秋奈過去編 一 原点 / 二 展開
一 原点
あれは私が小学二年生の時だった。その日は確か日曜で、私は部屋で宿題をやっていた。難しい問題にぶつかり、先に進めず退屈で仕方なかった。
気分転換でもしようと部屋の窓から外を眺めていると、一人で遊ぶ少女の姿を見つけた。道路にチョークみたいな何かで落書きをしている。私はこの時から好奇心が旺盛だったのだろう。宿題を途中で放り投げて家の外へ出ると、その少女に声をかけた。
「ねえ、それってなんの絵?」
多分何かの花だろうと思っていたのだが、返ってきた答えはまるで違っていた。
「あのね、おかあさんをかいてたの!」
首を傾げながら改めて絵を見直す。なるほど。花びらに見えたのは耳と髪の毛で、その丸いのが鼻だったというわけか。だけど、ぱっと見では人だなんてとても思えない。
「ふーん。じゃあこっちは?」
思えば、そのよくわからない絵が私の興味を惹いたのかもしれない。
「これはおうち。それで、こっちがおそらだよ」
そう言って指差したのは、確かに空の絵だった。しかし、なぜ家が空を飛んでいるのだろうか。家と言うよりはロケットだと言われた方がしっくりくる。
「面白い絵だね」
子供心に私なりの気を使った言葉だった。
「ありがとう。にへへ」
そんな言葉に無邪気な笑顔が返ってきた。その時私はただ一つだけの感情を持っていたのを覚えている。
「お絵描きしてるの、見ててもいい?」
可愛いな、という思いだ。純粋で混じり気などない、ただそれだけを感じていた。だから、もう少しこの子を見ていたかった。
「いいよ。おねえちゃんもかく?」
そう言って少女が私に余ったチョークを差し出してきた。
受け取りながら少女の言葉を思い返す。お姉ちゃん。見た目から私の方が年上だと考えたのだろう。だが、それは推察に過ぎない。
そう言えば、まだ互いの名前すら交換していない。
「ありがと。私、秋奈。薙坂秋奈っていうんだ。家はそこだよ」
「あたし、えりか。うすいえりかっていいます! おうちはここにすんでます」
衿香が示したのはすぐそこの家だった。私の家から目と鼻の先だ。まあ道に落書きしてる時点で、この辺に住んでるってのは当然だろうけど。
それに、顔をよく見れば何回かすれ違ったことがあるような気がしてきた。狭い地域だし、近所の繋がりが強いせいだろう。挨拶くらいはしたことがあるかもしれないが、たとえそうだとしても、意識していなければ覚えていなくても仕方がない。
「よろしくね、衿香ちゃん」
今になって思い出すと少し恥ずかしいが、当時の私は衿香をちゃん付けで呼んでいた。知りあった最初の頃だけだったけど。
「うん! よろしく、あきなちゃん。きょうからともだちだね」
私の呼び方を真似したのか、衿香も同じように呼んできた。その名残で今でも私のことをちゃん付けで呼ぶが、衿香らしくて私は気に入っている。
「仲良くしようね」
ともかく、それが私と衿香の出会いだった。元気一杯の衿香は、見ていて飽きることがなく、楽しかった。
それから衿香と何度か遊ぶうちに、その人となりがわかってきた。私より二歳年下で、少し離れた幼稚園に通っていること。来年の春から小学校に入ること。その小学校が私の通っている所だということ。
自分のことを話す衿香の目は、作り物ではないかと思うほどくりくりとして可愛らしかった。
二 展開
翌年、小学校へ通うことになった衿香は、私と登校することがほとんどだった。その頃には親同士も仲良くなっており、家族ぐるみの付き合いとなっていた。そこで衿香の学校での面倒を見るのはどうするか話し合いがあったのだろう。成り行きとも言えるほどの自然さで、私は衿香の手を引いて学校へ歩いていた。
ある日、その光景を同級生に見られた。教室で一時間目の教科書を出そうとしていたら、二人の友達が私の席にやって来た。
「おはよう。ねえねえ、今日一緒に学校に来てた子ってだあれ?」
そう言ったのは美紀だ。名前に美しいとあるが、本人は活発なスポーツ少女で、カッコイイと言った方がしっくりくるだろう。そんなボーイッシュなイメージなのに、髪は長いというアンバランスさも兼ね備えている。
