八月九日 懐かしの地と愛しい人
三月に離れて以来、久方ぶりに帰ってきた町は、相変わらず下町情緒が漂っていた。目的の駅が近付くにつれ、電車から見える風景が都会のそれとかけ離れていく。朽ち果てそうな木造家屋、錆びた看板に書かれた遊技場の文字、地平線まで見通せる土手。
懐かしさを抱えながら改札を通ると、それら以上に懐かしい顔が迎えてくれる。五月に会った時とは立場が逆転している。惜しむらくは改札が狭く、衿香の目を盗んで隠れることができなかったことだ。
「おかえり、秋奈ちゃん」
「ただいま、衿香。元気してた?」
「うん。あたしはいつだって元気だよ」
「それが衿香の取り柄だもんね」
「えっと、褒められた、のかな?」
首を傾げる仕草。たったそれだけのことなのに可愛らしく思え、その頭を撫でる。
「そうだよ。衿香が元気だと、私も嬉しいから」
「へへ、ありがと」
嬉しさを振りまき、真っ直ぐに見つめてくる衿香。尻尾が付いているならば、周囲に毛が飛び散るほど勢いよく振っていることだろう。
「まずは私の家に行くね。顔出しとかないと」
それは秋奈も同じなのだが、人目のある場所では隠したかった。二人だけの空間でこそ感情を放出するべきだというのが秋奈の信念だった。
「うん。あ、そうだ。荷物ならあたしの部屋に置いてもいいよ?」
秋奈の横を歩きながら、衿香が言った。その言葉が意味することは、秋奈にも理解できた。
「考えておくね」
歩く内に、どちらからともなく手を繋いだ。衿香の手は小さく、柔らかく、三か月前と何も変わっていない。この手を独り占めしている自分が誇らしく思えた。
それでも同時に感じる小さな痛みは無視できない。
「おかえり。あら、衿香ちゃんも一緒なのね」
家に着くと、母親が出迎えた。秋奈の家は一般的な核家族で、この時間父親は仕事に出ている。
「ただいま。駅まで迎えに来てくれたんだ」
「こんにちは。お邪魔します」
衿香も秋奈に続いて靴を脱ぎ、家に上がった。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。自分の家だと思ってくれていいんだから」
秋奈の母は、やけに気分が高揚しているようだった。家族ぐるみの付き合いが長いせいか、衿香のことを実の娘のように思っている。
居間で冷たい麦茶を飲みながら、しばし休む。ちょうど昼時というのもあり、昼食を衿香の分まで用意するとの提案があった。衿香が自分の家へ電話し、その旨を告げる。
「いいよって言われたけど、食べたらすぐに戻るように! だって。秋奈ちゃんを独り占めするのはずるいぞーなんて言ってた」
おかしそうに言う衿香。秋奈も釣られて笑顔になる。
昼食を済ませ、二人は家を後にした。向かう先は衿香の家。と言っても、その距離は近い。家の数にして三軒隣。面した道が曲がっているため、位置的には斜め向かいになる。
「ただいまー」
衿香が扉を開けると、その母が迎える。衿香の家も、秋奈と同じ核家族である。
「やっと来たわね。秋奈さんもいらっしゃい。ゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうございます」
「ほらほら、あたしの部屋、行こ?」
衿香が秋奈の手を引いた。そのまま階段を上り、二階の部屋へと移動する。
「そんな焦らなくても逃げたりしないから」
たしなめる言葉も優しくなり、すべてを許してしまいたくなる。
「今日はこっちで泊まってくよね? ねっ?」
だから、そんな衿香のわがままも受け入れてしまう。
「いいけど、衿香の家に迷惑じゃない?」
「そこは問題ないよ。もう話は通してあるからね。三日間ずっと泊まっていても構わないってさ」
「それなら、今日はご厄介になりましょうかね」
「えへ、秋奈ちゃんと一緒に寝るのも久々だなあ」
「そうだ、明日は私の家で寝ない?」
「それもいいなあ」
