08
リコは半ば引きずるようにマーガレットとともに後ずさりながら、血が滴る左手をマーガレットの頬にかざす。
マーガレットは苦渋の表情で、自分の首元にかかる少年の手に爪を立てるが、彼の手はびくともしなかった。
「近寄らないで、俺にも何が起こるかわからないんだ」
どこか悲痛な声で、彼は「確実に言えるのは、彼女にとって良くないことが起こる」と続けた。
それに答えたのはリタである。
「無駄よ、リコ。たとえ君が彼女に試練を与えても私が救済するわ」
「リタ、なんでさっき逃げたんだよ!」
今度こそ、泣いてしまうのではないかと思える震える声で、少年は少女に問う。
しかし、いつの間にか歩み寄っていたリタは、リコの言葉に答えることなく、ただ、さらに一歩、歩を進めた。
今度はリコが、じり、と後ずさる。そのくせ口から出るのは懇願にも似た袖を引く言葉だ。
「リタ、帰ろう?」
リタは大きな目の中で、やはり大きな瞳を揺らがせた。しかし、勧誘に答えない。代わりにリコの腕の中でマーガレットが喚いた。
「リタの居場所はここだ」
「お前は黙ってろ!」
リコは怒鳴ると、ぐっと腕に力を込める。かは、とマーガレットは咳き込んだ。
そこへ制止の声をかけたのはリリアーヌだ。先ほど度は打って変わった静かな口調。
「やめなさい」
リリアーヌはリコに向かってそういった後、リコを振り返った。
「やっぱりアナタ達だったのね。神をも癒す両手」
「やめて、そのセンスのない呼び方も嫌だった」
したり顔で割り入ったのはリリアーヌだったが、しかし、リタは嫌悪感も露わにリリアーヌのセリフを遮った。
思わず言葉を失うリリアーヌに追い打ちをかけるように、隣に並ぶローズもまた「わかる」と深く頷き、同意する。
ぐぅっと言葉に詰まったリリアーヌを、しかし、ローズはいつも通り意に解さない。
「で、神をも癒す両手はなんだって?」
半ば揶揄するように促せば、リリアーヌは気を取り直したように、それでも思うところがあるのか、「その呼び名はやめましょう、」と告げて、よく似た少年少女を見やった。
「前に話したでしょ。聖痕を持つ双子」
「奇蹟は祝福だというけど、なんで彼は自分の左手を武器にしてるんだ?」
リリアーヌの言葉に、ローズはわずかに眉根を寄せる。張ったりなら、気にせず取り押さえればいい、とばかりのローズに、リリアーヌは緩く頭を振った。
「実際は、弟は試練を与え、姉はそれを救済する、のよね?」
確認するように双子に問いかける。しかし、二人は口を閉ざして答えない。
リリアーヌの隣で、ローズが納得したように頷いた。
「へぇ、自作自演ができるな、」
「察しが良くて感心するわ。さすが魔女」
「魔女はまぁまだ人のうちだけど、実行していたなら君たちは人でなしかな?」
決して誉めてはいないリリアーヌの人をくった物言いに、ローズはいつものように悪態をつく。リリアーヌはローズを睨みつけたが、さすがに言い返すことなく、少年へと向き直った。
「それで? アナタ達の目的は何?」
リリアーヌからの問いかけを、少年はリタに向かって答えた。
「リタ、君を迎えに来たんだ。あの時手を離したことをずっと悔やんでた」
「リタをどうしようって言うんだ?」
呻き声と紙一重の絞り出された声でマーガレットが問責すれば、少年は叫ぶ。
「どうもしない、リタは俺の姉ちゃんだ! 家族なんだよ!」
「私だって!」
少年の叫びを打ち消すように、リタは声を張り上げた。
「でも、これがある限り、また私たちを利用しようとする人が来るわ。そうなったらまたリコが傷つくのよ!」
「大丈夫、もう大丈夫なんだよ! 庇護してくれる人がいるんだ」
「リタ、惑わされちゃだめだ!悪魔の甘言だよ!」
「メグ、…… でも、」
