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八月十日 寮生体験と二人の触れ合い

 その時沙織が抱えていた感情は負の要素に満ちていた。

 秋奈が昨日里帰りし、寮の部屋に一人残された沙織。部屋の外からは不規則に人の話し声や足音が聞こえては消えていく。物音が恋しく、同時に怖い。入寮以来ずっと一緒に過ごした秋奈がいない夜というものは、想像以上に辛く、静かで、寂しかった。


 夜が明け、朝が訪れても気分は晴れない。今夜も同じようになるのかと思うと、背筋が寒くなる。どこか違う世界に一人で取り残されてしまったような孤独感。願うことはただ一つ。弱虫と罵られても構わない。誰か、隣にいてくれないか。

 寮の廊下を一人で歩く。食堂で一人の朝食を済ませる。部屋に戻り一人でたたずむ。一連の流れはまるで定められた作業のようだ。たった一人がいないだけなのに、やけに部屋が寒かった。

 寂しさを紛らわせようと、携帯電話を開く。誰に連絡を取るでもなく、ただ無造作にボタンを押して操作する。ニュースサイトを見たり、着信音を変更してみたり、溜まった画像の整理をしてみたり。


 そして辿り着くメール画面。いくつも表示されているのは要の名前。頭の片隅では最初から考えていた。その期待が全部満たされなくても構わない。一部だけでも十分だ。それに、ここまで意識してしまったら戻れない。胸で揺れる十字架を握る。

 沙織は要にメールを送った。最初はどこか外で会えないかという内容だったが、メールを交換するうちに、要が沙織の部屋へ来ることになった。秋奈の不在は昨日伝えてあり、それならばということで要が自分から行くと言い出したのだった。


 要が来てくれる。それがわかっただけで、冷たい部屋に温度が戻ってくるようだった。改めて部屋を見ると、いくらか散らかっているような気がした。要を迎えるのだからと、沙織は片付けを始める。あちらを片付ければ、そちらが気になる。続いてこちらも。一度始めると連鎖的にやることが増えていく。沙織にはそんな傾向があった。

 携帯電話が鳴らす軽快な音楽で我に返る。メールを確認すると、要が寮の前に着いたとのことだった。部屋の掃除を切り上げ、要を迎えに行こうとしたところで、ふと気付く。部屋は完璧でも、自分の姿はどうなのか。鏡を見て確認する。

 沙織は要に返事を打ちながら、直前で気付けた自分の直感に感謝した。







 一階に下りると、要がソファーに座っていた。手を重ねて腿に置き、背もたれに寄り掛かって座っている。連絡は毎日のようにしていたが、こうして会うのは何日ぶりだろうかと思いながら話しかける。


「ごめんね。呼び出したくせに待たせちゃって」


 その声に要は振り向き、立ち上がる。


「ううん。その時間で手続きも済ませられたし」


 要の視線を追い、沙織も寮の受付を見る。ちょうどこちらを向いた寮監と目が合い、会釈を交わす。寮監は陽気な顔で手を振っていた。


「とりあえず、部屋行こっか」


 言いながら上方を指差した。


「うん。そういえば寮の中に入るのも久々だね」

「そっか。もしかして六月以来?」

「私の記憶が正しければ、ね」

「うわあ……なんか、悪かったかも」

「どうして?」

「わたしばっかり要の部屋に行ってお世話になっちゃって、一方的だったかな」


 要は困ったような、それでいて優しい微笑みを浮かべる。


「その分、今日はいっぱいお世話してもらっちゃおうかな」

「うん、する! いっぱいおもてなしする!」

「期待していいのかな?」


 勢いで返事をしそうになるが、並行して部屋にある物でどれだけの用意ができるのかを考えてしまう。


「えっと、その、善処します」


 そのせいで、言葉が弱気になってしまった。要の表情は変わらず、沙織に向けられている。







 部屋に戻り、要を座らせてから沙織は冷蔵庫の中を確認する。

 案の定、残念な結果だった。先ほどまで感じていた寂しさと冷気は、ここから漏れ出ていたのではないかと疑いたくなる。


「こんなのしかなかったんだけど、飲む?」


 持ってきたのは、昨日開けたブドウジュース。果汁五十パーセントというのがなんとも言えない気分にさせられる。


「うん。ありがとう」


 要がグラスを受け取ったので、沙織がジュースを注ぐ。続いて自分のグラスへ。


「それじゃ、乾杯」

「乾杯」


 二つのグラスが小さな音を立てた。その氷が溶けるような音は、二人だけの部屋に乱反射し、何倍にも増幅されて沙織の鼓膜を震わせる。確かに要はここにいる。一人ではこんな音は出せない。