うっとりとした顔の衿香。そのまま秋奈にしなだれかかってくる。その小さな体を受け止めながら、少し衿香の背が伸びたかなと考えていた。
その後衿香を連れて外出し、簡単な手土産を買った。昔から知った仲とはいえ一晩世話になるのならば、礼儀を妥協してはいけないと考えた結果だった。ついでに一度自宅に戻り必要な物だけを持ってきて、秋奈はその日ずっと衿香の家にいた。
「ねえねえ、さっきのお味噌汁だけどね、あたしが作ったんだよ」
「そっか。やけにおいしいなって思ったらそういうことか」
部屋で他愛もない話をしていると、衿香がそわそわし始めた。どうしたのだろうと秋奈が思っていると、部屋の扉が叩かれる。
「衿香、お風呂沸いたわよ」
「わかったー」
扉の向こうへ返事をした衿香を見て、ようやく秋奈は感付いた。
「衿香、お風呂一緒に入ろうか」
驚いて振り向いたが、すぐに衿香は嬉しそうに頷く。
「うん! 背中流してあげるね」
入浴の準備をして、風呂場へ向かう。途中で衿香の母親に二人で入ることを告げると、やけに明るく送り出された。
「こうやって二人で入るのも久々だね」
服を脱ぎながら衿香を見た。昔は衿香の服を脱がせてあげたこともあったなと回想する。成長してからは恥ずかしがるようになってしまい、なかなかそれができなかった。
「秋奈ちゃん、またスタイルよくなってる」
身に着ける物が少なくなるにつれ、ごまかしの利かない体の線があらわになる。衿香の視線が突き刺さるが、それが秋奈には心地良かった。
「衿香だって、すぐに成長するよ。若いんだもん」
羨ましそうに秋奈を見続ける衿香の頭に手を置き、そっと撫でた。衿香の視線がとろけたものになり、はにかんで俯いてしまう。
「秋奈ちゃんだって、十分若いのに……」
小さく呟きながら、衿香が服を脱いでいく。未成熟な体だが、膨らみかけた胸が今後の成長具合を予想させる。それが秋奈の目には芸術品のように映り、劣情を抱く余地などどこにもなかった。
浴室は、二人で入っても窮屈に感じない広さだった。椅子は一つしかなかったので、まずは衿香を座らせる。
「先に体洗っちゃいなよ。私はこっちに入ってるからさ」
湯船を指差しながら、シャワーを出した。水温が上がってきたところで体を軽く洗い流し、衿香に手渡した。
「じゃ、お言葉に甘えて」
衿香が体を洗う様子を、秋奈は湯船に浸かりながら観察する。泡を滑るように洗い流し、水を弾く肌。時折こちらを向いた衿香と視線が重なり、そのたびに手を振った。
「そろそろ交代かな?」
衿香が洗い終えるまで見守ってから、秋奈が湯船から出た。全身をほのかに赤く染めた衿香が振り向く。
「はい、秋奈ちゃん」
シャワーが手渡された。受け取ると、入れ替わりに衿香が湯船へと向かう。秋奈は椅子に座り、まず頭を洗い始めた。続けて顔を洗う。共に洗っている間は視界が遮られてしまう。衿香の視線を感じるが、単なる気のせいかもしれない。見られていると思うと、何故か今は意識してしまう。
それらを洗い終え、体に石鹸の泡を付け始めた時、湯船から水音が聞こえた。見れば、衿香がこちらに歩み寄っている。
「背中、洗ってあげるね」
そういえば入る前にそんなことを言っていたなと思い返していると、衿香にスポンジを奪われた。
「お手柔らかに、お願いします」
そう言って秋奈は前に向き直った。スポンジが背中に当てられ、擦られているのがわかる。くすぐったさと気持ち良さが混ざり合った感覚。正面の鏡が曇っていて後ろが見えないのは、良い方向に働いているのだろうか。
「泡、流すよ」
やがて洗い終わったようで、衿香がシャワーで全身の泡を洗い流した。体に当たるシャワーの湯と衿香の手。どちらも同じくらい熱く感じられた。
「体も洗い終わったことだし、これで一緒に入れるね」
衿香の手を引き、湯船へ向かう。並んで入るには難しそうだが、入り方はいくらでもある。まず秋奈が先に入り、脚を伸ばす。その後に衿香に手招きをして、その体を受け止めた。
「秋奈ちゃん、重くない?」
