冬の夜の底 2 +エピローグ
手が震えた。
紙束を持っていられなくなって、私はそれを封筒に重ねて置いた。
拳を握りしめた。叫びだしそうだった。
堅く握りしめて、こぼれそうな嗚咽をこらえた。
『なんだ、荘介か』
『嫌でも覚えるよ』
彼女の言葉がぐるぐると脳裡で回る。
彼女は、私のことをまっすぐ見ていた。私が何者か、私以上に知ろうとしていた。
『予想通りだ。荘介はそれでいいと私も思う』
私が彼女の本当の姿に少しでも気がつき始めたのがあの九月の夕方だったというなら、彼女はもっとずっと前から私のことを見ていた。
なぜ私はあの人のことをもっと知ろうとしなかったのだろう。
手がかりも機会も、確かにあったはずなのに。彼女の言葉を逃さず聞いていれば。彼女の行動をまっすぐに見ていれば。
『未完の大作は耐え難い。だから私は詩なんだ』
彼女は自分の高校生活が残り少ないことを知っていた。さらにその先の保証なんかないことを自覚していた。だから、の意味はそこにあったのだ。
『長いのでも怖がらずに書けよ。……私には無理なんだ』
あの時の暗い横顔。
無自覚な自分がどれほど無神経な対応をしたか。
保証なんて本当は誰にもない。けれど私は、自分の高校生活が続き、卒業し、どこであれどこか大学に通って、就職して、そんな未来を当たり前のように思い描き、期待していた。自分にも、他人にも。
それは、何と残酷なことだろうか。
『道半ばで私が書けなくなれば、私が書くはずだったものは永遠に存在できなくなる。そう思うと、叫びだしたいほど恐ろしくなる』
彼女には、おそらく身体のどこかの痛みを耐え、あるいはしゃがみこみたいような倦怠感に耐えて、何でもないような顔をして、必死に背筋を伸ばしている瞬間があったはずなのだ。あるいは、どうしようもない苦痛を抱えて、独りどこかに身を隠して、必死にこらえて、ただひたすらそれが過ぎ去るまで待っていたときが。その苦しさは、ただの痛みの発作ではない。自分の存在が消えてしまう恐怖に裏打ちされていた。
そんなことがなければ、あの決まりを破るのを良しとしない人が、遅刻なんかするはずがなかっただろう。
私は彼女のその必死に自らの誇りを保っていた態度を、彼女の傲岸不遜だと決めつけていた。
『やだよ。重いから置いてきたんだ』
あの日彼女はなかなかバッグを持とうとしなかった。歳時記にオノマトペ辞典に類語辞典。どうしても持ち歩きたい彼女の相棒だったはずだ。そんな安易に置いてこようとしたわけがない。
歩くときもバッグの重みに引っ張られてふらふらしていた。あのとききっと、もう、体調がかなり悪かったのだろう。絶対にそのことを私に見せようとはしなかったけれど。
名女優すぎる。そんな才能まで、神様にもらわなくてよかったのに。
彼女が私にあの日最後に言った言葉がよみがえって、私の喉に灼けつくような後悔がこみ上げた。涙を止められなかった。
『荘介! バッグ、ありがとう!』
確かに彼女はそう言った。何もできなかった私に、明るく手を振って。
ありがとう、と。
私は机に向かっていられなくなって、ベッドに突っ伏した。枕を力任せに殴った。押し殺した嗚咽は止まらなかった。
ただ悔しかった。情けない自分が腹立たしかった。
こんなことなら、彼女に直接言いたいことはたくさんあった。聞きたいことも、知りたいことも。
何度も何度も、枕やマットレスを殴り続けた。
こんなのはずるい。ありがとうの言い逃げなんて、許さない。
「この借りは必ず返すからな」
私は冬の夜の底、一番暗い明け方直前の部屋の中で、独り、宿敵に誓うように、低く呟いた。
この借りは必ず返す。お茶の貸しも、必ず落とし前をつけてもらう。だから、戻ってこい。鈴本絹野。
◇
心の中を荒れ狂った嵐が、使い果たされた体力を道連れに、私の奥底深くに沈んだ頃には、細く開いたカーテンの隙間からのぞく冬の夜空が、漆黒から濃紺へと、わずかに明るくなりかかっていた。
