十月十六日 誕生日と穏やかな時間
「それじゃ、すぐ戻ってくるから待っててね」
そう言い残して沙織は去ってしまった。残されたのは要と秋奈。
「……行っちゃった。沙織の用事ってなんだろう。秋奈さん何か聞いてる?」
「いいや何も。沙織ったら教えてくれないんだもん。ああ見えて頑固なところあるんだよね。秘密主義貫いちゃってさ」
「どうしたんだろう……」
放課後になってすぐ、沙織は要を教室から連れ出した。今日が自分の誕生日ということもあり、要が普段とは違う期待を抱いたのも事実だった。昼食を済ませ、寮の部屋へと向かった時には、泊まりの準備をするだけだろうと要は考えていた。すぐに自分のマンションへと向かうはずだと。
しかし、部屋に着くなり沙織は出て行ってしまい、今では秋奈と二人きりである。もちろん嫌ではないが、出鼻をくじかれたような、肩透かしを受けたような、要はそんな気分になっていた。
「そうだ、今のうちに」
秋奈が自分の机を探る様子を、要は眺めていた。しばらくして秋奈がこちらに向き直る。
「はいこれ。お誕生日おめでとう」
差し出されたのは薄緑色の巾着袋だった。口を留めている青いリボンが小さく揺れる。
「えっ、ほんとに? ありがとう!」
思いがけないプレゼント。要はそれを受け取り、そっと自分の手に乗せた。
「沙織より先に渡すのもどうかなって思ったんだけど、どっか行って要さんを一人にして寂しい思いさせてるからさ」
秋奈の言葉を聞きながら、手元の巾着袋を眺める要。触ってみるとそれは柔らかく、食べ物ではなさそうだ。とても軽く、中身が想像できない。
「開けてみてもいい?」
「どうぞどうぞ」
要はリボンの端を引っ張り、その中に手を入れた。直に触れた物を取り出して、その正体を確かめる。
「これって……」
「うん。ブックカバーだよ。要さん、本を色々と読むって聞いたから」
黒い革製のそれは部屋の光で輝いていた。肌触りの良い表面を数回撫でる。
「ありがとう。大事にするね」
「沙織のプレゼントも大事にしてやってね。きっといっぱい悩んで選んだはずだから」
「……うん」
沙織から何を贈られるのか。考えてはいたのだが、こうして他者に意識させられると深く想像してしまう。用意された物に込められた沙織の気持ちや、今どこで何をしているのか。
そして、そもそも今日が誕生日だと覚えているのだろうかという小さな疑念さえも。
*
「お待たせ! ごめんね、時間かかっちゃった」
沙織が部屋に戻ったのは、それから二時間ほど後のことだった。その手には小さな紙袋を持っている。
「おかえり。もう用は済んだの?」
要の視線がその袋に向くが、まだ中身を教えるわけにはいかない。
「オッケーだよ。すぐにでも要の部屋へ行けるよ」
言いながら沙織はクローゼットを開き、大きめの鞄を取り出した。その中には着替えや歯ブラシなど、泊まりに必要な物が一通り入っている。
「沙織、昨日の夜から用意してたよね。準備がよろしいことで」
秋奈が椅子の背もたれを軋ませながら言った。
「すぐに出かけられるようにね。じゃ、行こっか?」
「うん。秋奈さん、またね」
「またね。久々に要さんと二人で話せて楽しかったよ」
そこまで言って秋奈は立ち上がり、沙織の耳元にそっと囁く。
「ちゃんといいムード作ってからプレゼント渡すんだよ?」
以前の沙織ならここで顔を真っ赤にして固まっていたことだろう。
「がんばってみる」
しかし、今はこうして秋奈に囁き返すことができる。沙織が成長した証拠だろう。
「どうしたの? 二人でこそこそして」
「なんでもないよ。じゃ、秋奈。またねー」
「はいよー」
こうして要と沙織は部屋を後にした。外に出て、門の近くまで行くと雑草の間引きをしている寮監に出会った。
「こんにちは」
「おお、こんにちは。今日も二人は一緒で仲良しだな」
麦わら帽子にモンペという農作業風の姿は寮という場所にはミスマッチだが、この寮監という女性にはなぜか似合っている。