「ぜーんぜん。お湯の中だしね」
こうやって後ろから抱き締められるのが衿香のお気に入りだと、秋奈は昔から知っている。だからこそ、こうやって入るようにしたのだった。
そっと体に回していた腕に、衿香の手が乗せられた。それは徐々に手首から指先へと近付いてくる。秋奈が掌を返すと、待っていたかのように衿香の手が繋がれた。指が絡まり、離すまいという意思が伝わってくる。もう一方の手も同じように繋ぎ、体の前で小さく振り動かす。そのたびに波が起き、二人の体を撫でていた。
会話が少なくなり、互いに触れ合うばかりになっていたが、秋奈はそれで十分満足だった。こうして互いの熱を感じられることが、堪らないほど嬉しい。
風呂から上がり、二人は部屋に戻った。ベッドに座り、他愛もないじゃれ合いを繰り返している。それが、昔から二人が続けてきた愛情表現だった。
「えーりーかー。えいっ」
秋奈は衿香の腰に腕を回し、自分の方へと引っ張った。
「やーだ、もー」
言葉とは正反対の顔で倒れ込む衿香。間近に迫るその姿が、秋奈の精神を侵食していく。ゆっくりと、しかし確実に。
じゃれ合いを終え、改めてベッドの縁に並んで座る。
「ねえ衿香」
抑えた気持ちを解放したくなる。答えを明らかにしたくなる。部屋で二人、寄り添っているからだろうか。秘めた欲求が背中を這い上がってくる。
「なあに?」
衿香の顔がこちらを向いた。底抜けに明るいその笑顔が、秋奈には不思議に思えた。なぜこんな表情ができるのか。不安というものを知らないのだろうか。
衿香に聞こえなくても構わない。ただ言葉にして吐き出さないと破裂しそうなだけ。秋奈は部屋を見渡しながら呟く。
「ここでさ、衿香、言ってくれたんだよね。私のことが──」
「──その先は、言わないで」
覆い被せるように放たれた衿香の言葉。途端に変化する衿香の表情を見て、秋奈は単純なことに気付く。その笑顔が愛しくてたまらなかったこと。失って気付くとは皮肉なものだ。
「えっと……ごめん」
そんな月並みの言葉しか出ない。
近寄ると凍ってしまいそうな冷たさを放つ無表情で、衿香がゆっくりと告げる。
「今は、まだ、このままでいたい」
それが衿香の気持ちなのだろうか。秋奈には真意を見抜くことはできない。
「……わかった。ごめんね」
それでも、衿香がそう望むなら秋奈は従うしかない。
「ううん。あたしこそ、ごめん」
その言葉を最後に、部屋を沈黙が支配した。秋奈は体を衿香の方に寄せ、ベッドに置かれた手に触れる。そこにスイッチでもあったかのように衿香が動き、秋奈の肩に頭を預けてきた。左側に衿香の存在を感じながら、秋奈は空想にふける。
停滞を望んで返事を先延ばしにする衿香。自分で決めた期限に囚われているのだろうか。それとも、関係が進展した場合のことを考えているのだろうか。遠距離恋愛は難しいと聞く。今が良くても未来はわからない。人は忘れる生き物なのだ。
「あのね、秋奈ちゃん」
不意に衿香が沈黙を破った。それに秋奈は小さく頷く。
「うん」
「あたしね、大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか。秋奈が答えられずにいると、衿香が続ける。
「あの日まで、ずっと気持ちを抑えていたんだから、あと二年なんてすぐだよ」
その言葉が秋奈の聴覚に浸透する。あの日とは衿香が告白した日。抑えていた気持ちとは秋奈への愛情。二年とは衿香が卒業するまでの期間。
「そっか。衿香は強いね」
二年がすぐならば、衿香が想いを秘めていたのは何年なのか。それを考えると、たった半年足らずで悩む自分が情けなくて笑えてくる。
「あたしは弱いよ。とても、とても。だから、こうしてるの」
衿香の左手が、秋奈の体に回された。自分を抱くその腕に、秋奈は優しく触れる。
再び満ちる沈黙の中、秋奈は考える。自分が待つことで衿香の痛みを分かち合うことはできないのだろうか、と。