「あ、おはよう。えっとね、近所の子だよ。家が近くて同じ学校だから送って行きなさいってお母さんが言ったから」
その頃は純粋にそう思っていたのだろう。まさか「好きだから」とか「一緒にいたいから」なんてことを考えていたはずはない。少なくとも当時の私は。
「そうなんだー。妹かと思ったよー。仲良しに見えたからねー」
語尾を伸ばすこの子は加奈。いつもニコニコしているような子で、美紀と行動を共にすることが多い。今日も一緒に登校していて、そこで私と衿香を見かけたのだろう。
「そうそう。手繋いで大きく振ってたもんね。あとすごくかわいい子だった」
「そうでしょ? 私も衿香はかわいいと思うよ」
「あの子衿香ちゃんっていうんだ。今度一緒に遊ぼうよ」
「わたしもー、衿香ちゃんとー、遊びたいなー」
「うーん……じゃあ後で衿香に言っておくね」
「ありがとーっ。あ、先生来た。またね」
美紀と加奈は急いでそれぞれの席に着いた。前で教師が話をしているのに、私の方をチラチラ見ては嬉しそうに手を振っている。私は「前見てないと先生に怒られるよ」と伝えたいのだが、喋ったら怒られるからテレパシーで伝わればいいのに──なんてことを考えていた。
昼休み、早く食べ終わった上に掃除当番でもなかったので時間が余っていた。ふと思い立って衿香の教室まで行ってみることにする。
あの後も、休み時間が来るたびに美紀と加奈は衿香について質問してきた。そのせいで私の頭は衿香でいっぱいになっていたのだろう。
私の学校は公立で、下町にあるせいか生徒数が少ない。各学年が一クラスずつしかないほどだから、他と比べたら異常とも思われるだろう。当然クラス替えなんて洒落たものはなく、三年生になった今も教室に集まるメンバーは変わらない。変化があるとすれば転校生くらいだ。
二年前まで私が使っていた教室に着いた。掃除の最中らしく、机が後ろにまとめられている。不自然にならないよう、なんとなくを装って中を覗いてみる。数人の生徒が床を掃いているのが見えた。おしゃべりをしつつ、面倒なはずの掃除を楽しんでいるようだ。
衿香がいることはすぐにわかった。友達らしき生徒たちと話しながら、片手間感覚で掃除をしている。入学したての頃は友達ができるか不安がっていたのに、今ではこんなに楽しそうだ。
安心すると同時に、少し拍子抜けもしてしまった。元々声をかけるつもりもなかったので、私はそのまま教室を後にした。
放課後、いつもは衿香を待って帰るのだが、今日は一人で帰ろうと決めていた。いくつも浴びせられる質問のせいでストレスがたまり、なぜか衿香のことをうっとおしく感じてしまっていたのだ。それに、私がいなくてもクラスに友達はいるようだし、一緒に帰る相手には困らないだろうとも思っていた。
下駄箱で靴を履き替え外に出たところで、私は自分の考えが間違っていたことを知る。衿香がそこで待っていたのだ。赤いランドセルを背負い、黄色い帽子をかぶった姿は幼く、訳もなく守りたいという気にさせられてしまう。
「あきなちゃん」
私に気付いた衿香がこちらに駆け寄ってくる。トテトテと、危なっかしくて見ていられないような走り方だけど、その笑顔に毒気を抜かれて何も言えない。
「衿香、もしかしてずっと待ってたの?」
困ったような、でも嬉しいような感情の正体がわからない。
「ううん。さっききたばっかりだよ」
輝く目で私を見上げる衿香。期待するようなその目は何を待っているのか、考えればすぐに分かった。
「そう。じゃ、帰ろうか」
「うん!」
そっけない私の声とは逆に、衿香は弾んで答え、私の手を取った。何度も握り、手の感触を確かめているようだ。私からも握り返してあげると、衿香は無邪気な笑顔を見せてくれた。
さっきまであんなにはしゃいでいたのに、歩き始めてからはそれが嘘のように静かになっている。先走って駆け出すこともなく、私の手が引っ張られることもない。ゆっくりとした、穏やかな帰り道。
学校の終わりと始まりを共に過ごす。それが私たちの毎日だった。




