コーンポタージュとコーヒー 3
桝田先輩は、コーヒーの水面を見つめたまま、淡々と話をつづけた。
「九月、たぶんおまえと鈴本が偶然会って話をした頃から、一度は薬で安定していたあいつの体調がどんどん悪くなった。もともと、いいときと悪いときの波はあって、電車の中で気分が悪くなって途中下車したせいで遅刻したり、どうにも保たなくて早退したりということはあったが、その体調不良の頻度が日増しに増えてきていた。詳しくは言わないんだが、関節がひどく痛んだり、全身がだるくて力が入らなかったりするらしい。熱がでて、夜もうなされてろくに眠れない日もあったようだ」
あの遅刻や早退は、そういう事情で発生していたのか。言われてみるまで、その可能性を全く考えてみなかった自分に驚いた。ただ何となく、とか、気が向かなくて、とか、漠然とそんな理由しか想像していなかった。
「お母さんは心配して、休めとか車で送り迎えをするとか言ったらしいんだが、あいつは全部突っぱねたんだそうだ。文化祭までは普通に登校したい、と。だからやっぱり、あいつは、高校というより、文芸部にこだわっていたんだと思う。
でも、今までの薬ではもう全く症状を抑えきれなくなって、時期を早めて主治医を受診したところ、東京の、その病気の治療の第一人者がいる大きな病院への転院を強く薦められたんだそうだ。あの日の後、わりとすぐの日程で、その東京の病院に予約が入っていたんだ。
あいつは、すごく嫌がってた。直感で、大きい病院に行けば、即入院になって、帰ってこられないというのがわかっていたんだと思う。冗談めかして、でも目は結構本気で、文化祭まで家出しようかとか言っていたこともあった」
桝田先輩はため息をついたが、続けた。私は呼吸すらもひそやかに、うなずくだけでじっと聞いていた。
「でも、治療方針や、実はその前の本の出版に絡んで、あいつの親父さんとお母さんの間にも修復できないこじれができていた。お母さんはあいつのことを心配してどうしても受診させたがっていたし、親父さんは、あいつの印税でちょっとおかしくなってしまって、病気なんか大したことはないと言って、もっと書かせようとしていたんだ。あいつの体調が悪くなるのにつれて、ご両親の対立もどんどん深刻になっていった。あいつはその間に挟まれて、散々悩んでいたけれど、結局お母さんの心労を思いやって、受診する方を選択したんだ。お母さんは、あいつが入院してから程なく、東京の、病院の近くに引っ越した。その後、ご両親の離婚は完全に成立したらしいとつい先日うちの母が言っていた。
あいつは、たぶん内心では無理だとわかっていながら、東京の病院で、文化祭まではどうしても今の高校に通いたい、と医師に相談してみると言っていた。戻ってくるつもりなんだから、別れの挨拶なんかしたくない、というわけだ。オレは、それに反対だった。世話になった担任と渡井にくらいちゃんと自分で話をしろとずっと言っていたんだが、平行線だった。
目を離すなと頼んだのは、誰も気がつかないようなところで症状が悪化して倒れたりするとまずい、という深刻な心配があったからだ。あいつは結構限界まで平気な顔で我慢してたりするから。駅まで来れば、さすがに人目があるから大丈夫だろうと思ったし、あいつのお母さんにはオレから連絡して地元の駅までは迎えに来てもらうことになっていた。
あのとき鈴本が電話を代わったんで、東京から一度戻ってくるつもりにしても、いい機会なんだからせめて渡井には自分から話をしろと言ったんだ。鈴本はあっさり一蹴した。それで、何をびびってるか知らないがとにかく受診からは逃げるな、ちゃんと家に帰ってお母さんを安心させろよ、と言ったと思う」
その返答が『脱走はしないよ』だったわけか。
なにが、ちょっと東京に行く用があって、出版社の人に会ったりとか色々なんだけど、だ。格好付けて。
だが、腹立ちは全く生じてこず、ただただ悲しかった。
私はあのときの鈴本先輩の言葉を思い返していた。桝田先輩の話を聞けば、思い当たることは山ほどあった。たしかにあの晴れた日、鈴本先輩の様子はおかしかった。
私は、恐れていた、でも、聞かずには決して帰れない質問を、口に出した。
「鈴本先輩の病気は、どのくらいで治るんですか。時間はかかるかもしれないけれど、元気に退院するんですよね?」
桝田先輩は口をぐっと引き結んだ。何と返事しようか考えている風だった。その間自体がすでに悪い知らせだったと言っていい。
