を聞いてしまった今では、そんなことができるはずもない。ただその姿を眺めるだけ。それに、私の呼びかけに声で反応してくれた。
改めて見てみれば、沙織の黒髪は長くてサラサラだし、背も高くてスレンダー。整った顔のパーツは文句なしの上質素材だ。ざっくりとした言い方をしてしまえば、この麻生沙織という子は美人だ。それなのに、全身を包むオーラがすべてを台無しにしている。笑顔で明るく振る舞えば、たちまち人気者になりそうだと思うんだけど。
いや、それを沙織は嫌っているのかもしれない。一人になることを望んでいるのかもしれない。過去から逃げるために。
それでも、私は──。
「そんなこと言わないでさ、一緒にやった方がはかどるでしょ?」
沙織の隣に腰を下ろした。驚かせてしまったのか、体を引かれる。いきなり過ぎたかも。
「こっちの箱も開けていいの?」
言いながら隅に残っていた段ボール箱を引き寄せた。意外と重い。ポンポンと箱を叩きながら答えを待つ。
しばらく間があって、沙織は無言で頷いた。一歩前進、って言えるかな。少しだけ嬉しくなった。ここで拒絶しないってことは、まだ希望は残ってるってことだから。
それからの流れはこんな感じだ。私が箱の中身を出しては、どこに置けばいいのか聞いて、沙織はそれに短く場所を指差して教えてくれる。そんなぎこちない共同作業でも、なんとか十数分で荷物を片付けることができた。
すっきりした部屋で、改めて自己紹介をした。椅子に座って机に向かおうとした沙織を引き留めてこっちを向かせる。まったく、油断するとすぐ私を置いてこうとするんだから。
「さっきも言ったけど……私、薙坂秋奈。よろしくね」
やっぱり返事はない。けれどこっちを向いてくれてはいる。いい感じかな?
「名前、麻生沙織って言ってたよね。沙織って呼んでいい?」
思い切って踏み込んでみた。沙織の首が小さく動き、視線を泳がせているのだろうということがわかる。さて、どうなるか。
「……ん」
沙織は頷きながら、ほんの少しだけ声を出してくれた。掠れていたけど、変な声ではなかった。ちょっとだけ高いその声を、今度はちゃんと聞いてみたい。
「ありがと。私のことも秋奈でいいよ」
今までのやり取りで感じたのは、沙織は極度の引っ込み思案なんだろうなということ。本当は誰かとの繋がりを求めているのに、どこか変なところで踏みとどまってしまうから、結局は自分の殻にこもってしまう。
その証拠に、私がコミュニケーションを取ろうとしても拒絶する素振りは見せなかった。おどおどしてるけど、結局は私と向き合ってくれる。それなら私が徹底して心を開いてあげればいい。いつでも気が向いた時に沙織が手を伸ばせるように。
なんだか、沙織って不器用な子なんだな。そういうの嫌いじゃないよ。だって、私といい勝負なんだもの。
「ねえ、寮に入ったってことは家遠いの? 私は電車で一時間くらいのところなんだけど──」
それから私は自分のことを話し始めた。それと同時に質問もして、沙織の情報も引き出す。やっぱり沙織はここでも拒絶せず、少しずつだけど自分のことを話してくれた。声も予想通り澄んだ響きを持っている。
そういえば、こんな話があった。
「──えっ、てことはもしかして?」
「うん。奨学金貰ったんだ」
寮監も言ってたけど、この沙織って子は頭がいい。本当に上位数名の成績優秀者にしか奨学金は与えられないから、総合で三位以内には入っているんだろう。ちなみに私は貰えなかった。手ごたえはあったんだけどなあ……。
「なんだ凄いじゃん! 今度勉強教えてよ」
その時はどこがいけなかったのかなんてわからなかった。寮監からは簡単な概略しか教えられなかったし、深い内容までは知らなかったから。だから、明るくなりかけていた沙織の表情がすっと暗くなった意味も深く考えられなかった。
「……うん」
ただ元気がなくなっただけかと思い、こういう憂いを帯びた表情もいいなーとかくだらないことを考えていた。
「そういえば、そろそろお昼だね。せっかくだし、どこか食べに行こうよ。この辺も案内するしさ」
「じゃあ……ちょっと待って。準備するから」
そうやって何事もなかったかのように応じてくれたから、もう暗い表情のことは頭から消えていた。
まずは寮の中を案内。と言っても一階以外は同じような作りだし見て楽しい物もない。早々に一階へ行き、食堂や浴場を覗いて簡単な説明もする。外へ出るついでに、いつも陽気な寮監さんに挨拶をした。
学園の敷地に入り、南棟にある学食へ向かう。ランチが安いって情報も沙織に伝えたかったし、学食の広さも見せてあげたかった。その広大さに圧倒される沙織を見て微笑ましくなる。
「私も初めて見た時は驚いたね。何かのイベント会場みたいだなーって」
入口からでは、奥の席はミニチュア以下の大きさにしか見えない。中を一周するだけで五分か十分はかかるだろう。
後で知ったことだが、大学の卒業式が終わった後に、ここで卒業生を集めて会食が行われているらしい。関係者も大勢集まるので、この広さでも足りないくらいだとか。
食べ終わった後は学内の散策。空いた時間に暇潰しがてら色々と見ていたのが役に立った。もし私が部屋でゴロゴロしていたら、こうやって案内することもできなかったし、後に沙織が要さんを案内することもなかったかもしれない。
まずは現在地、学食がある南棟から……と言っても、あとは購買くらいしかない。南棟はほとんど学食メインの施設だからだ。購買で売っている物を眺めて、品揃えを確認するくらいしかやることがない。必要な物はお互いに用意していたから。