「ありがとうございます。今日もこれから要の部屋に行くんです」
「おっ、いいねえ。青春だねえ。楽しんでおいでよ」
「はい。それでは」
寮監に見送られながら、二人は要の部屋を目指して歩き出した。十月になり、過ごしやすい日が続いている。両手に荷物を持っている沙織も、それほど暑さを感じていない。
しかし、両手が塞がっていることで要と手を繋げないのは残念だった。せめて要も両手に何か持っていれば諦めもつくのだが、その片手は空いている。
「沙織、荷物重くない?」
「ん、これくらいへっちゃらだよ」
実際それほど辛くはない。それに、左手で持った紙袋の重さは自分で確かめ続けたかった。
要の部屋に着くと、いつものように和室へ通された。懐かしい畳の香り。自然と沙織の表情が和らいでいく。畳の継ぎ目を踏まないように奥へと進み、荷物を置いた。
隣の洋室から着替えた要が戻ってくると、もうこれ以上黙っていることはできなくなっていた。本当は学校で会った瞬間に伝えたかった言葉がこぼれ落ちる。
「要、お誕生日おめでとう」
ここまで引き延ばしたからにはプレゼントと一緒に言うべきかとも考えたが、まずは気持ちだけでも祝ってあげたかった。
「ありがとう。覚えててくれたんだね」
一瞬だけ驚いた顔は、すぐに心からの笑顔に変わる。要もそれなりに緊張していたようだった。
「当然だよ。それでね、これなんだけど」
沙織は左手に持ち続けていた紙袋を掲げた。要が頷いたので言葉を続ける。
「バースデーケーキ。一応わたしの手作りだよ」
「えっ、わざわざ作ってくれたの?」
「要をビックリさせたくてね。さっき部屋を出てったのも、これを作るためだったんだ」
「ほんとに驚いた……ありがとう」
目を見開いた要を見て、順調な滑り出しを予想する沙織。
「今食べる? それとも食事の後とかがいいかな」
「後がいいな。冷蔵庫、入れる場所作るね」
小さな冷蔵庫にも、ケーキの箱は難なく入った。同時にペットボトルの麦茶を出し、和室へと持っていく。それを飲みながら、ようやく二人は落ち着いて話を始めることができた。
夕方になり、食事の準備を二人で始める。以前にも共に準備したこともあって、その動きは息の合ったものだった。手慣れた動きと的確な補助。瞬く間に料理が完成していく。
「はい、野菜出しといたよ」
「ありがと。沙織って気がきくね」
「えへへ」
沙織も要の動きを見れば、次にどうするのか、何をしてほしいのか判断できるようになっていた。
途中、要が浴室の掃除に行ったために、沙織が残された時間があった。食器や調理器具がどこにあるかも把握しているため、一人でもそれなりの作業ができている。
一段落したので、キッチンの隅にある椅子に座って要を待つことにした。すぐ近くから聞こえるシャワーの音。掃除のために水を流しているのだろうが、それが耳に心地よく響いている。
炊飯器から立ち上る白い煙。米の炊ける匂いが嗅覚と唾液腺を刺激する。親しい人と過ごせるこの時間と幸せを、沙織は改めて噛み締めていた。昔の自分では考えられなかった今という瞬間。
両手を膝の上で組み、フローリングの床を見つめる。目を細め、そこに過去の自分を幻視する。思い出したくはないが、忘れてはいけない姿。いつか笑い話として語れるようになるまで、胸に秘め続けるだろう。あんな過去でも、今の自分を形作る要素になっているのだから。
「お待たせ。続き、始めちゃお?」
要が戻ってきた。反射的に沙織も立ち上がる。暗い影は、今はもう掻き消えていた。
「次はナスを切るんだっけ? わたしがやるよ」
「これ、どうかな。味濃くない?」
「ちょうどいいよ。要の味付けだもん」
「よかった。こっちのサラダも食べてみて」
二人の食事は賑やかではない。それでも、この緩やかに流れる空気が二人には合っていた。ゆっくりと、しかし確実に減っていく料理たち。奮発して作り過ぎてしまった部分もあったのだが、ほとんど食べ尽くすことができた。
