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八月十一日 隠してきた弱さと先行プレゼント

 秋奈の家、その二階にある小さな部屋。光を遮るはずのカーテンさえも透過して、夏の朝日が部屋を照らしている。床に敷かれた布団の中、左側に感じる衿香の温もりとは違う熱を受け、秋奈は目を覚ました。

 日光から逃げるように寝返りを打つと、衿香の寝顔が視界を占拠した。秋奈の左腕にしがみつき、静かに寝息を立てている。無防備な唇が、時折わずかに動く。


 こちらに帰ってきた日は衿香の部屋に泊まったが、今日はこうして秋奈の部屋で目を覚ました。衿香の家に世話になり続けることを申し訳なく思った秋奈と、久しぶりに秋奈の部屋に行きたいという衿香の利害が一致した結果である。

 昔は互いの家を行き来し、そのまま泊まることも一度や二度ではなかった。可愛らしい色で整えられた衿香の部屋と違い、秋奈の部屋は装飾よりも、個人的な趣味に力を入れた内装である。いわゆる「女の子らしさ」といった点では衿香の部屋に敵わない。

 それでも衿香はこの部屋を気に入り、今こうして寝顔を晒している。頬を突いてみても、起きる様子はない。髪や頭を撫でても同じだった。味を占めた秋奈は、ここぞとばかりに衿香の感触を堪能する。


「んぅ……あ、おはよう」


 ゆっくりと瞼を開いた衿香の声は、寝起き特有の掠れたものだった。


「おはよう。ぐっすり眠れたみたいだね」


 衿香を撫でる手は止めずに言った。寝癖が目立たない髪質でうらやましくなる。


「うん……えへへ」


 そこでようやく秋奈の手に気付いたのか、衿香がはにかんで俯いた。腕にしがみつく力が、少しだけ強まる。


「そろそろ起きる? それとも、二度寝する?」


 その質問に、衿香は考える素振りを見せる。


「……起きる。けど、もう少しこのままでいたい」

「いいよ。衿香が望むだけ、ずっとこうしててあげる」


 秋奈は衿香の頭を抱き寄せた。左肩に衿香の吐息を感じる。そこに生まれた第三の熱も冷めやらぬうちに、衿香が甘えるような声の断片を発しながら頬を擦り寄せてきた。

 秋奈も寝起きで頭がうまく回らなかったのかもしれない。特に何を考えるでもなく、目前にある衿香の髪に顔をうずめた。鼻腔いっぱいに広がる衿香の香り。意識が朦朧とするのは、まだ眠気が残っているせいだろうか。

 ともかく、秋奈はしばらく衿香とこうしていることにしたのだった。







 午前十時二十分、二人は町に出た。秋奈が帰る前に、慣れ親しんだ道を歩いて町の様子を見ておきたい。そんな願いからの外出だった。

 共に通った小学校。少し離れた場所にある中学校。年が明けてすぐの深夜に初詣をした神社。町はずれにある小さな駄菓子屋。その近くにある公園。何もかもが懐かしく、思い出の詰まった場所だった。