 ジュースを飲み、グラスを置く。沙織は半分ほど、要はさらに多く飲んでいた。沙織も前々から気付いていたが、要は水分を多く摂取する傾向がある。喉が乾きやすいのだろうかと、沙織はとりとめもないことを考えた。


「そういえばさ、要はちゃんと宿題やってる?」

「うん。もう七月中に大きいのは済ませちゃった。沙織は?」

「わたしも。なんだか宿題が残ってると不安でさ」

「その気持ちわかる。いつやっても宿題なんて同じなんだから、早くやっちゃった方がいいよね」

「やっぱり要って、わたしと考え方が似てるなあ」


 内面的な共通点が、純粋に嬉しい。要との一体感が沙織の孤独を押し流す。もっと同じところを探したくて、沙織は要の隣に移る。椅子に二人は座れないので、すぐ横のベッドに腰を下ろした。

 最初こそ目が合ったものの、グラスを取ろうと目を逸らしてから、要はどこか一点に視線を集中させていた。何かあるのだろうかと思い沙織もその視線を追うが、クローゼットがあるだけだった。


「沙織、あれってさ、その」


 要の言葉を受けて、さらに詳しく観察する。そしてようやく見つけた。観音開きの扉に挟まれた隙間から、何かの布切れがはみ出している。


「あっ! ごめん、すぐ直す」


 言うが早いか飛んで行き、布切れをクローゼットに押し込んだ。その時に布切れの正体がよくわからないカバーだと知ったが、そんなことはどうでもよかった。今の沙織は、これで要が気付いたかどうかを心配している。勘が鋭い要のことだ。突貫工事のような片付けを見抜かれたかもしれない。

 鈍く流れる空気を散らそうと、苦笑しながらベッドの縁へと戻った。要は何かを考えるように、視線を斜めに動かしたり、沙織に戻したりしている。


「沙織、あのさ」

「な、なに?」


 髪でも跳ねていたのだろうかと、頭に手を持っていく。しかし、続く要の言葉は予想の範囲外だった。


「今日なんだけど、ここに泊まってもいいかな?」

「えっ?」


 死角からボールを投げられたような感覚。そうなることを望んでいなかったと言えば嘘になるが、欲張り過ぎだと心のどこかで諦めていた事態。要が泊まってくれる。ずっとそばにいてくれる。