食事の後、残った料理を冷蔵庫に入れてからケーキの箱を持ってくる。畳の部屋にケーキという和洋折衷だが、それを気にする二人ではない。
「開けるよ?」
そう言って沙織は蓋を取った。その中に入っているのは手頃な大きさのホールケーキ。そっと力を入れ、要の方に少しだけ押し寄せる。
「これを、沙織が作ったんだ……」
シフォンケーキという変化球だったが、要にも好意的に受け取られたようだ。純白の生クリームは塗られていないが、代わりに紅茶の香りを周囲にまとっている。
「わからないところは彩に教えてもらったけど、それ以外は全部わたしがやったんだよ」
「すごいなあ……じゃあ、この文字も沙織が?」
「そうだよ。うまく書けるようにいっぱい練習してね」
沙織はアルファベットで書かれたハッピーバースデーの文字と要の名前に目を落とす。最初は彩が書く予定だったが、やはり自分で書きたいと沙織は思うようになった。細部まで自分の力でやり遂げたくて、彩に何度も指導されたことを思い出した。
「そっか……とっても嬉しいよ」
要は様々な角度からケーキを観察している。食べたいけれど、このまま見続けてもいたい。そんな考えを持っていそうな視線だった。
「せっかくだから食べようよ。味も自信あるから」
「フォークとお皿、持ってくるね」
そう言って部屋を去った要が戻ってくるまでのわずかな時間、沙織は自分の鞄に手を入れ、すぐ取り出せる場所に目的の物があることを確認した。
「わたしに切らせて」
要からフォークを受け取り、沙織はケーキの一角を切り分けた。それを要の取り皿に乗せて差し出す。
「ありがと。じゃあ沙織の分は私が」
先ほどの沙織と同じように、要もケーキを沙織の取り皿に乗せた。一連の流れを見ながら、沙織は満面の笑みを浮かべる。誰かのために何かをすることが、これほどまでに幸せなことなのだと今になって実感できた。
「よーし、食べよう! ほら、食べて食べて」
「沙織はいいの?」
「わたしは要が食べてから」
「それなら、いただきます」
要が一口大にケーキを切り、それを刺して口に持っていく。自分の作ったケーキが飲み込まれるまで、沙織は要をじっと見つめていた。
「……そんなに見られると恥ずかしいんだけど」
「あっ、ごめん。それで、どうだった?」
「もう一口食べてみないとわからないな。ということで」
要は再びケーキを口に含んだ。食べ終わると沙織が感想を求め、それに「もう一口」と答え続ける要。そんなやり取りを繰り返すうちに、要の取り皿は空になっていた。
「もう! ちゃんと感想教えてよー」
膨れっ面になった沙織に、要は真面目な顔で答える。
「あまりシフォンケーキって食べないんだけど、すごくいい味だったよ。沙織の気持ちがこもってたからかな」
「あ、ありがとう。なんか、そんなに喜んでくれたら照れるな」
沙織がはにかんで頭を掻くと、要の言葉が追い打ちをかける。
「次は沙織が食べる番だね」
「えっ?」
「で、私がそれを見て楽しむ番」
「そんなー」
目尻を下げて困ったような表情を作る沙織とは逆に、要はとても楽しそうに口角を上げている。
「さっきのお返し。ほら、食べて」
要に促されると沙織は弱い。観念してフォークを手に持つ。
自分に向けられる視線を存分に浴びながら、沙織はケーキを食べ続けた。見られながら食べるというのは落ち着かないことだが、少しだけ嬉しいと思ってしまう自分がいるのも事実だった。
「……ごちそうさま」
沙織が食べ終わり、ケーキは最初の三分の一ほど残った。
「私もごちそうさま。残ったのは明日また食べる?」
「そうだね。冷蔵庫入れとけば日持ちするって彩も言ってたし」
「じゃあ、しまうついでに飲み物も持ってくるね」
要が和室から去ったのを見計らい、沙織は鞄から素早く小さな箱を取り出した。先ほど確かめた目的の物。要が戻ってきたら、すぐに渡せるように。
「麦茶、あと少しだから飲んじゃおう」
