四十四夏 アッシーで海
海はいいと思います。
一定のリズムで押し寄せる波の音。
潮風の匂い。
燦々と照る太陽と、煌めく水面。
大変綺麗だと思います。
夏の海、と聞けば、誰もがちょっとわくわくするのではないでしょうか。
――でも、何事にも例外ってあると思う。
子守のために強制連行された海ほど、うんざりするものはない。と私は思います。
「もう、姉ちゃん! 暇ならシャチに空気入れてくれよ!」
「はいはい……」
はしゃぐ孝太の声にさらにやる気を削がれながら、私は車の荷台に積まれていたシャチの浮き具に空気を入れ始めた。
今は便利になったもので、空気を入れるのに力なんていらない。スイッチ一つで勝手にぐんぐん空気を入れてくれる機械が手ごろな値段で手に入る。私が小さかった頃は足で一生懸命踏んで空気を入れるポンプ式のが主流だったのにね。
技術の向上ってあっという間だわー。あ、もちろん色々便利にしようと頭を使ってくれる技術者さんたちのおかげなんだろうけど。
なんて、見たこともない技術者さんたちにひっそりと感謝しながら、元気のないシャチがしゃっきりしていく様をぼんやり眺める。
おー、シャチがシャチシャチしくなってきましたよー。
意味不明なことを心の中で呟く。
……うん、どれだけ私にやる気がないのか、おわかりいただけただろう。
だって本当、海になんて全然来る気なかったんだもん!
壱樹がいればまあなんとかなるでしょ、って思ってたし。子守と言っても、中学も終わりの少年が三人だから、そこまで気を張る必要もないとも思ったしね。
なのに、だ。
「アッシュはコレな!」
「……」
孝太が満面の笑みでピンク色の浮き輪をアシュールに差し出している。何故ピンクを選んだし……。
そう、実はアシュールも海へ連行されて来た被害者の一人だ。……いや、そもそもアシュールが強制参加になった所為で、私も二次災害に遭ったというか……。
壱樹と孝太、それに孝太の悪友二人で行くなら全然問題なかったのに、アシュールが一人追加されたことによって車が定員オーバーになったんだ。
ええ、つまり、私はあぶれたたった一人のためのアッシーにされたわけです。
「姉ちゃん、シャチは!?」
「うんもーいーんじゃないかなー」
物凄く棒読みで言った私にかまわず、孝太たちは「よっしゃ! 俺たち先行ってるかんなー!」とか叫びながら、ぴゃーっと走って行ってしまった。
……中学生って元気だね。
「はは、あいつら元気だなー。んじゃ、俺たちもぼちぼち行きますか」
「うん」
大人組三人で苦笑を交わし、私たちはクーラーボックスやら何やらを担いで浜に向かった。
自分の小さい頃もそうだったんだろうけど、大人って結構大変だよね。そして子供は得だ。面倒なことは全部大人がやってくれるし、自分たちは楽しく疲れ果てるまで遊んで、帰りは車で爆睡とか余裕でできちゃうんだもんね。良いご身分だよ、ほんと。
って、愚痴っぽいな。どこの疲れたお母さんだ。
うん、せっかくだから楽しもう! 適当に泳いでるだけでもいい運動になるし!
「よし、こんなもんでいいだろ」
荷物を置いてレジャーシートを敷き、パラソルを立てたところで壱樹が言った。
正面より少し右にずれたあたりに、孝太たち三人が見える。ここなら孝太たちからも見つけやすいだろうし、ちょうどいいだろう。
「荷物番と子守は交代制にするか」
続いた壱樹の言葉に私は一度頷いてから、ちょっと首を捻る。
よく考えたら、私が中三の少年たちの中に入ったところで、何をすればいいかわからないことに気づいたんだ。
孝太の悪友二人とは面識もあるし、狭い田舎なので今更人見知りなんてしない。合流すれば普通に仲間に入れて遊んでくれると思う――いや待て、遊んであげるのは私だ――けど、やっぱり女一人で入っても少年たちの相手は十分にできないだろうと思う。齢だって五つも離れてるし。近くで浮いてるだけにしても、プールじゃないからぼーっとしてたらあっという間に流されちゃうしなあ……。
でもそれを理由に子守を放棄したら、今度は壱樹にいろいろ言われそうで嫌だ。きっと精神年齢が同じくらいだから大丈夫だろ、とか言い出しそう。……あれ、想像しただけなのにちょっとイラッときた。とりあえず壱樹の背中を叩いておこう。「イテッ」とか聞こえたけど気のせいに違いない。
とにかく、中三男子の相手は難しいけど、せっかく来たんだから、海には入りたい。ちゃっかり水着も着てきたし!
そこまで考えて、私はアシュールを見上げた。
とりあえず、最初はアシュールと私の二人で適当にみんなで遊べばいいか。アシュールがいればなんとかなるだろう、うん。丸投げじゃないよ?
アシュール一人を荷物番に残すのはいろんな意味で心配だから、壱樹と動くよりはアシュールと動くのがいいよね。
「じゃ、最初はアシュールと私で孝太たちのとこ行ってくるよ。壱樹は荷物番してて」
「えっ、なんで」
「なんで、ってこともないよ。慣れてないアシュールを一人で荷物番させておくのは色々心配だし可哀想だし――あ、それとも、やっぱり私だけ孝太たちのとこ行って、二人で荷物番してる?」
「いやそれこそなんでだよ、無理!」
物凄く嫌そうにした壱樹が「いいよお前ら二人で行って来い!」と即座に返してきた。壱樹とアシュールは何故か初対面からそりが合わないらしい。割と人当りが良くて友達の多い壱樹にしては珍しいことだ。……というか、アシュールが刺々しいのか? やたら暴力的だし。
――まあいいんだけど。
「アシュール、聞いてたー?」
「…………」
「あれ?」
なんか物凄く静かだなー、と思って、ショートパンツやらを脱ぎながらアシュールを再度見上げて気づく。
――この人、なんでこんなに固まってるの?
「アシュール?」
アシュールはどこか遠くを見ながら唖然、呆然、といった態で凝固していた。目の前で手をひらひらさせても反応しない。……立ったまま寝てんの? ほんと器用だね。
「どうした?」
「いや、なんかアシュールが立ったまま、しかも目をかっぴらいたまま寝てるみたい」
「……それ寝てないだろ、絶対」
壱樹が呆れながら言うのに肩を竦めて見せてから、私はとりあえずTシャツも脱いだ。もういつでも海に入れるぞー、と何気にやる気になってきた私です。だって海風が気持ちよくて。ちょっと気分が浮上してきたんだよね。孝太たちの監視は適度に抑えて、好きに泳がせてもらおう。
私はビーチボールを手にして、石化しているアシュールの腕を叩いた。
「アシュール、行くよ!」
「!」
アシュールの石化は針ではなく衝撃で解けるものだったらしい。
ビクッとしたアシュールがゆっくりこちらを向いた。
やっぱり様子がおかしい気がする。目がうつろ。
壱樹は嫌がりそうだけど、ここは二人で荷物番をしてもらってる方がいいかな、と思い始めたとき、突然アシュールがカッと目を見開いた。
――何この人、すごく怖い。