「なんか、久々に来るとさ、下町っていいなって思う」


 隣を歩く衿香は、秋奈の気紛れで決まる散歩にもついて来てくれている。


「あたしはあっちの方がよかったと思うけどな」


 あっちの方とは、葛上山市のことだろう。互いにないものを求めあっているということか。


「じゃあ、また来る?」

「いいの? 会いに行っても」


 期待を含んだ衿香のまなざしを裏切ることなど、秋奈にできるはずもない。


「あたりまえでしょ。会えないのは寂しいもの」

「うん。だから、秋奈ちゃんが来てくれて、ほんとに嬉しかった」


 繋いだ手に力がこもる。どちらが先に強めたのか、それは問題ではない。


「まだ帰らないから、一緒にいられるよ」

「夜だっけ。帰るの」

「一応門限あるからね。夕食終わったら行こうかなって考えてる」


 別れを意識した話をしたせいか、二人の間に言葉が少なくなる。いつしか町はずれを抜けだし、駅近くの交差点に出ていた。


「そうだ、秋奈ちゃん。ちょっとお茶していかない?」

「いいね。あ、もしかしてあそこに?」

「うん。チーズケーキ、一緒に食べよ?」


 以前、携帯電話で一日中話していた時に衿香が行ったのが、この喫茶店である。


「お昼前だから、一つを半分ずつね」


 もう一つ理由があったのだが、あえて言わなかった。伝えなくても、衿香なら感付くだろうという確信があったのだ。







 秋奈の部屋に戻り、二人は並んで座っていた。午後三時、別れの時間は着実に迫っている。どう足掻いても、時を止めることはできない。


「衿香は、さ」


 そのせいか、秋奈の弱気が再び顔を出した。


「なあに?」


 見上げる衿香の顔は、曇りない笑顔だった。


「……辛くない? 私と離れるのが」


 そんなことを言ったからどうなるというわけではない。ただ、自分一人で寂しさを抱えきれない弱さから来るものだった。昨日と同じ、弱い自分。

 衿香はきょとんとした表情で考えていたが、しばらくして真剣な視線を秋奈に向ける。


「辛くないよ。だって、お先真っ暗ってわけじゃないもん。秋奈ちゃんがあたしの気持ちを受け入れてくれた。拒絶しないで答えを出すって決めてくれた。それだけで本当は満足なんだ。それにね、何があっても秋奈ちゃんはあたしを悪いようにはしないって信じてる。おかしいよね……これが惚れた弱みってやつなのかなあ。それともただのうぬぼれ、かな」


 言い切った衿香は、俯いて視線を泳がせる。秋奈は相槌すら打てずに聞き入っていた。

 初めて聞いた衿香の本心。そしてそこに含まれた愛情。思えば、衿香から恋愛要素を含んだ言葉を受けたのは告白された時が最初で最後だった。少なくとも二年後の返事までは隠そうとしていたであろう愛情を、今こうして引き出してしまった。


「うん。絶対に悪い返事はしない。私も待ってるから」


 だから、自分が情けなくなる。強まる自己嫌悪。それでも揺るがぬ信頼を預けてくれる衿香が、愛おしくて仕方ない。


「ふふっ。期待しちゃうよ?」


 その顔は、どこまでも無邪気だった。普段通りの、秋奈が好きな明るい表情。


「いいよ。久永に来たら、とっておきの入学記念プレゼントをあげるから」

「楽しみだなあ……」


 うっとりとする衿香に、少しだけ感情を放ちたくなる。


「私、今日帰っちゃうからさ、その代わりと言っちゃアレだけど……そのプレゼント、先に少しだけあげる」


 言い終わると、すぐに秋奈は衿香の顔に近付いた。既に薄く染まっていた左の頬に、唇を重ねる。触れたのは一瞬のつもりだったが、数秒だったかもしれない。顔を近付けた瞬間に、秋奈から時間感覚が消滅していた。

 顔を離すと、衿香が驚きの表情を浮かべたまま固まっていた。あまりにも衝動的な自分の行動に、少しだけ心配になる。


「あの、衿香? おーい」


 照れ隠しの意志も含め、指先で軽く頭を叩いてみる。返事はない。だが、行動はあった。


「秋奈ちゃん!」


 衿香が勢いよく飛び込んできた。受け止めきれず、秋奈はカーペットに倒れ込む。


「うわっ……ははっ、ごめん。驚かせちゃったかな」


 秋奈の声が届いていないのか、衿香は秋奈の胸に顔を押しつけている。


「絶対に、秋奈ちゃんに追いつくから。こんなにしてもらって、頑張らなかったら、全部嘘になっちゃうから」


 そのまま喋っているので、秋奈はくすぐったくて仕方がない。


「衿香の気持ちは嘘なんかじゃないって、私は信じてるよ」


 だが、同時に感じる温もりが幸せに変わる。もっとそこにいて欲しいと願ってしまう。


「あのさ、しばらくこうしててもいい? 今、秋奈ちゃんがここにいるってことが、すごく嬉しいんだ。だから」

「いいよ。なんなら今日もこっちに泊まってもいいし」


 本気でそう思った。夏休みはまだ長い。宿題も大きなものは片付いているし、寮への手続きは電話で頼み込めばなんとかなるかもしれない。衿香との時間を作るためなら、それくらいの無理は通したかった。


