四十一夏 豆腐の中身 二
「――何の冗談?」
傾いた自転車に跨ったまま振り返った壱樹に向かって呆然と呟く。
何故か耳元でけたたましい笛の音が聞こえた気がした。同時に、頭の中には鮮やかな黄色のカードをビシリと掲げる黄色のポロシャツを着た自分が思い浮かぶ。突きつける相手はもちろん壱樹だ。
つまりアレです。
壱樹反則、イエローカード。
「はは、私が壱樹の嫁とか……、笑えるー」
「いや、笑うとこじゃないけど」
「…………」
また笛が鳴った。
頭の中で、今度は目にも眩しい真っ赤なカードを突き出す私。
頭の中の私は、大真面目な顔をしながら「さっき一発退場にしておけば良かった!」と内心叫んでいた。
「…………」
「…………」
何を言ったらいいのか。
口を開いては閉じ、開いては閉じしながら、苦々しく壱樹を見る。
壱樹の脳みそは、豆腐でできているだけじゃなく腐っちゃってるんじゃないの。暑さにやられたか?
「笑うとこじゃないなら何? 怒ればいいの?」
結局、唇を尖らせて捻くれた言葉しか出てこなかった。
壱樹がどういうつもりで私に「嫁に来る?」なんて言ったのか知らないけど、私たちの間に恋愛の文字は今まで存在していなかった。いきなりプロポーズなんて、ふざけているとしか思えない。本気に取れという方が間違っている。
「まあ、むつなら怒るところかもな?」
「何それ!」
人を動揺させといて、暢気なことを言う豆腐野郎に腹が立つ。本気で喧嘩売ってんの!?
「……あー、わかってる。そう怒るなって」
「怒るところって言ったの壱樹でしょ!」
「うん、でも、冗談が過ぎました、ごめんなさい」
「何それ!」
「いやだから、マジでごめんなさい」
何なんだ、ホントに!
笑うところじゃない、なんて言ってみたり、冗談が過ぎた、なんて言ってみたり。一体どっちが本音?
本当に、少し会わないうちに壱樹の頭の中はどうなってしまったんだろう。孝太と違って勉強のしすぎなんじゃないだろうか。
無言で睨みつけていたら、自転車のストッパーを下ろした壱樹がホールドアップでこちらに身体を向けた。
おおお、アメリカンはアンタにはまだ早い!
「いや、俺も実は自分が何を言っているのかわからん。……帰省したら、変わらないはずの実家周辺が様変わりしてて、思ってる以上に動揺してんのかな?」
「……」
まあ、気持ちはわからんでもない。
田舎の実家はのんびり長閑で、時間の流れがゆっくりな気がする。自分が変わっても、何も変わらずそこにあってくれる安心感があるんだ。
それが、明らかに場違いな西洋人風の異世界人なんてものに遭遇したら、そりゃあ動揺もするか。
いやしかし、動揺したからって何で嫁。お母さんの再婚相手にどうか、なんて提案してみたり、なんでそっち方面に話を持っていこうとしているんだ。豆腐だからってフラフラフヨフヨしすぎじゃない?