「秋奈さんもいないみたいだし、一度沙織の部屋に泊まってみたいなって思ってたんだ」


 固まっている沙織を尻目に、要は言葉を続けていく。


「さっき寮監さんにも訊いてみたんだけど、宿泊の手続きもそんなに難しくないってさ。だから、沙織さえ良ければ」


 こんな最上の申し出を断るわけがない。そんなことをしたら、これから先永遠に後悔しかねない。


「いいよ。わたしからもお願いする。今日、ここに泊まっていってほしい」


 返事を聞いた要が椅子から立ち上がり、沙織の隣に移る。二人分の質量が、ベッドの反発を強める。


「明日までよろしくね」


 澄んだ瞳が、沙織の姿を捉えて離さない。


「うん。一緒、だね」


 手を伸ばし、要の手に触れた。普段ならなんでもないその行為が、今は特別なものに感じられる。


「そうと決まったら、一度準備しに戻らないと。手ぶらってのは、さすがに悪いから」


 そう言いながら、要は沙織の手を離そうとしない。それどころか、積極的に繋いでくる。冷たかった部屋は、今では暑いくらいだ。


「一緒に行ってもいい?」


 まるでその言葉を待っていたかのように、要が満足気に頷く。


「もちろん。一緒、だもんね」


 要が立ち上がったので、繋いだ手が引っ張られた。沙織も続き、要の横に立つ。もう不安を抱える必要など存在しない。


「よーし、デートにしゅっぱーつ!」

「おー」


 部屋の扉を開けてからは、もういつもの二人に戻っていた。







 要の部屋から必要な物を取り、寮へ戻って来た二人は手続きをしていた。寮の受付、寮監室の中にて。


「ようやく泊まりに来てくれたねえ。いいねえ。青春だねえ」


 なぜか嬉しそうな寮監の指示に従い、要は書類に筆を走らせている。その様子を隣で見る沙織。来客用と思われるこの椅子は、座り心地がとても良い。


「書けました」

「よし。確認するからちょっと待っててな」


 それとは逆に、寮監が座る椅子は安息から縁遠そうだ。パイプ椅子にクッションを置いただけなのに、なぜか脚を組んで書類を眺める姿がしっくりくる。


「ん、問題なしだ。泊まってよし。ただし、ヘンなことはしないようにな」


 寮監は下世話な笑みを投げかけた。もちろん本気ではなく、冗談のつもりだったのだろう。


「はい。寮のご迷惑にならないように気をつけます」


 しかし、その真意は要には伝わらなかったようだ。


「あー、そうだな、うん。善処してくれ。それと、一ついいか?」

「なんでしょうか」

「食事のことだけどな、急なことだったんで、用意ができてないんだわ」

「それは私の責任ですから、なんとかします」

「いやいや、最後まで聞いてくれ。たぶんだけどな、食事すっぽかす奴が一人くらいはいると思うんだ。体調崩したとか理由は色々あるんだろうけど、そしたら余るだろ? その分を食べてくれないか」

「それは構いませんが、いいんですか?」

「遠慮しないでいいさ。どうせ余り物はあたしら裏方の腹に収まるわけだし、それなら若い子にあげた方が有意義ってもんさ。あ、でも料金はあとでしっかりいただくからね」

「それでも助かります。ありがとうございます」

「いいってことよ。ここに泊まるってことは、たとえ一日だけでも寮生になるってことだ。あたしの勤めは、寮生に住み良い空間を提供することだからね。これくらい当然さ」


 その語り口から、自分の職務に持つ誇りが如実に伝わってきた。要と沙織が圧倒されて何も言えずにいると、寮監が言葉を続ける。


「それと、もし食事の余りが出なくても、何かしらは用意するから安心してな」

「あの、どうしてそこまでしてくださるんですか?」

「言っただろう? あたしの勤めだからさ。そんなことより、早くその荷物を置きに行きな。あたしも仕事しなきゃならないしね」


 要と沙織はもう一度だけ寮監に頭を下げてから、部屋を後にした。追い出すような言葉も、二人の時間を奪わないようにという心遣いだったのかもしれない。

 沙織がそんなことを考えていると、前方から声が飛んでくる。


「あれ、さおりんとアイちゃんだ。おーい」


 こちらに手を振っているのは彩だった。隣に悠希を連れて歩いて来る。


「こんにちは。遊びにいらしたのですか?」


 悠希は要に目をやった。


「いえ、泊まりに来ました」

「あらあら、そうなんですか」

「へーえ。さおりん、やったじゃん」


 温かい視線を向けてくる悠希と彩。二人に対し、沙織は幸せを少しも隠さずに頷く。


「えへ。いいでしょ?」

「ナギさんがいないから寂しくて呼んじゃったとか?」

「うーん、まあ、そんな感じかな」

「それならあたしに声かけてくれればよかったのに。あ、でもさおりんにはアイちゃんがいるもんね」

「まあね」


 そう言って沙織は要の手を握ろうとしたが、二人とも両手に荷物を持っていたので断念した。


「では、私たちはここで失礼しますね。四十崎さん、麻生さん。どうか楽しいひとときを」

「またねー」


 悠希と彩は沙織の横をすれ違い、後方へ歩いていった。


「さ、早く荷物置かないと。重いもんね」


 階段を上る時に、ふと視線を横に向ける。悠希と彩が寮監室に入っていくのが見えたが、深く考えることもなく沙織は視線を戻した。







 要や沙織の心配をよそに、寮監の予想通り夕食の余りが出た。そのため食事の問題は難なく解決した。

 食堂で並んで食べる夕食。以前要と同席した時には、五人という大人数だった。それが今では二人きり。


「急なことだったけど、食事が出たからよかったね」


 要が水を飲み干した。互いに食べ終わり、あとは片付けるだけだ。


「うん。ほんとによかった」


 だが、片付けてしまえばこの時間が終わってしまう。もう少しだけ、要との食事を続けていたい。たとえ食べ終わっていても、食器が全て空でも、動いてしまったら何かが壊れてしまいそうに思えた。