私はのろのろと机に向かい、彼女の書き込みでいっぱいの原稿を取り上げた。今はまだゆっくり向かい合う気持ちにはなれなかったし、家族にも絶対に見せたくなかった。これは、私だけのものだ。
封筒に入れて、鍵のかかる引き出しにしまおうと思った。だが、紙束を封筒に納めようとすると、途中までは入るのに、何かにひっかかったようにうまく収まらない。
怪訝に思って私は紙束を取り出すと、封筒の中をのぞき込んだ。
手の中の紙束とはサイズも紙質も違う、一回り小さいカードのようなものが入っていた。パステル画などに使う、はがきより二回りくらい大きいサイズのザラザラした厚紙だった。私はデスクの上で封筒を逆さまにしてカードを出した。ひらりと木製の天面に落ちたそれには、また、あの見慣れた字が並んでいた。
詩だった。
◇
『角灯の旅路
独りこの道を行こう
わたしにはこの角灯がある
プロメテウスの灯り、
あの部屋の昼なお消えぬ、
静かに強くかがやきつづける
太陽のごとき行灯から
分けとったこの灯りがあるのだから
深い森の木下闇も、霧たち込める底知れぬ沼も
わたしの足を止めることはないだろう
越えていった先にある太陽のその明かりが
この足下を照らしてくれるかぎり
わたしが闇の中、すべて忘れかけても
この角灯がいつも思い出させてくれる
いつも光が灯っていたあの部屋の明るさを
果たされていない約束を
すくい取れなかった言葉を
終わらない季節を
歩めわたし、ただひたすら』
◇
『雅号のひとつもいるだろう。昼行灯はどうだ』
彼女の声が、耳元で蘇る。
「鈴本先輩、これはない」
私は泣き笑いになった。
韻も踏めていないし、いつものクリスタルみたいな澄んだ切れ味がない。
いつもの彼女らしくない詩だ。
感情がむき出しで、どこか不器用で、素朴で、暖かい。
カードを裏返すと、詩の言葉より小さな字で、メッセージが書いてあった。
『昼行灯へ。誰かひとりの受け手を想定して詩を書くのは初めてだ。初めてのことをして、うまく行かないのは当然かもしれない。こんな質のものをどうかと思うけれど、これはおまえにやる。他のどこにも出す気はない。返品は無用だ。
神様に一つだけ願い事を聞いてもらえるなら、病気を治してほしいと言うだろうと、ずっと思っていた。でも、お前と話して少し気が変わった。最高の作品を、いつか書きたい。それから、私の大事な人たちの最高の作品を、いつか読みたい。私はそのための時間がほしい。きっと、そう頼むだろうと思う』
最後に、少し行間を開けて書いてあった。
『絹雲 これからはこう名乗る』
彼女は今まで発表した作品では、本名そのままを雅号、俳号として『絹野』で通してきたはずだ。なぜ今、雅号を?
私は思い当たった。あの日のやりとりだ。
『絹雲だ』
子どものように空を指さした横顔が思い浮かぶ。あのとき自分は何と答えた?
『先輩の雲ですね』
今度は静かに涙があふれた。静かだったが、なかなか収まらなかった。
今、どこにいるのか。彼女の魂は、どんな暗闇の中を歩いているんだろうか。
たった一声、呼んでくれたら、どこにだって行くのに。
鈴本絹野。
ただひたすら、会いたかった。
◇
私が昼行灯というペンネームで、文芸投稿サイトに登録したのはそのしばらく後だった。部の人間にも、桝田先輩にも、そのことは言わなかった。
思いついた内容を、少しずつ書きためている。行き詰まってしばらく離れたり、一度発表したものに大幅に手を入れたり、悪戦苦闘しているけれど、大学に進学した今も、コツコツと発表を続けている。
彼女はきっと、地球上のどこかでこれを見ているはずだ。石にかじり付いてでも、連載は見届ける、といったのだから。
携帯電話の番号は、ずっと変えていない。知らない番号からの着信でも必ず出るので、セールスなどの怪しい電話への対応がかなりうまくなった。
私は今でも、彼女を待ち続けている。
もう一度会えたら、まず、彼女のことをもっと知りたい。彼女の話を聞きたい。私からも、もっと話したいことがたくさんある。
ペットボトルのお茶一本分では、とても時間が足りなさそうだ。