「それはダメだよ。今だけ、今だけだから」


 秋奈の甘い考えは、衿香の言葉に打ち砕かれた。このままぬるま湯に浸かり続ける誘惑を、衿香は振り払ったのだ。年下に諭される自分の弱さを再認識させられる。


「そっか。まあ、まだ時間はあるから、好きなだけどうぞ」


 同時に衿香の強さを知った。まだ中学二年生だというのに、どうしてこんなにしっかりしているのだろうか。本当は衿香の方が年上なのではないか。


「はあ……秋奈ちゃんって柔らかくて、優しくて、溶けちゃいそう」


 そして時折見せる年相応な甘え方。衿香に翻弄される自分に苦笑しながら、その背中に手を回す。華奢な体を傷つけないように優しく、しかし固く抱いて離さない。

 しばらくそうしていると、衿香が顔を上げる。


「ねえ、あたしも秋奈ちゃんに少しだけプレゼントしたいな」


 その言葉が意味することがわからない秋奈ではない。


「いいよ。はい、どうぞ」


 だから素直に左の頬を差し出した。衿香が密着した体を滑らせ、近付いてくるのがわかる。表面上は冷静にしているが、速まる鼓動は抑えられない。衿香に気取られないかという懸念。これならば不意打ちでされた方が良かったかもしれない。


「……んっ」


 そんなことを考えていると、衿香の唇が触れた。頬越しでも、その柔らかさが十分に感じられる。何よりも近くに愛しい人がいるということが、ただそれだけで幸せなのだと実感できた。

 永遠にも思える時間の後、衿香の唇が離された。だが顔を離そうとはしない。頬に衿香の熱い吐息を感じる。秋奈も動くに動けず、様子を見るしかない。このまま前を向けば、衿香と唇が重なってしまうかもしれない。それはまだ早い。だから秋奈は耐え続ける。衿香が満足するまで、好きにさせてあげたかった。


「えへへ、ありがと」


 衿香が少しだけ顔を離した。秋奈は首を元に戻して向き直る。逆光で影をまとった衿香の顔を見て、自分が押し倒されていたことを再認識させられる。


「どういたしまして」


 言い終わってすぐに衿香を抱き寄せた。すぐ横にある頬に、自分の頬を擦りつける。互いの唇が触れた頬。それを重ねたら間接キスと言えるのだろうか。

 秋奈はそこにある愛しい存在を抱き締める。今、この瞬間が消え去ってしまわないように。




          *




 寮の門限は午後十時と決められている。それ以降は午前七時まで、原則的に寮の出入りが禁止される。


「秋奈さんは今日帰ってくるんだったよね」

「そのはず、なんだけどなあ」


 今は午後九時三十分。秋奈から「これから帰る」という旨のメールが沙織に送られて以来、一時間以上音沙汰がない。


「まだ時間あるね」


 要はそう言うが、沙織にとっては違う。あと三十分で要が帰ってしまうと考えると、少しだけ寂しくなる。だが、それだけではない。


「要、今日はありがとね。楽しかった」

「こちらこそ。やっぱり沙織といるのが一番落ち着く」

「また、遊ぼうね」

「いいよ。どこか行きたいところある?」

「ないけど、要とならどこでも」

「食べ歩きとか、してみようか」

「それいいね。食べて夏バテ解消! みたいな」


 未来を好きに想像していると、時間は瞬く間に過ぎた。


「そろそろ秋奈さんも来るだろうし、私も帰るね」

「うん。そこまで送るよ」


 寮を出て、門まで歩く。沙織は、初めて要が寮に来た時もこんな感じだったと回想する。異なるのは人数と、気の持ち方。あの頃は別れの不安を強く感じたが、今では違う。再び会う時への楽しみが脳内を占拠している。過ぎていく時間が、今では怖くない。

