07
マーガレットは、神様がリタを創ったとき、彼は最高に機嫌が良かったんじゃないか、と思っている。
初めてできた同じ年の友人と言うこともあるが、彼女のラテン気質な明るさはとても魅力的だった。気が強く男勝りなところも、男の子に混じって遊んできたマーガレットと気が合った。
特に、リタのイタリア娘らしく、制服を少し改造する、つまらない規則よりも自分のセンスを優先するところや、彼女の派手さを咎める修道女たちに「その修道服だってもう少しウェストを摘まめば素敵なシルエットになるのに、」などと言い返すところは、尊敬に値するとさえ思っていた。
なにより、弟がいるらしく、面倒見が良いところも、末っ子だったマーガレットと相性が良かった。
「そういえばレモネードの当番、リタだったよね、」
「ええ、」
「蜂蜜はどのくらい入れた?」
「もちろん、こっそり増やしておいたわ」
「ミセスにばれたら怒られるな」
「その頃にはお腹のなかだもの、聞き流しちゃえば」
教会に向かう道すがら、隣を歩くリタにミサの後に振舞われるレモネードについて尋ねる。リタは白いレースの手袋をはめた指先で、チョコレート色のおくれ毛を気にするように撫でながら答える。
「そういえば、先週のミサでリタに似てる人がいた」
「え?」
「ルーマニア? どっか東欧の伯爵令嬢だって言ってたけど、」
「令嬢ってことはお嬢さまなのね」
「リタだって貴族なんだし、東欧に嫁いだ親戚とかいないの?」
「…… それはないと思うわ」
「そう? でも本当によく似てたよ、その大きな目のあたりとか」
「そんなに?」
「うん! モモっていうローズの友達がお世話になってる人で、今日のミサにくるらしいから後で紹介するよ!」
「友達に …… 」
リタは話の途中で口を噤んだ。訝し気にマーガレットも足を止めて、リタを見やる。細い鼻筋にツンと突き出た唇、大きな目はカラヴァッジョが描く聖カテレナのように凛としている。
彼女の視線を追ってみれば、温室に向かう小道から、小柄な東洋人と、先日紹介された伯爵令嬢が歩いて来るのが見えた。
彼女たちも、マーガレットとリタに気が付いたようだった。
「マーガレットさん、」
「モモ、」
珍しくモモが声を張り上げる。マーガレットは手をあげて応える。
そのことに、何故かモモではなくサラが大仰に反応した。なにより、その視線はマーガレットではなく、後ろのリタに向けられている。
訝しく思いながらも、マーガレットはリタを振り返った。
「リタ、さっき話してたモモだよ。紹介する ……」
そう言いながら、しかし、すべてを口にする前に息をのむ。
見開かれたキャラメル色の瞳。
薄く開いた唇は引きつっていて、笑みのようにもみえる。しかし、わずかに震えていた。
「リタ、どうしたんだい?」
リタはマーガレットの問いに答えることなく、弾かれたように踵を返すと駆け出した。
驚いたのはマーガレットだけではない、訊きなれない声が響いた。
「リタ! 待ってよ!」
まだ高さを残した、少年の声。かすれ気味なのは声変りの途中なのかもしれない。
リタを追って駆け出したサラの帽子が飛び、地面に転がる。現れたのは、少年らしく短く切りそろえられたチョコレート色の髪。
モモが止めようとしたのだろう、繋いでいた手を伸ばすが、むなしく空を切る。
少年はドレスの裾を蹴飛ばしながらリタを追う。
チョコレート色の前髪が風でなびき現れたのは、カラヴァッジョが描く若きイエスのように端正な横顔。 ―――― リタとよく似た顔立ち。
しかし、マーガレットは、彼が横を駆け抜けようとしたその瞬間、彼の前へ足を出した。
少年はマーガレットのウェスタンブーツに足を取られ、花飾りがついた帽子のように、地面へと転がる。
「!」
盛大に響いた地面に擦れる音に、リタは思わず振り返り、足を止めた。
「大丈夫ですかっ!」
「動くな!」
我に返ったモモが倒れこんだ少年に駆け寄ろうとするのを、マーガレットは制する。それでも身じろぐモモに、マーガレットはウェスタンブーツに取り付けていた拍車を少年の耳の裏に当てる。
「モモ、動くな。もちろん君もだ。動いたら耳をそぎ落とす」
いつも朗らかな少女から発せられたとは思えない、明らかな脅し。
苦渋の表情を浮かべて、モモは動きを止める。
