02
「どうぞお入りください」
モモの“なにか”を呼び込む声に、ローズは重たい瞼を持ち上げた。
しかし、視界はモモの簾髪に覆われているばかりか、ひどい眩暈で判然としない。
モモの黒く長い髪は、ローズの顔を囲むように降りかかり、外と彼女を隔絶していた。
閉じられた世界の中で、見上げたモモの細く華奢な首筋、胸元には花が咲いたような肉の赤。
「霧!?」
「なによ、あの霧!?」
「リコ、どいうことなの!?」
流れる髪の隙間から覗く外の世界では、鋭く叫ぶマーガレットに続き、リリアーヌとリタの動揺した声。
しかし、少年の声だけがモモに続いて、彼を呼びよせる。
「伯爵、俺はここだよ! 姉ちゃんといる!」
うるさい、とローズは痛む頭を抱える。
何やら、リリアーヌとマーガレット、そして双子たちが騒いでいるが、その内容を吟味することなどできるわけもなく、ローズはただひどい倦怠感と頭痛に顔を顰めるしかない。
しかし、少年の「モモ!」と言う、東洋の人の形をした“なにか”を呼ぶ声と、それに続く言葉に気だるい意識を覚醒させた。
「何してるんだ! 行くよ!」
その言葉に応じるためだろう、ローズの肩を抱いていたモモの腕が、引き抜かれようとする。
しかし、ローズはそれを許さなかった。
「行かせない」
「え?」
彼女の肩を掴むと、起き上がる反動で力任せにモモを引きずり倒した。
小枝のように華奢な身体は簡単に地面に転がる。乾いた金属音を立てて、モモの髪から髪飾りが滑り落ち、波打つ黒髪が地面に広がる。
ローズはその頼りない体躯に馬乗りになると、モモを地面に縫い留めた。
ひっくり返った視界に、モモは半ば呆然とした表情で、ローズと彼女の後ろに広がる空を見上げる。絢爛な蝶は戸惑ったように、不規則な軌跡を残して漂う。
汗で首元に張り付く髪が気持ち悪い。
ローズは滴る脂汗を乱暴に袖口で拭った。
「行かせないって言ったの、モモ」
その言葉に呼応するような、低い地響き。
遠くで地割れる音、しかし、それは一瞬にして二人の方へ走り寄る。踏み均された小道が、モグラが通った跡のようにぼこぼこと盛り上がる。
次の瞬間、モモと、モモに跨るローズを隔絶するために地面から、それこそ液体が噴き出すように幾本もの茨が飛び出した。
ローズとモモの周囲を舞っていた蝶は、突然生えた茨の勢いに天球高く吹き飛ばされる。
生い茂る茨はまるで鳥籠のように、モモとローズを囲い込み、二人の上空で絡まり合う。さらには、蔓の間を縫うように五枚葉が生い茂った。
「ローズさん、これは ……」
「蝶々には悪いけど、しょうがない」
ローズはモモを見下ろし、目を細めた。額には汗が光っているのに、浮かべるのは魔女に相応しい底知れない笑み。
「あの子、風を起こす力があるんだな」
「 ……! 」
「さっき、メグが男の子の喉を潰そうとしたときの不自然な突風、あれはあの子の仕業だろう? あの子は君の眷属なのかな?」
モモは答えない。しかし、ローズの言葉に、ぎっと眼差しを強くした。初めて会った時に見た、全てを射抜くような鋭いきらめき。彼女の謙虚な気の強さを伺わせる。
「モモ、君は悪魔? それとも本物の魔女?」
ローズの問いに、やはりモモは答えない。モモの強い視線を緑柱石の硬質さをもって真っすぐに受け止めていたローズの視線は、徐々に下がっていく。
黒いせいかはっきりとした輪郭の下睫毛、まろやかな頬、小さな鼻、少しだけ厚い唇、細い顎、長い首筋、はだけた胸元。
華奢な鎖骨、裂けた肌に、さらけ出された肉の桃色。
ちょうど肋骨が向かい合う間、本来なら肋骨に守られた空間の真ん中を狙ったかのような、痕ではない鮮やかな傷。
あたかも今しがたついたような、今にも血が噴き出す直前のような生々しさ。
相当に鋭利な刃物か何かで切り付けられたのか、いっそきれいな切り口だ。
マーガレットの拍車により引き裂かれたワンピースの引きつった裂け目とは対照的なほど。
「み、見ないでください」
ローズの視線の先に思い至ったのか、モモは先ほど見せた気の強さはどこへやら、慌てて両手で胸元を隠そうとする。
しかし、ローズは許さない。
右手を持ち上げようとしたが、先ほどの奇蹟の影響なのか、しびれが残っている。
仕方なく左手でモモの左手に触れれば、モモは、ぴく、と慄いた。
「見ない、君にひどいことはしたくない」
いつものように優しい口調で宥めながらも、襟元を掴む力がわずかに緩んだ隙をついて、モモの指に自分の指を絡めて、閉じた左腕を開かせる。
何故かモモは驚くほど簡単にそれを許した。
しかし、最後の抵抗とばかりに、右手でつかんだ襟元は離さない。破れた胸元からは、傷は見えないものの、わずかにバター色の肌がのぞいている。少し下げれば、臍のくぼみがみえるきわどい位置。
「でも、それは何?」
結局、ローズは己の欲望に忠実に従う。
