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私たちは頽廃している  作者: StellA
ある修道女の日記より
23/28

08

 リコは半ば引きずるようにマーガレットとともに後ずさりながら、血が滴る左手をマーガレットの頬にかざす。

 マーガレットは苦渋の表情で、自分の首元にかかる少年の手に爪を立てるが、彼の手はびくともしなかった。


「近寄らないで、俺にも何が起こるかわからないんだ」


 どこか悲痛な声で、彼は「確実に言えるのは、彼女にとって良くないことが起こる」と続けた。

 それに答えたのはリタである。


「無駄よ、リコ。たとえ君が彼女に試練を与えても私が救済するわ」

「リタ、なんでさっき逃げたんだよ!」


 今度こそ、泣いてしまうのではないかと思える震える声で、少年は少女に問う。

 しかし、いつの間にか歩み寄っていたリタは、リコの言葉に答えることなく、ただ、さらに一歩、歩を進めた。

 今度はリコが、じり、と後ずさる。そのくせ口から出るのは懇願にも似た袖を引く言葉だ。


「リタ、帰ろう?」


 リタは大きな目の中で、やはり大きな瞳を揺らがせた。しかし、勧誘に答えない。代わりにリコの腕の中でマーガレットが喚いた。


「リタの居場所はここだ」

「お前は黙ってろ!」


 リコは怒鳴ると、ぐっと腕に力を込める。かは、とマーガレットは咳き込んだ。

 そこへ制止の声をかけたのはリリアーヌだ。先ほど度は打って変わった静かな口調。


「やめなさい」


 リリアーヌはリコに向かってそういった後、リコを振り返った。


「やっぱりアナタ達だったのね。神をも癒す(ラファエルの)両手」

「やめて、そのセンスのない呼び方も嫌だった」


 したり顔で割り入ったのはリリアーヌだったが、しかし、リタは嫌悪感も露わにリリアーヌのセリフを遮った。

 思わず言葉を失うリリアーヌに追い打ちをかけるように、隣に並ぶローズもまた「わかる」と深く頷き、同意する。


 ぐぅっと言葉に詰まったリリアーヌを、しかし、ローズはいつも通り意に解さない。


「で、神をも癒す(ラファエルの)両手はなんだって?」


 半ば揶揄するように促せば、リリアーヌは気を取り直したように、それでも思うところがあるのか、「その呼び名はやめましょう、」と告げて、よく似た少年少女を見やった。


「前に話したでしょ。聖痕を持つ(神の祝福を受けた)双子」

「奇蹟は祝福だというけど、なんで彼は自分の左手を武器にしてるんだ(呪いだと言ってるんだ)?」


 リリアーヌの言葉に、ローズはわずかに眉根を寄せる。張ったり(ブラフ)なら、気にせず取り押さえればいい、とばかりのローズに、リリアーヌは緩く頭を振った。


「実際は、弟は試練を与え、姉はそれを救済する、のよね?」


 確認するように双子に問いかける。しかし、二人は口を閉ざして答えない。

 リリアーヌの隣で、ローズが納得したように頷いた。


「へぇ、自作自演(救済の演出)ができるな、」

「察しが良くて感心するわ。さすが魔女」

「魔女はまぁまだ()()()()だけど、実行していたなら君たちは()()()()かな?」


 決して誉めてはいないリリアーヌの人をくった物言いに、ローズはいつものように悪態をつく。リリアーヌはローズを睨みつけたが、さすがに言い返すことなく、少年へと向き直った。