「学食よりもこっちの方がおいしいいね。寮に入ると毎日これを食べられるのか。うらやましいな」

「でも、わたしは要が作る料理の方がおいしいと思うし、好きだよ」

「それじゃ、明日何か作ってあげようか?」

「えっ、ほんとに?」


 要の料理を食べられる。その期待が沙織を震わせる。


「泊めてもらうわけだし、そのお礼ってことで」

「やった。でも、わたしも一緒に料理する。要と二人で作りたいから」

「共同作業だね」


 明日になれば要は帰ってしまう。それまでに要と二人で何かをしたい。沙織は限りある時間を有効に使いたかった。


「買い物にも行かないとね。冷蔵庫の中、食材あまりないから」


 料理だけでなく、その準備も要と一緒にしたい。とにかく要との時間を多く持ちたかった。


「明日も暑いだろうから、涼しくなりそうなのを作ろうか。冷やし中華とか」


 今、ここで明日の計画を話し合う時間も、沙織にとってかけがえのないものだ。







「そろそろ、行く?」


 部屋に戻り、休んでいた二人。静けさに包まれた穏やかな時間を過ごしていた。


「そうだね。いい時間だし」


 要が同意したので、沙織も立ち上がる。


「行きますか。お風呂に」

「行きましょう」


 要も大仰に頷き、自分の鞄からタオルや着替えなどを取り出した。


「もちろん、部屋のじゃなくて一階のだよね」

「わかってるよ」


 沙織が言うように、向かう先は一階の浴場。時刻は午後九時四十分。そろそろ人が少なくなってくる頃だろうと踏んでの判断だった。

 浴場の扉を開けると、湿気を含んだ空気に顔を包まれた。一拍置いて感じる熱気で肺を温めながら、脱衣所へ進む。鼻腔を刺激する香りはシャンプーか、石鹸か、香水か。

 格子状に並ぶカゴを二つ、隣り合った物を使うことにした。人もまばらな脱衣場でするすると服を脱いでいく要と、その様子をちらちら見ながら脱ぐ沙織。


「どうしたの?」


 下着にかけた手を止め、要がこちらを向いた。


「要、スタイルいいなーって思ってさ。胸も大きいし」

「沙織だって、身長高くてモデル体型じゃない」

「そうかなあ」


 要に言われると、劣等感を抱いていた高身長も認められそうだった。

 一足先に一糸まとわぬ姿になった要が、タオルを手に訊ねる。


「ここって、みんな体隠してる?」

「いや、ほとんど隠してないな。恥じらいってのを忘れてるのかもね」


 言いながら沙織も下着を脱ぎ、髪を頭の上でまとめた。


「じゃあ、さりげなく?」


 要が胸にタオルを当てた。隠すべきところは見えなくなったが、タオルが胸に押されて山を作っているのが、裸眼の霞む視界でもはっきりわかる。


「さ、入ろっと」


 自分の胸と見比べてしまい、悲しくなった沙織は一人浴場への扉に向かった。


「待ってよう」


 すぐに要が後を追ってきた。沙織は満足気に微笑み、扉を開ける。

 シャワーの数は二十三。それ以外に立って使うタイプの小さな個室型シャワーが二つ。合計二十五人が体を洗える設計になっている。こちらも空白が目立っており、浴槽に浸かっている数を含めても十人いないほどだった。