マーガレットは拍車を少年の耳の裏から頬に寄せると、尖ったつま先で少年の肩を押してうつ伏せから仰向けになるように促した。
意外にも少年は抵抗することなく従う。
マーガレットは、首元を覆うレースに拍車を引掛けるとその襟元を切り裂いた。
現れたのはまだ細い首と、その中央にわずかに隆起する喉仏。
マーガレットの表情が嫌悪に歪む。
本来、明るい空色の瞳は、今、高い温度で燃え上がる青白い炎が揺らめいている。
少年の長い喉の上に、マーガレットは爪先とヒールの間をあてた。少し体重を移動させれば、喉仏を簡単に潰すことができる箇所だ。
「男が何故ここにいる? いや、君はしゃべるな …… モモが説明するんだ」
「説明しますので、せめて、急所を狙うのをやめてください」
モモの交渉に、マーガレットは緩くかぶりを振る。
「…… それはできな」「リコ! 駄目よ!」
マーガレットの拒絶に、リタの悲鳴のような声が重なった。
マーガレットが足元を見やれば、少年は右手でマーガレットの足を掴もうとしている。反射的に彼の喉仏の上に体重をかけようとして、しかし、突風が巻き起こった。
マーガレットは巻き上げられる砂ぼこりに、思わず仰け反り顔を覆う。
その視界の端で、黒い人影が突っ込んでくるのが見えた。
モモである。
マーガレットは仕方なく、仰け反る勢いで、喉仏に添えていた足を蹴り上げた。
その隙をついて、少年は体を転がし、マーガレットの足元から逃げる。
ウェスタンブーツの尖ったつま先が、鋭い風切り音をたてて空を切る。
マーガレットの爪先がモモの鼻先を掠め、モモの重たい前髪を吹き上げた。
丸みを帯びた額が露わになる。
稜線を描く生え際に、小さな、本当に小さな角がふたつ。
それを認めた瞬間、マーガレットは迷うことなく蹴り上げた足を、今度はそのまま振り下ろした。
モモの突き出された胸元に拍車が引っかかり、抵抗を生むが、マーガレットは重力と慣性に任せて引き裂いた。
清潔な白い襟が乱れ、華奢な鎖骨がのぞく。その鎖骨と胸の間に引き連れたような生々しい肉の赤。さらにその下には拍車が浅い擦り傷として軌跡を残す。
痛々しいそれに、マーガレットはわずかに怯む。
しかし、肉の赤を曝け出す抉れた傷跡はそのままに、淡い擦り傷は瞬時に消えた。
「モモ、」
「大丈夫です …… 治らない傷は一つだけ」
少年の呼びかけに、モモはマーガレットから目をそらさずに、しかし、少しおどけたように告げる。立ち回ったせいか、整えられていた髪が崩れ、幾筋かの髪束が彼女の横顔にかかっている。
少年はモモの言葉に、泣きそうな笑みを浮かべた。
「…… モモ、君は人間じゃないのかい」
マーガレットの問いかけに、モモは口を開いた。
しかし、数瞬、ためらった後、声を発することなく、結局その口を閉ざした。
「アナタたち何やってるの!」
そこへ、鋭い声が割り入る。
教会から飛び出してきたリリアーヌだ。彼女の後を追うローズも、彼女にしては珍しく焦ったような表情を浮かべている。
「ち、」
現れた上級生たちに気を取られたマーガレットの不意を突くような、小さな舌打ち。
次の瞬間、マーガレットは少年に乱暴に抱き寄せられた。まだ狭いマーガレットの肩に、少年のそう太くはない右手が絡みつく。しかし、それは明らかに男女差を感じさせる強い力で、マーガレットを締め上げた。
「リコくん、やめてください」
「モモは黙ってて、」
リコと呼ばれた少年はモモの制止を一蹴する。
マーガレットを締め上げたまま、少年は左手の手袋を噛み、脱ぎ捨てた。その仕草は、貴族令嬢とはとても思えないような乱暴さだった。
現れたのは、火傷のように赤黒く変色した皮膚だ。その爛れた跡は、まるで掌に押された焼き印のように、複雑な文様を描き出していた。
「聖痕、」
「違う、これは呪いだ」
思わず呟いたのはリリアーヌだ。それに少年が強い口調で反論する。
少年の言葉に呼応するように文様から、じわり、と血が滲み、その輪郭を曖昧にした。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(伊: Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月29日[1] - 1610年7月18日):バロック期のイタリア人画家。世紀末芸術の分類ではありません。