「さっき言ったとおり、オレも病名は知らない。ただ、治るか治らないかで言えば治療法が見つかっていない、現時点では治らない病気だそうだ。どうコントロールして、日常生活に戻れるか、という話だと聞いた。今適用になっているのはまだあまり洗練されていない薬だけで、副作用や体への負担が大きいらしい。それでも症状のコントロールがうまく行けば、通院と服薬を続けなければいけないけれど、それ以外はほぼ他の人と変わらない生活が送れるそうだ。ただ、はっきり言われたそうだが、うまく行かないと、そう長くは生きられないと。個人差が大きいらしい。でも、オレ自身は、あいつはちゃんとコントロールできるようになって帰ってくると信じているし、あいつもそのつもりで東京に行った。必ず、あいつらしい顔で退院してくるはずだ。将来的には、あいつが今使える薬を使ってがんばっているうちに、もっといい治療法が確立することだってきっとあるはずだ」
後半は祈るような言い方だった。私も、同じ祈りを込めてうなずいた。
「貸しがあるんです。今度会ったときに返してもらう予定ですから、元気に戻ってきてくれなくちゃ困ります」
「貸し?」
怪訝な顔で問い返された。
「市村とやり合った日、私が二人分のペットボトルのお茶を買ったんです。鈴本先輩、ちょうど小銭がなくて。私は別にいいって言ったんですけど、先輩本人が、この借りは必ず返すって言ったんですよ。それで、今度の時は、先輩にお茶を買ってもらう約束なんです」
「マジか」
桝田先輩は、今日会ってはじめて、屈託ない顔で笑った。
「鈴本におごったやつも、おごらせる約束したやつも、オレは初めて見た。やっぱ渡井すごいよ。マジで変人だ」
それから、少し考え込んでいるようだった。
「たぶん、あいつも部のグループメッセでおまえの連絡先のアカウントは把握していると思うんだが、ああいうアカウントは不本意なアクシデントで変えざるを得ないこともあるだろう。携帯の番号だったらもっと変わりにくいと思うから、メモにでも書いてやってくれないか」
「わかりました」
私はうなずいて、脇に置いていたリュックサックからルーズリーフを一枚取り出した。電話番号と名前、メールアドレスを書いて、それだけではあまりに余白が大きかったので、『今度会ったときは先輩がお茶買ってくれる約束でしたよ。連絡お待ちしてます』と書き込んだ。
「いろいろやっかいに巻き込んですまなかったな」
ルーズリーフを受け取りながら、桝田先輩は小さくため息をついた。
「桝田先輩に謝ってもらうようなことは何一つないです。先輩こそ大変な時期に、時間を割いてくださってありがとうございました。
……話は違うんですけど、国公立はどこを受けるのか聞いてもいいですか」
先輩は関西の大学を挙げた。私は少し驚いた。
「東京じゃないんですか?」
鈴本先輩も東京にいるし、漠然と、桝田先輩は東京に行くだろうと思い込んでいたからだ。先輩の挙げた大学名は、さすがというべきか、国立の中では東の雄、西の雄と称されるその西の方だった。私にはいずれにせよ雲の上すぎる偏差値で、どちらがどうと、まじめに比べてみたことなどなかったが。
「学風が絶対あっちの方が肌が合うというか。自由でおもしろそうだと思っているんだ。鈴本は今年は受けないけど、あいつも選ぶなら東京よりあっちだろうな。
あいつは、オレにも絶対弱音は吐かない。今連絡を絶っているということは、今はあいつはひとりで頑張る時期だと決めているんだと思う。だから、オレは自分のことをちゃんとやるしかない。あいつが戻ってきたときに、なんだこんなもんかと思われたら悔しいにもほどがある」
たった一つしか違わないのに、桝田先輩も鈴本先輩も、私からは手の届かないほど大人に見えた。勉強ができるとかそういうことは関係なく、覚悟が違うと感じた。
私は、テーブルの上に置かれていた封筒を手に取った。
私はこれを開ける覚悟があるだろうか。
桝田先輩は立ち上がった。
「こちらこそ、時間をくれてありがとう。渡井が何も知らない状態のままだったら、利用するだけ利用して騙したような後味の悪さで、二次の勉強も身が入らなかっただろう。オレは伝えるべきことは伝えたと思う。そう思えるチャンスをもらえて感謝している。
もっとも、後味という意味では、こんな話を聞かされて考えてしまうことが渡井にとってはよけい迷惑だったかもしれないが」
「やめてください」
思いがけず強い声が出た。私も立ち上がった。
「聞かせていただいて、感謝しています。受験、頑張ってください」
目があった。深くうなずいて、それからは何もいわずに、彼は立ち去った。