「いつもこの時間って人が少ないの?」


 こういった空間では当然のことだが、要の声はよく響いた。


「大体ね。入れる時間が長いから、いい感じにばらけてるみたい」


 隅に置かれた椅子と洗面器を持ち、適当なシャワーへと向かう。こちらも並んだ物を探すのは簡単だった。

 シャワーから出る湯を全身にかけ、体を温める。さっと流し終わった沙織が浴槽に向かおうとすると、要から声がかけられる。


「あれ、沙織。体とか洗わないの?」


 振り向くと要が備え付けのシャンプーを掴んでいる。沙織は椅子に座り直し、要と向き合う。


「わたしはいつも先にお風呂浸かってから体洗うよ。その方が体の汚れ落ちるらしいし」

「そうなんだ。私もそうしてみようかな」


 要はシャンプーから手を離し、頭からシャワーを浴びた。濡れた髪をかき上げる仕草にしばし見惚れる。


「要は先に体洗ってるの?」

「そうだよ。でも、今日は特別」


 浴槽の縁に座り、膝下を浸す。沙織にとっては慣れ親しんだ湯温に包まれる。


「熱くない?」


 しかし要にとっては初めてのこと。熱いようなら、端の方へ行くべきだと考えた。


「ちょっと熱いけど、こういうものでしょ? なんてことないよ」


 要は湯に左手を入れ、小さく揺らした。そこで起こった波が沙織の膝をくすぐる。

 縁に手を突き、斜め前方を見上げる。視界は湯気で白く染まり、何かが見えるというわけではない。それでも今、この時はそうしていたくて、沙織は大きく息を吸い込み、吐き出した。


「沙織、どうしたの。たそがれちゃって」


 視線を落とすと、既に要が肩まで浸かっていた。縁に頭を預け、沙織を見上げている。


「んー、なんでもない」


 微笑みを返し、沙織も湯に浸かり、要の隣に腰を落ち着けた。離れたところに三、四人ほどの団体がいるが、すぐ近くにいるのは要だけ。


「沙織はさ、いつもここを使ってるの?」

「ほとんどそうだね。部屋にもあるんだけど、使ったら自分で掃除しないといけないからさ。やっぱりこっちに来ちゃうな」

「秋奈さんとも一緒に入ったりしてる?」

「たまに、ね。それぞれのタイミングでお風呂入ってるから、なかなか一緒にはならないよ」

「じゃあ、いつもは一人なんだ」

「そうだよ」


 数秒の沈黙を挟み、要が訊ねる。


「私と一緒に入れて、嬉しい?」


 突然何を言い出すのか。沙織は一瞬目を見開いて首を傾げたが、すぐに答えを返す。


「もちろん。嬉しくて涙が出ちゃうよお」

「大げさだなあ」


 泣き真似をした沙織の頬を、要が軽く突いた。


「嬉しいのはホントだもん」


 お返しとばかりに、沙織は要の胸を突いた。


「そこはほっぺじゃないよ」

「えへ、間違えちゃった」


 沙織は大人しく指を引っ込めた。要に触れた人差し指がやけに熱い。同じように熱いはずの湯に浸かっていても、そこだけ異質な熱を帯びているようだった。







 部屋に戻り、ベッドにうつ伏せで寝転がる。火照った体に布団の冷たさが心地良い。冷房が出す冷気も体を包み、体温を落ちつけていく。


「長湯で疲れちゃった?」


 要がその横に座り、沙織に問い掛けた。


「そうじゃないんだけど、今はこうしていたい気分」

「マッサージしてあげる」

「えっ、そんな」


 沙織が起き上がろうとするより早く、要の手が背中に乗せられた。パジャマの上を滑り、絶妙な力加減で押し込まれる指。沙織が感じる気持ち良さは張った部分を突かれているというよりも、要の指が這い回っているという事実によるものだった。


「お客さん、こってますねえ」


 肩にある指が、首に触れそうで気になってしまう。


「あー、体溶けちゃいそうだよう」


 沙織からは要が次にどう動くかが見えないので、されるがままだった。

 しばらくすると、背中に残ったのは左手だけになった。優しく乗せられた五つの指が、不規則に背中を叩く。その刺激に身を任せていると、次第に眠気が強くなってきた。自分の腕を枕代わりに目を閉じる。