「それで? アナタ達の目的は何?」


 リリアーヌからの問いかけを、少年はリタに向かって答えた。


「リタ、君を迎えに来たんだ。あの時手を離したことをずっと悔やんでた」

「リタをどうしようって言うんだ?」


 呻き声と紙一重の絞り出された声でマーガレットが問責すれば、少年は叫ぶ。


「どうもしない、リタは俺の姉ちゃんだ! 家族なんだよ!」

「私だって!」


 少年の叫びを打ち消すように、リタは声を張り上げた。


「でも、これ(スティグマ)がある限り、また私たちを利用しようとする人が来るわ。そうなったらまたリコが傷つくのよ!」

「大丈夫、もう大丈夫なんだよ! 庇護してくれる人がいるんだ」

「リタ、惑わされちゃだめだ!悪魔の甘言だよ!」

「メグ、…… でも、」


 悲壮な声で窘める姉の言葉に、弟は言いつのる。しかし、それを留めるようにマーガレットが口を挟んだ。さらには、説き伏せるように言葉を続ける。


「見たじゃないか、モモの傷が一瞬で消えたのを …… ぐっ 」

「黙れよ! どっちが悪魔だっ ……」


 少年は激高し、(しるし)を持つ左手でマーガレットの口を塞ぐために手を上げた。

 刹那、リリアーヌの横でつむじ風が舞い起こり、柔らかなキャラメル色の髪が風にそよいだ。


「ローズさんっ!」


 言葉を失う少女たちで、唯一、モモが声を上げた。

 ついで、少年の拘束が緩んだことで、とさ、とマーガレットが地面に崩れ落ちる音。


「叔父様に彼女をよろしくと言われているの、」

「ローズ、君 …… 」


 跪くマーガレットが見上げたその先では、ローズの右手がリコの左手首を掴んでいた。

 少年の掌の聖痕(スティグマ)から滴る血が、ローズの右手に垂れる。

 ローズの手に血が触れると煙が立ち、辺りに焼けるような匂いが漂った。


「なッ! 離せよッ!!」


 驚いた少年はローズの手を振りほどこうと腕を振る。ぴっと流れる血が跳ね、ローズの眼鏡に填め込まれたガラスに赤い飛沫が飛んだ。

 痛むのか、ローズは顔を顰めて見せたが、それでも彼女は彼の手を離さない。それどころか、赤い染みが彩る世界を睥睨し、途中、リリアーヌと目があえば、不謹慎に笑う。


「いやだな、聖痕で灼けることを(これをもって)魔女の証としないでよ?」

「ローズ! バカ言ってないで、彼から手を放しなさい!」


 茶化す物言いはいつもの調子だ。リリアーヌの罵倒に返す、ひょうひょうとした表情も。

 しかし、秀でた額には、苦痛に耐えるための脂汗が浮かんでいる。


「嫌だ。君はモモも連れて行くつもりなんだろう?」


 そう言うも、ローズは耐え切れなくなったのか、空いた片手で額の汗を拭う。

 袖口が眼鏡の縁に触れて、ずり落ちた。

 かしゃん、と音を立てて落ちた眼鏡は、地面の上で跳ね、ぴし、とそのガラスにひびが入る。


「ローズさん、」


 ローズは振り返ろうとしたが、ままならず、ぐらり、と体を傾がせた。

 モモが駆け寄り、少女の身体を抱きとめるものの、しかし、そのまま地面に膝をつく。


「ローズ!」


 友人の呼びかけに応える気力もないのか、ローズは、モモが見惚れる湖水の森を偲ばせる瞳を瞼の奥に隠し、ぐったりと横たわったまま微動だにしない。


 ローズの肌を蝕む神の祝福(試練)は、血が触れていた箇所だけでなく、じわじわと広がりを見せている。


「リコくん、どうしたら ……」


 モモは腕の中のローズを抱きしめたまま、か細い声で、少年に縋る。まるで帰る家を見失った、小さな女の子のように不安に満ちた声。


「り、リタ、」

「うんっ」


 焦るリコに促され、リタはローズの傍らに膝をつくと、震える左手の指先で、右手に穿いた白い手袋を外した。


 現れたのは、日に焼けていない白い手。

 掌には少年と対になるようなイエスの焼き印(スティグマ)

 ローズの右手から立つ煙が文様に当たると、じわり、と血が滲み、その輪郭を暈かした。


 リタは左手でローズの手を取ると、焼け爛れていく皮膚に、己の右の手のひらを押し当てた。途端、リタが触れた個所から淡い燐光が零れ落ちる。

 己の血を塗り込めるように、リタはローズの腕を掌でなぞる。

 撫でるリタの手の下から現れたローズの皮膚は白く透き通り、その下に這う静脈が浮き出ていた。


 そっとリタがローズの手を解放すれば、モモは一度だけ、ぎゅっと彼女の身体を抱きしめた。


 そして、ゆっくりと顔を上げる。

 それから、秋晴れの澄み切った天空に向かって呼び掛けた。


「伯爵、どうぞお入りください」


 モモが発した招き入れる言葉は、ひどく厳かに響いた。

 まるで福音を告げる預言者のそれのように。

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