悲壮な声で窘める姉の言葉に、弟は言いつのる。しかし、それを留めるようにマーガレットが口を挟んだ。さらには、説き伏せるように言葉を続ける。
「見たじゃないか、モモの傷が一瞬で消えたのを …… ぐっ 」
「黙れよ! どっちが悪魔だっ ……」
少年は激高し、印を持つ左手でマーガレットの口を塞ぐために手を上げた。
刹那、リリアーヌの横でつむじ風が舞い起こり、柔らかなキャラメル色の髪が風にそよいだ。
「ローズさんっ!」
言葉を失う少女たちで、唯一、モモが声を上げた。
ついで、少年の拘束が緩んだことで、とさ、とマーガレットが地面に崩れ落ちる音。
「叔父様に彼女をよろしくと言われているの、」
「ローズ、君 …… 」
跪くマーガレットが見上げたその先では、ローズの右手がリコの左手首を掴んでいた。
少年の掌の聖痕から滴る血が、ローズの右手に垂れる。
ローズの手に血が触れると煙が立ち、辺りに焼けるような匂いが漂った。
「なッ! 離せよッ!!」
驚いた少年はローズの手を振りほどこうと腕を振る。ぴっと流れる血が跳ね、ローズの眼鏡に填め込まれたガラスに赤い飛沫が飛んだ。
痛むのか、ローズは顔を顰めて見せたが、それでも彼女は彼の手を離さない。それどころか、赤い染みが彩る世界を睥睨し、途中、リリアーヌと目があえば、不謹慎に笑う。
「いやだな、聖痕で灼けることを魔女の証としないでよ?」
「ローズ! バカ言ってないで、彼から手を放しなさい!」
茶化す物言いはいつもの調子だ。リリアーヌの罵倒に返す、ひょうひょうとした表情も。
しかし、秀でた額には、苦痛に耐えるための脂汗が浮かんでいる。
「嫌だ。君はモモも連れて行くつもりなんだろう?」
そう言うも、ローズは耐え切れなくなったのか、空いた片手で額の汗を拭う。
袖口が眼鏡の縁に触れて、ずり落ちた。
かしゃん、と音を立てて落ちた眼鏡は、地面の上で跳ね、ぴし、とそのガラスにひびが入る。
「ローズさん、」
ローズは振り返ろうとしたが、ままならず、ぐらり、と体を傾がせた。
モモが駆け寄り、少女の身体を抱きとめるものの、しかし、そのまま地面に膝をつく。
「ローズ!」
友人の呼びかけに応える気力もないのか、ローズは、モモが見惚れる湖水の森を偲ばせる瞳を瞼の奥に隠し、ぐったりと横たわったまま微動だにしない。
ローズの肌を蝕む神の祝福は、血が触れていた箇所だけでなく、じわじわと広がりを見せている。
「リコくん、どうしたら ……」
モモは腕の中のローズを抱きしめたまま、か細い声で、少年に縋る。まるで帰る家を見失った、小さな女の子のように不安に満ちた声。
「り、リタ、」
「うんっ」
焦るリコに促され、リタはローズの傍らに膝をつくと、震える左手の指先で、右手に穿いた白い手袋を外した。
現れたのは、日に焼けていない白い手。
掌には少年と対になるようなイエスの焼き印。
ローズの右手から立つ煙が文様に当たると、じわり、と血が滲み、その輪郭を暈かした。
リタは左手でローズの手を取ると、焼け爛れていく皮膚に、己の右の手のひらを押し当てた。途端、リタが触れた個所から淡い燐光が零れ落ちる。
己の血を塗り込めるように、リタはローズの腕を掌でなぞる。
撫でるリタの手の下から現れたローズの皮膚は白く透き通り、その下に這う静脈が浮き出ていた。
そっとリタがローズの手を解放すれば、モモは一度だけ、ぎゅっと彼女の身体を抱きしめた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
それから、秋晴れの澄み切った天空に向かって呼び掛けた。
「伯爵、どうぞお入りください」
モモが発した招き入れる言葉は、ひどく厳かに響いた。
まるで福音を告げる預言者のそれのように。