続いて四月から通うことになる校舎、東棟と呼ばれているところに入り、あちこち巡り歩く。こうやっていつでも入れる開放的な校風は好きだ。一応入口に守衛さんの詰め所があるから誰でも入れるってわけじゃないみたいだけど、チェックはそれほど厳重ではない。私が生徒証を軽く見せるだけで通過できた。沙織に至っては後に続いて歩いていただけ。これは顔パスと変わらないんじゃなかろうか。ちょっと不安になった。
次に、大学生が使う西棟へ。十階建ての高い建物だ。縦だけじゃなく横にも広いのは、ここ一つで大学の講義全てを賄おうとしているからだ。それでも足りず、後で行く北棟にもいくつか教室がある。敷地以上に学生数が多いのだろう。
エレベーターで最上階まで行き、そこから階段で下りながら各階の説明をしていく。大学生しか入れないパソコンルームとか、端っこの古い教室を使っているサークルの活動とか、なぜか各階の廊下にある椅子と机とか、そんなのを見て回った。私一人で色々と説明して喋っているので、そろそろ喉が疲れてくる。
最後に北棟。ここの講堂で私たちの入学式が行われる。まだ十日以上先のことだけど、近くにいるってだけで今からわくわくしてしまう。残念なのは講堂の中には入れないこと。そっと扉を押してみたけど鍵がかかっているようで開かなかった。この北棟が一番最近作られた建物らしく、内装がピカピカしてた。エスカレーターがあるのには感動が止まらない。なんでって言われたら困るけど。
併設された図書館は、西棟とは違いセキュリティが厳しそうだ。生徒証を当てないと入れないからだ。自動改札みたいなのが二つ並んでいる。入る時はこれを使い、出る時は横にあるゲートを使う。遊園地の入口にあるような一方通行の仕掛けがあって、出口から入ることはできないようだ。
図書館の中も軽く覗いて、これまた広いねとか本がいっぱいあるねとか話しながら巡る。外に出て時計を見たら、午後三時を回っていた。さっきお昼を食べたばかりの気がするけど、小腹が空いてきた。歩きまわったんだから仕方ない。それに喉を潤したい。
「もしよかったら駅前の方にも行ってみようよ。ついでにお茶したりしてさ」
そうやって沙織を誘って駅前へ。もちろん駅周辺も見て回ったことがある。やることが特になく、持ってきた本も読み終えてしまったので、本屋でも探そうかと何度か探索していたのだ。
駅を挟んで学園側は住宅街っぽくて静かだけど、反対側には大きなデパートもあってごちゃごちゃした感じになっている。それでも少し行けば、こっちと同じような景色が広がるんだけど。
駅前の道を一本外れた先にある喫茶店に入った。外装が年季の入ったレンガで、見るからに雰囲気がある喫茶店。最初ここを見つけた時は、そのすべてに感動した。大正か昭和の時代からそのまま残された空気。私はそういうのが好きだ。
テーブルを挟み、お茶と小さなケーキを囲んで会話。色々と回ってみてどうだったとか、内容はそんなこと。最初と比べると、沙織の表情が明るくなってきたような気もする。やっぱり笑った顔が一番綺麗じゃないか。こうやって沙織がいつも素直に笑えるようになれたら、きっと素敵だろう。
今考えると、私も寂しかったんだと思う。こうして沙織に構うことで衿香のいない隙間を埋めていた。もちろん当時の私はそんなこと考えているはずもなく、情が湧いた部分が大きかったと思う。それと純粋な好奇心。いい素材を持ってるのに使わなきゃ宝の持ち腐れだよなー、なんてこと。
もう一つ。沙織を自分が変えているという思い上がりもあった。閉ざされた扉を少しずつ開く楽しみ。その先にあるものが知りたくて、だけど急げば手を挟まれてしまうから徐々に。そんなスリルと達成感を味わっていた。
これを思い出すと自己嫌悪が止まらなくなる。こんなことを考えていた昔の私を説教して、その優越感をへし折ってやりたいくらいだ。
寮で夕食を済ませ、ここでの入浴について説明する。
「部屋にもそれなりのがあるし、一階に行けば大きいお風呂もあるよ」
「どっちがいいの?」
「その時によるかな。下まで行くのが面倒だったりすると部屋でシャワーさっと浴びるだけとかね。あと部屋のはシャンプーとか備品がないから自分で用意してね。それと掃除は自分たちでやるのがルールだから、その辺は当番で交代にやってこうよ」
一度に色々と言ったせいか、どうしようか迷っている様子。不慣れな状態でいきなり浴場に行って、沙織が知らない人に囲まれるのはよくないかなと思い助け船を出す。
「今日は初日だし、一階に行くのは慣れてからでもいいんじゃない?」
「うん、そうする」
「それじゃお先にどうぞ」
沙織は準備をして浴室へ向かった。それを見送り、私も今日は部屋で済ませようかなと考えていた。沙織を置いて外に行くのが、なんだか心配だったから。
そして就寝時間。ベッドに潜り込む前に確認しておく。
「真っ暗にする? 暗いのだめなら枕元にランプあるけど」
「あ、そうなんだ。──うん、いいよ。消しちゃって」
沙織の枕元が、ほんのりオレンジ色に染まった。
「んじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
電気を消し、ベッドに身を沈めた。疲れていたのか、すぐ眠気が襲ってくる。
眠りに落ちる前に、沙織が寝返りを打つ音が聞こえたような気がした。