 門を境にして寮側に沙織、外側に要が立つ。向かい合ったまま、静寂に包まれる二人。気まずいわけではないのに、視線を泳がせて苦笑する。声を出せば終わってしまう。それがわかっているから沙織は何も言えない。


「じゃあ、また」


 先に動いたのは要だった。沙織はほんの少しだけほっとする。


「うん。時間見つけて、また会おうね」

「帰ったらメールするね」

「待ってる」


 実際に踏み出してみれば、心配事などなにもなかった。苦笑は心からの微笑みに変わる。手を振り、要の後ろ姿を見送った。

 寮へと引き返す沙織の胸元では、普段と変わらず十字架が揺れて光っている。







 部屋に戻り、時刻を確認する。あと数分で午後十時。秋奈に何かあったのではないかと少し不安になる。


「ただいまー」


 そんな沙織の心配も、扉が開く音と同時に聞こえたその声に消された。たった二日ぶりだというのに、秋奈の姿が懐かしい。


「おかえり。門限ギリギリじゃん」


 秋奈は荷物を置き、椅子に深く座って大きく息をつく。


「ちゃんと余裕持って電車選んだつもりだったんだけどね」

「でも、間に合ったんだからいいんじゃない」

「まあね。ところで、私がいない間寂しくなかった?」

「全然。もっと行っててもよかったのに」


 正直に答えるのは少し恥ずかしかった。


「へえ。意外だな。沙織もどこかに出かけてた?」

「ううん。要が来てくれたから、ずっと一緒にいたよ」


 その言葉に秋奈は目を見開き、すぐに柔らかく微笑む。


「そっか。楽しかった?」

「当然。秋奈はどうだったの?」

「私は──」


 そこで秋奈は区切った。てっきり調子の良い答えが返ってくると思っていた沙織は、拍子抜けして首を傾げた。数秒して、言葉が続けられる。


「──楽しかった。また行きたいな」


 その表情が深い憂いを帯びているように思えた。つい最近どこかで似た顔をしているのを見たことがあるような気がして、沙織は頭の片隅で思い出そうとする。


「秋奈が会いに行ったのって、この前話してた幼馴染の子だっけ?」

「まあね。ずっと会わないで忘れられたら困るし」


 秋奈の表情は、既にいつも通りのものへと戻っていた。


「その子って、どんな子なの? そう言えば、秋奈から聞いてない気がする」

「どんな子ねえ……沙織に話したことなかったっけ」


 とぼけるように視線を斜めにやる秋奈を見て、沙織は唐突に思い出した。どこかで見た顔というのは、自分自身のことだった。秋奈がいなくなり、要が来るまでの間。その時鏡で見た自分の顔が、先ほどの秋奈と同じ憂いを帯びていたのだ。


「えっとね……小さくて、かわいくて、私のすべてを受け入れてくれる子、かな」


 衿香の姿を思い浮かべているのだろうか。秋奈の表情は触れるのが恐れ多いほど穏やかなものになっていた。どれだけその子に対する感情が強いのか、沙織にもはっきりと感じ取れる。


「いい子なんだね」


 それ以上は言えなかった。秋奈が抱える何かを壊してしまいそうに思えたからである。秋奈は小さく頷くだけだった。

 その時、沙織の携帯電話から軽快な音楽が流れた。見れば、要からのメールが届いていた。内容を確認し、すぐに返事を打ち始める。単純なメールのやりとりに、沙織は熱中していく。


 いつしか、この部屋に住む二人の少女は、それぞれが理想とする世界に陶酔していた。

 会おうと思えばすぐに会える人。逆に会うためには時間が必要な人。それぞれの想い人を空想しながら、夏の短い夜は更けていく。

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