「でもさ、むつが嫁に来てくれたら、いろいろ安心だと思ったんだよな。本気で。それこそ、得体の知れないヒャなんとかさんを母さんの再婚相手にするよりは現実的だとも――」
「何それ! ……いやホント、何それ!」
大事なことなので、二回言いました。
「壱樹、それってどういう意味かわかって言ってる?」
「ん?」
ホールドアップを腕組みに変えて首を傾げる壱樹に呆れる。
いくら気心が知れているからって、流石の私でも怒るよ? いやもう散々怒ってるけど。
「結婚って、安心するからするの? ……確かに、お互い一緒にいて安心するから、って理由は悪くないと思うけど、壱樹が言ってる『安心』ってさ、私と一緒にいて、ってより、『おばさんと顔見知りで付き合いも長いから安心』って意味でしょ? 壱樹がおばさんを大事にする気持ちはわかるけど、それって私のこと馬鹿にしてる。……私、おばさんのこと好きだけど、おばさんを安心させるために壱樹と結婚するのは間違ってると思う」
「…………」
壱樹は無言でぐにゃりと眉尻を下げた。自分が言ったことの意味に気づいたらしい。
壱樹に悪気がないのはわかってるし、良い意味でも悪い意味でも遠慮のない幼馴染関係を築いてきているからこそ、思わず飛び出した言葉だとも私はわかってる。親孝行なのも壱樹の良いところだと思うけど、私だって結婚するなら心の底から好きな人とがいいんだよ。乙女なんですよ、これでも。
「私だって、なかなか帰ってこない旦那なんて嫌だよ。それに、壱樹は私ならおばさんと仲良いから平気だろう、って余裕で半年放置とかしそうですごく嫌」
「いや流石にそこまで薄情じゃないけど、……悪かった。なんかマジで俺、何考えてんだろうな」
その苦笑がなんだか疲れ気味で、ちょっとだけかわいそうになった。本気で勉強が大変なのかもしれない。
変な空気を払拭するように、私は大きく溜め息をついて腰に手を当てた。
「いいよ、もう。壱樹の脳みそが溶けてた、って思うことにする。あとでちゃんと冷やし固めておきなよ?」
一度崩れた豆腐がもとに戻るかどうかは知らないけど。
そう言ってから、壱樹のところまで歩み寄る。背中を押して自転車に跨らせると、私も荷台に座り直した。ちゃっちゃと買い物を終わらせねば、母上にまたどやされる。そして悪者はまた私。私の味方はどこ!
「――でも俺は……、おふくろのことだけじゃなくて、むつが家で待っててくれたら本当に安心すると思ったんだ」
漕ぎ出す直前、壱樹が呟いた声は耳に届いたけれど、聞こえなかったフリをした。
背中に感じる壱樹の鼓動が少し早い気がする。……ついでに私のも。
冷静に話してる風に装いながら、壱樹も私も実は緊張していたのかと思ったら笑えたけど、笑えなかった。
小さい頃から一緒に過ごしていた私たちには暗黙のルールがある。暗黙だけど、きっとそれぞれの中では明確なルールだ。二人とも口に出したことはないけど、お互いに自然と測りながら築き上げた距離感も存在する。
それを壊してしまうには、私たちは年齢を重ねすぎたように思う。大げさかもしれないけど、小さい頃から成人まで、って結構な長さなんだよ。
兄妹みたいな関係を新しく崩して構築し直すのは、正直、清水の舞台から飛び降りる程度には勇気がいるはずだ。――あるいは、今の壱樹以上に疲れて壊れている必要があるかもしれない。
「……ねえ」
「……んー?」
背中を伝って返るぼんやりした声に、私は一拍置いてから口を開いた。
「壱樹さ、勉強きついなら、無理に弁護士目指さなくてもいいんじゃない?」
出てきた言葉は、何だか言おうとしたこととは違ったような気もしたけれど、これでいいのかもしれない。
「おー、なんでだー?」
「……だって、弁護士なんて本気で大変そう。おばさんだって、壱樹が無理した結果に楽させてもらっても、あんまり喜べないんじゃない?」
「……そうだなー」
「法学部進んだって、法律関係の仕事に就く人なんて一握りだって聞くし。それに、法学部出るだけでも、ちゃんと安定した就職先は見つかるんじゃないの」
「……まあ、そうなんだよな」
「壱樹が無理しなければ、おばさんだって幸せだし、未来の奥さんだって幸せだよ、きっと」
「…………うん」
壱樹は優しい。ちゃんとわかってる。
仕事が忙しくても、実際にお嫁さんが来たら放置なんてしないだろうし、おばさんの面倒だって任せっきりには絶対しないと思う。でもそうなると、壱樹がいっぱいいっぱいになるのは目に見えてる。
一度決めたことは曲げない、っていう、お父さんの影響をありありと受けている壱樹が、一度決めた進路を変更するのは気持ち的に厳しいかもしれない。
でも、壱樹が身体を壊したら、おばさんはもっと精神的に辛い思いをするはずだ。
だから、本気で進路の再検討をしてほしいと思った。
――あと、疲れ過ぎで壊れて、これ以上おかしなことを言い出さないためにも。




