四十六花 同じ轍
とにかく着ろ、お前が着ろ、いやお前が着ろよ、いやいやお前が――と、不毛な争いがしばし続いた。
なんというか、お互いに引かないから収集がつかない。
でもだからと言って、じゃあ私が大人になって……、とはならないけど。
だって、アシュールが何をしたいのかは知らないけど、私にも引けない理由があるのだ。
もういい加減うっすらとしか残っていないけど、ちょっと見ればわかる程度には存在を主張している、ソレ。
アシュールの肩にしつこく残っているソレを、こんなタイミングで白日の下に晒されるわけにはいかない。断じて。
なんだか、以前もそんなことを考えて色々と失態を犯した気がしないでもないけど、それはそれだ。アシュール本人に気づかれるのと、その他大勢に知られるのとでは全然重みが違う。
うん。どう考えてもその他大勢に知られる方が死活問題だ。
……その他大勢というか、豆腐脳とか柴犬とか豆腐脳とか柴犬の悪友とか豆腐脳とか。ね。
妙な勘繰りをされて恥ずかしい思いをするくらいなら、ここでアシュールを張り倒して土に埋めてもいい。物理的に無理だけど、でもそれくらいの気持ち!
――と、何がなんでもアシュールにTシャツを着せ直そうとする私だったけど。
…………。
アシュールがキレた。
「------!! -----!」
何を叫んだかわからないはずなのに、私の耳には「いいから黙って着ていろ!! この馬鹿!」と言っているように聞こえた。――え、最後は暴言じゃない?
暴言を吐かれたっぽいのに、アシュールの本気の怒声にびっくりしすぎて私は固まってしまった。
普段、基本的には穏やかで冷静な人が怒鳴ると、それだけで衝撃的だ。
私が目を白黒させているのをいいことに、アシュールは私の背後に回った。
後ろからアシュールの片手が伸びてきて、気づいたときには自分の両手ごと抱えるように拘束されていた。動揺している隙を突くなんて、……この卑怯者!
忌々しいことに、もがいてもアシュールの綺麗に筋肉のついた腕は全然外れなかった。
大した抵抗もできないので、頭からTシャツをすっぽりと被せられてチェックメイト。
一応は必死に頭を振ったけど、無駄な体力を消耗しただけに終わった。
というか、暑いよ、アシュール……。
暴れたうえに密着されている状態は、非常に、暑い! 今が夏だって自覚はあるんだろうか。海に入る気満々だったのに、どうして私はまだこんなところでアシュールとやり合っているんでしょう。
なんか、急激に脱力感が……。
そうして無抵抗になった私をこれ幸いに、アシュールは一瞬だけ拘束を解いて、私が袖に腕を通さないままなのもかまわず下までTシャツを引っ張った。……なんという執念。
180cmを超えるアシュールのTシャツはもちろん大きいから、裾が膝上あたりまでくる。ちょっとしたワンピース状態だ。うん、ダボダボで楽だからもう別にいい。負け惜しみじゃないよ! アシュールの目を盗んで脱ぎ捨ててやろうとか全然、思ってないから!
胸の内はどうあれ身体的には大人しくしているというのに、アシュールはさらに駄目押しとばかりにTシャツの上から腕を回してきて、私は完全に身動きが取れなくなった。
……なるほど。これは新しい簀巻きですね。わかります。
「……おい」
私が根負けして場に一応の静けさが戻ったころ。後ろから低い声が聞こえた。
機械的に振り返った私の目に、何故か私以上に疲れた顔をした壱樹が映る。
壱樹は死んだ魚のような目で言った。
「お前らはサ、何なノ? ケンカしてるノ? ジャレてるノ? イチャついてるノ? ――埋められたいノ?」
俺的には最後だと凄く嬉しい。と続ける壱樹の声があまりにフラットで、アシュールと私は無言で壱樹を見つめてしまった。
なんか喋り方がロボットっぽい。
二人で無言のまま壱樹ロボを凝視していたら、壱樹の死んだ魚の目がふらふら~、と移動した。
――あ、嫌な予感。
「っていうかさあ――」
壱樹がレジャーシートに座ったまま腕を上げ、すぅっと人差し指をこちらに向けた。……人を指差しちゃいけません、って学校で習わなかったの?
「ソレ。アシュールの背中にあるそれって何? ……爪痕?」
…………。
………………。
――っぎゃああああああ!
背中の傷忘れてた!!
背中の傷はもう本当に治りかけなのに、何故気づくんだ、壱樹め!
視力2.0とか、喧嘩売ってるのかー!
無駄なところにばかり注目するんじゃないっ。
男が男の背中を注視するなんて気持ち悪いぞっ。
というか、これはどうすればいい!?
何を言えばいいのっ!?