「眠いの?」


 要の声が、子守歌のように思える。


「うん。なんか疲れた」


 時刻は午後十時五十分。普段の沙織ならまだ起きている時間である。


「じゃあ、寝ようか」


 それでも眠気が治まらないのは、要がいることによる安心感からだろうか。


「そうする」


 沙織の声が低く、ゆっくりしたものに変わっていた。体を動かし、布団の中に潜り込む。普段は真ん中に寝ているのだが、今日は端に寄っている。


「電気消すね」


 もちろん、そうして場所を空けたのは、要がそこに寝るからである。暗い部屋の中、左側から要の動きが沙織に伝わる。

 沙織は寝付きが良い方ではない。眠気に耐えかねていざ布団に入っても、なぜか目が冴えてしまうのだ。今日も例外ではなかった。隣に寝る要と、もっと時間を共有したくなる。

 枕元に手を伸ばし、探り当てたスイッチを押す。ランプシェードから放たれた橙色の光が、ほんの小さな範囲を照らし出した。


「明かり、このままでもいい?」


 沙織が訊くと、要がこちらを向く。


「いいよ。沙織の顔がよく見えるから」

「要の顔もよく見えるよ」


 しばし、二人で微笑み合う。


「ところで、眠かったんじゃないの?」

「要がいるのに、寝るなんてもったいないもん」


 手を動かせば、すぐに要の手と重なる。シングルベッドでは、二人はこれ以上ないほどに接近する。布団の中では手を繋ぎ、外では笑顔で見つめ合う。


「今日は、ありがとね」


 感謝の気持ちを伝えたくて、唇が自然に動いた。


「えっと、お礼言われるようなこと、したっけ?」


 要は本当に理由がわかっていないようだった。それほどまでに、当然のことだと考えていたのだろうか。要の純粋な気持ちが、沙織をまた嬉しくさせる。


「わたしの都合で要を呼んでさ、それだけじゃなく泊まってもらって……わがままに付き合ってくれたから、そのお礼。ごめんね、振り回しちゃって」


 要が、少しだけ強く手を繋ぎ直す。


「ねえ、何度も言ってることだけどね、私は沙織と一緒にいるのが好きなんだ。今ここにいるのも、私のわがままみたいなものなんだよ。だから、そんなこと言わないで」

「要は、それでいいの?」

「もちろん」


 布団の中で何かが動くのを感じた。その直後、要の左腕が背中に回された。間近に迫る顔と、密着する体。抱き締められていると理解するまでに時間がかかった。


「沙織は私といて、楽しい?」


 要の囁く声が、目前の唇から紡がれている。


「うん」


 瞼が重くなったように感じるのは、眠気のせいではないだろう。


「もう寂しくない?」


 その言葉を聞いた瞬間、沙織の目が見開かれる。


「要、もしかして最初から……」

「そこまで勘は鋭くないよ。でもね、沙織の顔見たら無理に明るく振る舞ってるみたいだなって思った。秋奈さんがいないから落ち込んでたのかな。沙織、寂しがり屋さんだもんね」


 体が熱いのは入浴後の火照りなのか、体を密着させているからなのか。どちらにしても、不快感とは縁遠い熱さだった。


「……要はすごいな。わたしのこと、なんでもお見通しだ」

「沙織のこと、ずっと見てるからね。いろんな発見をするたびに嬉しくなるんだ」


 他人に弱みを見せるのは嫌だが、要になら知られても構わない。いや、知ってほしいとさえ思える。


「あの、さ。こんな寂しがりで甘えんぼだと、やっぱり変かな?」


 だから、言いにくいことでも伝えなければならない。弱気な顔の沙織とは逆に、要は穏やかに微笑んでいる。


「いいんじゃないかな。たまにはこうやってリラックスしないと、いつかダメになっちゃいそうだから。メリハリつけないと」

「優しいね。そうやってわたしを受け入れてくれるの、すごく嬉しい」

「私はただ、沙織のいろんな顔が見たいだけだよ」


 要も照れているのか、視線が逸らしがちになっていた。


「要は、いつも一人で夜は寂しくないの?」

「最初のうちはね。だけど三日くらいで慣れちゃった。あ、でも」

「でも?」

「沙織が泊まってくれた次の日は、一人でちょっと寂しかったな」


 抱く腕に、力が込められた。要にもこの温かさを分け与えたくて、その体に触れたくて、沙織も要の体に右腕を回す。


「こうしたら、明日寂しくならないかな?」

「どうかな。逆効果かもしれないよ」


 そう言いながらも、要が嬉しそうな表情になっているのを沙織は見逃さなかった。繋いだ手は、いつの間にか指が絡まっている。

 体が柔らかいとか、良い匂いがするとか、温かいとか。そんなことを少ない言葉で伝え合いながら、静かな時間は過ぎていく。時折聞こえる車やバイクの音は、一瞬だけ大きくなったかと思えば、すぐに聞こえないほど小さくなる。それはまるで、わずかな物音すらも二人の間に入ることを遠慮しているかのようだった。


 やがて再び眠気が顔を出す。一番信頼できる人の腕に抱かれている。それがもたらす安らぎは未知数だった。重くなる瞼に逆らわず、ゆっくりと視界を閉じていく。

 最後に見た要の顔を記憶に刻みながら、沙織は意識を手放した。

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