するり、と裂けた服の間から、しびれが残る右手を差し入れ、その肌を探る。
触れた瞬間、ぴく、とモモの身体が逃げるように小さく跳ねた。
もちろん、ローズは許さない。
恥ずかしそうにローズの身体を押しやろうともがくが、ローズは太ももに力を入れて、モモの身体をさらに地面に押し付けた。
低いと思っていた体温は、それでも掌を押し付ければ染みるように暖かく、骨灰磁器を思わせるその肌の質感は、想像とは裏腹に吸い付くような柔らかさだ。
傷を探すように、触れた掌を胸元へと滑らせる。
しかし、傷にたどり着く前に指先に触れた一層柔らかな丘陵の麓。控えめなその形を辿るように数度、指先を往復させる。
「…… 鼓動がない、本当に生きてないんだな」
ローズの感嘆に、モモは体を震わせた。
左手は地面に縫い付けられ、右手は胸元を握りしめたまま、顔を背けて小さく震えている。
なぜかひどく嗜虐的な気持ちが、ローズの中に沸き起こる。
「治らない傷は悪魔との契約印?」
心持ち低くなった声音。思わず、気にくわないな、と口をついて出た。
「違います!」
しかし、ローズの問いかけに、予想外の強い否定。
さらに否定するためか、思わずローズに顔を向けたモモは、ローズが浮かべた陶然とした笑みに息をのんだ。
うっとりと浮かべられた、上品さにあわせて艶を含んだ笑み。
「じゃあ君こそが悪魔? それでもいいよ。何なら好都合だ」
しかし、ローズが言い出したことに、モモは虚を突かれたように目を丸くした。青みがかった白目に、黒い瞳の明確なコントラスト。
ローズは右手を胸元から引き出した。
モモと視線を合わせると、優しい手つきで、モモの前髪を掬いあげ、その小さな額を露わにした。
そこに鎮座するのは小さな突起。
ようやく生え始めた子ヤギの角のように、本当に小さなそれを、ローズは愛撫するようにそっと撫でた。
「従属契約を結ぼうか? 魔女になってもいい、今更だ」
「…… 私はこちらの物の怪ではないので、人とは従属契約なんてしませんよ」
「そう? じゃあ、取引は?」
モモの際限なく光を吸い込む黒い瞳。それを覗き込む緑の瞳の真ん中にある瞳孔が絞られる。
「バラと言わず血をあげようか?」
ローズは微笑みながら、水晶のような爪を配した指先でモモの輪郭を辿る。
モモはその悪戯な指先を咎めることなく受け入れる。
「バラの生気じゃ足りなくて、いつもお腹を空かせていたでしょう?」
ローズの指先は、モモのまろい頬を辿り、唇の端で動きを止めた。
つい、と人差し指の背でモモの唇をなぞる。
「生きていないものは死んでいなくても、こちらに存在するために生気を必要とする。それは古今東西変わらない理だと聞いた」
「…… 随分とお詳しいのですね」
妖精をも虜にする少女の誘惑をはぐらかすように、モモは感心してみせる。
「不死者を知るためにここにいるからね、詳しくもなる」
謙遜のない言葉は返って清々しい。ローズの言葉をどう受け取ったのか、モモは呆れたように苦笑する。
わずかに歪んだモモの口の端に、ローズは迷うことなく、すらりとした指を突っ込んだ。
口腔だというのに、温んだ大気のような低い体温。
しかし、湿り気のある肉はどこまでも柔らかくローズの指を包み込んだ。
ぴく、とモモの身体が小さく跳ねる。
しかし、ローズの指は頓着しない。
無遠慮に、いっそ柔らかな口内を楽しむように、指先で探ってくる。
「彼らは私のことを魔女と呼ぶけれど、私は、悪魔や妖精はもちろん、人とも交わりを持ったことはない」
指先が沈み込むような柔らかな頬の内側と、裏腹な滑らかに硬い歯の表面。肥大した犬歯を探り当てれば、ローズは指の腹をそれに引掛けた。
「召し上がれ、処女の血はとてもおいしいんでしょう?」
指先を曲げ、牙の尖りに指先を押し付ける。そのまま、ぐっと力を籠めようとすれば、拒むようにモモのぬめった舌先がローズの指先に絡んだ。
緩く開かれていた口唇が、ローズの指先を挟む。さらには、ちゅう、と音をたてて、モモはローズの指先を吸った。
ローズは心底楽しそうに目を撓ませた。
モモの好きにさせようと、指先から力を抜けば、モモは見せつけるように口を開く。そして、短いながらも肉厚な舌で、ローズの指を舐め下ろし、指の付け根、指と指の間を舌先でなぞった。
最後に、ちゅ、と可愛らしくローズの掌に口付けを落とせば、ローズは満足げに唇の両端を持ち上げる。
「ローズさん、あなた、私をどうしたいんです?」
濡れた指先を自身の口元に運び、薄く長い舌でぺろりと舐めてみせるローズを見上げて、モモが問う。ローズは不敵な笑みを浮かべて応える。
「欲しいものは必ず手に入れるって言ったでしょう?」
その言葉に、モモは今度こそ、正真正銘、呆れてみせた。
その小さな子のわがままを相手するお姉さまの対応に、ローズがわずかに眉を上げた。その瞬間、モモはぐっとローズの右腕を掴むと、その身体を引きよせた。