わかんないけど何か言わなきゃ……!!
テンパった私はアシュールの強固な拘束を火事場の馬鹿力で振り切り、急いでTシャツから腕を出して壱樹の肩を掴んだ。ぎりぎりと爪が肩に食い込む感触が手に伝わったけど、今は気にしていられない。
「壱樹、よく聞いて! あれは……、そう! あれはね、……あれは、アシュールが自分の故郷に居たときに、クマと揉み合いになったときの傷らしいよ! あれはその名残の爪痕だね! 可哀想にね!」
「…………」
「…………」
「…………」
……沈黙って、ときに暴言よりも胸に突き刺さるよね。
でもなんて言うか、これは酷い。自分で自分に失望した。それくらいレベルの低い言い訳だった自覚がある。必死過ぎて笑うことすらできないとか、逆に怪しいよね。絶対、勘繰りに拍車を掛けているに違いない。
案の定、壱樹は胡乱な目でこちらを眺めている。思わず目つぶししたくなってしまった。
壱樹の疑わしげな視線に耐えかねて、助けを求めてアシュールをちらりと見る。
アシュールは何故か壱樹をじっと見つめていた。
何か、壱樹の様子をつぶさに観察しようとでもしているみたいに。
だから、男が男を注視するのは気持ちが悪いと……あ、これは偏見だよね、今の無し。さっきのも無しの方向で。
だけど妙な嫌疑を掛けられている場面では不適切な視線じゃないでしょうか。と、私は眉を顰める。それに気づいたのか、アシュールがこちらを向いた。
ちょっと、弁解の手助けくらいしてよ、と視線で訴えてみるも、アシュールは今度は私の方をじっと見つめてきた。
身体の奥まで見通されそうな銀河色の瞳が真っ直ぐこちらを見ていて、何か怖い。
言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに! なんて無理な注文を心の中で叫んでいたら、耳元で盛大な溜め息が聞こえた。
――あ。またしても壱樹の存在を忘れていた。
「もういいから、とりあえず手を離せ、むつ。肩に10個も穴を開けられるとか、無理」
「あ、ごめん」
言われて見れば、壱樹のTシャツには指を起点に皺が寄っていた。要するに、それだけ強く握りしめていたってことだ。
壱樹は肩を回しながら口を開く。
「その爪痕は、むつの必死さでなんとなく経緯に想像がついた」
「な、何よ、想像って」
壱樹の表情からは何を想像しているかまでは読み取れない。
「あれだろ、どうせ酔っ払って悪戯でもしたんだろ、むつが」
「――っ、何で私が!」
大真面目に吐かれた言葉はある方面ではいい意味で予想外、でももう一つの方面では悪い意味で予想外だった。……なんか馬鹿にされた気分。
ついムカついて言い返してしまった。
「っていうか、酔ってたのはアシュールの方だし!」
「え、その人、酔った勢いでお前を襲ったの?」
「ち、違う違うっ」
ぐっと眉に皺が寄って、壱樹が見たこともない怖い顔をしたから、物凄く焦った。
慌てて否定したら、多少は表情が軟化したからホッと胸を撫で下ろす。
「いやね、アシュールがお父さんと飲んで酔っ払っちゃってね? まあ色々あって夜中に不可抗力でアシュールの下敷きになっちゃって。意識のないアシュールを退かすのにやむなく、引っ掻いたり噛み付いたりしてしまったんです、私が」
ああもう、どうせなら最初からこう説明すればよかった。
アシュールと喧嘩になったときにも反省したつもりだったのに、全然学習していなかった自分が情けない。これじゃあ孝太や壱樹のことをとやかく言えないな……。
がっくりと肩を落とす私を見て本当のことだと信じてくれたのか、壱樹は物凄く納得したように頷いていた。
「ああ、お前って基本的に容赦ないもんな。傷が残るまで引っ掻くとか、普通やらないっつうのに」
「……乱暴ですみませんね」
投げやりに言ったら、はははははと軽く笑い飛ばされた。
壱樹に笑われたことでさらに自分が情けなくなった。
「まあそれはいいとして、じゃあむつがアシュールにTシャツを着させようとしてたのはそれを隠すためか」
「うん、そう。壱樹に見られたら面倒だと思ったから」
「隠さなきゃ面倒も何もないだろ」
「ぐっ」
たった今反省したところを突くなばか!
「っていうか、そもそもアシュールがTシャツ脱いだりするから! ……あれ? 結局、何で私はアシュールのTシャツを着せられてるの?」
なんとか言い返そうとしたら、今までスルーしていた疑問に行き当たった。
壱樹と二人、アシュールを見る。
アシュールはもうさっきみたいにはこちらを見ていなくて、ただ困惑したように金の眉尻を下げていた。