机に置かれたグラスを持ち、一気に飲み干す。その勢いに気圧されたのか呆然としている要に顔を向け、沙織は告げる。
「実はね、プレゼントはさっきのケーキだけじゃないんだ」
「えっ、そうなの? あれだけでも凄く嬉しかったのに」
「はいっ、これ。きっと要に似合うと思うんだ」
隠し持っていた箱を隣の要に渡した。手に置かれたそれを、要はただ見つめている。
「開けてもいい?」
「もちろん」
要は包みを取り、箱を開ける。その手つきは丁寧で、包装紙を乱暴に破くこともない。
「これって……」
「指輪だよ。要、この前アクセサリーつけてみたいって言ってたから」
箱から指輪を取り出し、掌に乗せる要。今は嬉しさよりも驚きの方が大きいようである。
「指のサイズなんていつの間に?」
「それは、ほら。普段のスキンシップで色々と」
「……そういうことだったんだ」
「ほら、手出して。わたしがつけてあげる」
「どっちの手がいいの?」
「右手で」
「じゃ、はい」
要の手を取り、沙織は指輪を持つ。目指すは要の中指。
まず指先は簡単に入った。問題はここから。途中でつかえたりしないかと沙織は気が気ではない。指の根元へ近付くにつれて、胸の鼓動が高まっていく。ふと要を見ると、彼女も指輪の動きに見入っていた。
「──えっと、これでどうかな」
思ったよりも簡単に指輪は根元まで達した。関節部分で引っかかることもない。何事もなく指輪は要の指に収まった……のだが。
「うーん……こういうもの、なのかな?」
要も感想がはっきりしない。そのままにしておけば動くことはないが、完全に指輪が密着しているわけではない。紙片くらいは通せそうな隙間。単純に言えば、少しだけ緩かったのだ。
「ご、ごめん。わたしもよくわからなくて」
沙織の焦りは要にも伝播する。視線は泳ぎ、手は当てもなく空を切る。
「でもさ、ほら、このデザインとか色、私好きだな」
「あ、そう? それならよかった……けど」
指輪一つで雰囲気がここまで変わるとは誰が予想したか。沙織はどうすれば良いかわからなくなっていた。
「でも、本当に嬉しいな。沙織、プレゼントどうするか凄く悩んだんでしょ?」
「えっ、どうしてそれを」
「秋奈さんが教えてくれたよ。どうしようどうしようっていつも言ってたって」
「もう、秋奈ったらぁ……」
「ありがとう。大事にするね。肌身離さずつけるようにする」
そして要の一言で再び変わる雰囲気。沙織は嬉しさで胸が一杯になった。
「わたしも、これずっとつけてるよ」
言いながら、自分の首に提げられたネックレスを手に取った。先端の十字架はくすむことなく輝きを放っている。汚れが付かないようにと日々磨いた結果である。
「これ、もう沙織の一部みたいになってるよね」
「わたしもこれがないと、なんかしっくりこないんだ」
「きっとこの指輪もそうなるよ」
「そしたら嬉しいな」
「私も」
視線を交わすと、自然に二人とも笑顔になった。沙織は手を伸ばし、要の指輪に触れる。その輪郭を指と一緒になぞっていると、要も沙織のネックレスを手に取った。十字架を指でもてあそんでいる。
もう二人に言葉はいらなかった。見つめ合っては微笑み、互いの距離を縮めていくだけ。
「そろそろ、お腹も落ち着いたかな?」
食器を洗い終え、しばらくしてから要が言った。時刻は午後十時前。何気なく眺めていたテレビからはニュース番組の予告が流れている。
「そだね。こんな時間だし」
「お風呂、先に入る?」
「あー……どうしようかな」
横に座った要を見た。小さく首を傾げて答えを待つ姿は、その背丈と相まって小動物を連想させる。一度目を逸らしかけたが、それを乗り越えると言葉がすんなりと流れ出た。
「一緒に入りたいなぁ……」
「えっ、私と?」
要が驚きに目を見開くと、沙織の心にも余裕が生まれ始める。
「他に誰がいるのさー」
「うーん、狭いけどいいの?」
「狭いからいいの」
積極的な言葉も出てくる。これが雰囲気の力というものだろうか。
「しょうがないなあ。いいよ、入ろっか」
小さく息を吐き、要は眼鏡を外した。沙織もそのすぐ横に眼鏡を添える。机に置かれた眼鏡が互いを見つめ合うような位置に。
二人は浴室へ移動し、洗濯機の横に置いたカゴへ脱いだ服を入れていく。何度も視線が交わるのは互いを意識しているからか。
「やっぱり、脱ぐのって恥ずかしいね」
沙織は要に背を向けた。後ろで衣擦れの音がする。
「じゃあ、なんで一緒に入ろうって言ったの?」
「それは……なんとなく?」
「ふふっ。変なの」
要がこちらを見ているかはわからない。背中を見られているのは気のせいだろうか。
けれど脱がなければ先に進めない。架空の視線を感じながらも沙織は一糸まとわぬ姿になり、タオルを胸に持った。要はどうしたかと思い、振り向いてみる。
「ん、どうしたの?」
なんのことはない。そこには要が自分と同じような姿でいただけだ。それだけのはずなのに、沙織の視線は泳いでしまう。
「えっと、なんでもない」
対する要は冷静そうである。視界がぼやけてはいるが、微笑んでいるのだろうということはわかる。
「寮でお風呂入った時はもっと大胆だったのにね」
「あれは、さ。いつも入ってるところだからだよ。それに──」
「うん」
「──要と二人きりで入るの、初めてだし」
要は納得したような声を出す。
「そっか。じゃ、これも誕生日プレゼントって考えていいのかな?」
言うなり沙織の手が握られた。視線を手に落とし、すぐに要の顔へと戻す。はっきりとは見えないが、楽しんでいるような空気は伝わってきた。
「いつまでもここにいたら風邪ひいちゃうよ。早く入ろうよ」
繋いだ手が引かれ、浴室へ連れ込まれる。ほのかに感じる熱気は湯船に張られた湯のせいだけではないだろう。周囲に漂うのは、入浴剤による人工的な森の香り。
「沙織は先にお湯に入るタイプなんだよね」
言いながら要は浴槽の蓋を取り去った。抑えられていた湯気が立ち上る。
「さっ、どうぞ」
「じゃあ、お先に」
沙織は浴槽へと足を差し入れた。寮の浴場ほど熱い湯ではないが、その分入りやすい。腰を落ち着けると、胸のあたりまで浸かることができた。目を細めて一息つく。
「先に体洗っちゃうから待っててね」
要がバルブを捻り、シャワーを出した。温かい湯が出るまでしばらく待ってから体を洗い始める。耳朶を叩くのは床に当たって弾ける水滴の音。
沙織はその様子を眺めていた。裸眼と湯気の影響で確かな姿は見えないので、浴槽の縁に顎を預けながらぼんやりと。髪を洗い、顔を洗い、体に泡を伸ばし始める要。
「えっと……そんなに見られてると、ちょっと恥ずかしいよ」
その白い肌に手元の泡が同化しているようにすら見える。要と視線が交わると、再び沙織に悪戯心が芽生えた。
「ねえ、要。私が体洗ってあげる」
言うなり沙織は立ち上がり、湯船から出た。体から滴る湯をそのままに要の後ろへ移動する。要の持つスポンジへと手を伸ばすと、ほんの少しだけ抵抗される。
「えっ、そんな、悪いよ」
「いいの。要は誕生日なんだから、これもプレゼントだと思って」
「……わかった」
大人しくなった要からスポンジを受け取り、沙織はそれを泡立てる。目の前には滑らかで白い背中が広がっている。神秘的にすら思えるそこへ泡を撫で付けるように、そっとスポンジで擦ってみた。
「あー……なんだか、いい感じ」
要が気の抜けたような声を出した。それが斬新で堪らなくて、嬉しくて、もっと触れたくて。沙織は要の肩に手を置く。
「ひゃっ」
「肩が緊張してるよ? 力抜いて」
「いきなりだったから……」
背中の次は体の前方へ。脇腹を通り、腹部に達したところで要に手を掴まれる。
「も、もういいってば。ありがと」
「えーっ。もっと要に触ってたいよー」
「だーめ。ほら、スポンジ返して」
「おーっと。そうはいかないもんね」
「……っ! くすぐるの禁止!」
「ここが弱いんだ。えいえい」
「やあっ……もう、やめてったら」
そんなじゃれ合いさえも、二人は楽しんでいるようだった。結局、上半身は沙織に泡立てられてしまったものの、残りは要自身で洗うことになった。
「じゃあ、次はわたしが体洗うね。要はこっちであったまってて」
浴槽を示すが、なぜか要は動こうとしない。どうしたのかと思っていたが、すぐに答えが返ってくる。
「そうはいかないよ。今度は私が沙織を洗ってあげないと」
攻守交替の狼煙は不意に上がるものである。特に要と沙織の間においては。
「えっ。だって誕生日の主役にそんなことさせるわけには」
「でもね、誕生日の主役の言うことは聞くものじゃない?」
沙織は反論できなかった。要がそうしたいと言うなら、それを叶えてあげたいと思ってしまうから。それに、先ほど半ば強引に事を進めてしまった負い目もある。
「じゃあ……優しくしてね」
「安心して。痛くしないから」
そんな冗談を返されて、少しだけ沙織も笑ってしまう。それで緊張がほぐれ、要の手つきに体を任せることができた。長い髪を洗うのは大変そうだったが、要が楽しそうに髪を撫でるのが分かるので安心できた。
洗い終わった髪を頭の上でまとめ、露わになった背中に泡が塗られていく。当然のように沙織の肩には手が置かれている。視界の端に映るその手は要が後ろにいるという事実を主張しているようで、ついさっきまで自分がしていたことの大胆さを思い知った。
「要……そこ、ちょっとくすぐったい」
「沙織もさっき同じことしたんだから我慢して」
「そんなぁ……」
調子に乗りすぎたかなと反省しつつも、この状況を楽しんでいる自分がいることに気付く沙織であった。
互いに体を洗い終えた後は、一緒に浴槽へ入った。はっきり言えば二人で入ると狭い。だが、沙織も言ったようにこの状況こそ待ちわびていたものだった。
「狭いけど、体きつくない?」
「平気だよ。これくらいがちょうどいい」
沙織は湯の中に要の手を探した。すぐにそれは見つかり、素早くその指を捉えた。
「それに、要が近くにいるんだもん」
「沙織ったら」
呆れたような声には、明らかに楽しむような響きが含まれていた。
「えへへ。こういうのって、いいよね」
沙織の言葉に要は何も言わなかったが、代わりに手を握り返してきた。それが嬉しくて、沙織も同じように力を入れる。しばらくして同じように要から無言の返事。あとはその繰り返し。
湯に浸かっていない部分を温めるように体を寄せ合う。静かな水音と共に時間は過ぎていった。
「ほら、沙織。うたた寝してると風邪ひくよ?」
その声で沙織は半分失いかけた意識を取り戻した。視界がぼやけ、正しい思考ができない。ただ分かるのは、すぐ横に要の顔があることだけ。
時刻は午前零時を過ぎた頃。寝る準備をすべて済ませた二人は、寄り添って何をするでもなく時間を潰していた。会話をすることもあれば、手を繋ぎ合ったりもした。相手の肩に頭を預け、また預けられ。そんなことをしている内に沙織は船を漕いでいたらしい。
「……じゃあ、ちゃんと寝る」
「布団入って。私が電気消すから」
沙織が布団に潜り込んだのを見計らって、要が電灯の紐を引いた。豆電球の光も消え、暗闇が部屋を包む。目を閉じても開いても見えるのは黒一色。すぐ近くの要がどんな顔をしているのかすらわからない。
しかし、それも沙織には関係ないこと。眠気に負けた者の末路は決まっている。目を開くことなどできない。
「沙織、今日は寝るの早いね」
「んぅ、かぁなめー」
呂律の回らない声と共に、沙織の手が要に回された。要が抱き枕のようになる格好。
「おやすみ」
そっと頭に手を置かれ、撫でられる。それだけで十分だった。それ以後の記憶を沙織は持っていない。
「ふふっ。かわいい」
だから、要が自分の寝顔を眺めていたことも、頬をつつかれたことも知らない。「ありがとう」と耳元で囁かれたことも。
ただ、その無防備な姿を晒しているだけ。




