コーンポタージュとコーヒー 1
文化祭が終わってしまえば、三年生はセンター試験まで後ほんの一月余りしかない。
ほとんどの三年生にとっては、文化祭は本格的に追い込みの時期に入った受験勉強の合間の息抜きとして少し顔を出すだけのイベントだった。その時間さえ惜しいと、直前準備から直後の代休、片付け日まで一週間近く授業が休みになる期間を活用して、自宅や塾の自習室にこもり、不足していた勉強を集中して一気に補ったり進めたりする人も少なくなかった。
そもそも、桝田先輩や鈴本先輩のように二学期に入ってからも部活にこまめに顔を出している三年生の方が珍しかったのである。
もちろん、桝田先輩は受験勉強をないがしろにしていたわけでは全くなかった。つねに学年でもトップクラスの成績を誇り、うちの高校からは毎年片手で足りるほどしか合格者が出ない、国立の中でも最難関の大学のいずれかを受験するだろうと言われていた。
桝田先輩の有能さをもってすれば、部活と並行して着々と受験の準備を進めていたことは想像に難くないが、やはり文化祭が終わってからの桝田先輩は忙しそうだった。私は遠目に見るだけだったが、いつもせかせかと早足で歩いたり、何かの参考書を読んでいたりした。
国立大の受験生にとって、センター試験は重要ではあるが通過点にすぎない。トップレベルの大学であればあるほど、センター試験の比重は下がり、大学ごとに行われる二次試験が重要になるからだ。
なので、センター試験が終わった直後、三年生が自由登校に切り替わる時期に、桝田先輩から連絡が来たのには驚いた。
センター試験の自己採点結果を学校に報告し、最終的に出願する大学を決める、最後の公式進路指導が個別に設定される時期だった。話がある、と、桝田先輩が指定してきた日時は、おそらく先輩自身の進路指導面接の後だったのだろう。待ち合わせ場所である駅前のファーストフード店に、先輩は少し遅れてやってきた。
「すまない。前の面接が長引いたもので、しわ寄せを食らった」
窓際の二人掛けについて待っていた私を見つけると、ホットコーヒーをテーブルに置いて、目の前に座った先輩は開口一番そう謝った。
「構いませんよ。それより、話って? 部活のことですか」
「最近どうだ?」
「悪くないです。先輩が提案してくれた、投稿サイトに登録して発表した作品を部のミーティングにもってきて検討する試み、新入生が来る前に、と一年生中心に試してみているんです。アクセス数なんかも見て、どういうものが読まれるのか話し合ったりするんですけど、やっぱり外部評価が返ってくるのってまた気分が違いますね。上村さんなんか、好みが分かれる作風ですから、今まで周りからは評価が難しかったんですけど、ああいう場では映えます」
「そうか。確実に潮流の一つではあるから無視はできないよな。そればかりに引きずられても、本質を見失ったり必要以上に気分が左右されてしまったりする事はあるだろうけど」
「今まで通りのスタイルと並行してやって、部員自身がどちらで行くか、本人の好みなり、作品に応じてなりで、選べるのがいいかもしれませんね」
鈴本先輩がここにいたら何と言うだろう。あの冷たく澄んだ眼差しで、アクセス数や評価ポイントなんかに左右されるのはくだらない、と言っただろうか。
だが、桝田先輩に私から彼女の話題を切り出すのはなんとなく抵抗があった。
桝田先輩もおそらく、同じ人物のことを考えていたのだろう、一つため息をつくと話題を変えた。
「今日わざわざ時間をもらったのは、その話ではないんだ」
「何でしょうか」
「預かったものを渡さなくてはならなくて」
先輩は、いすの背もたれのところにおいていた通学用のリュックサックから、厚みのある大型の茶封筒を取り出した。A4サイズが折らずに収められる、角二号と呼ばれる大きさのものだ。
「センターの直前、メール便でうちに送られてきた。オレ宛のものの他に、この封筒が入っていた」
先輩はテーブルが濡れていないのを確認して、そっと置いた。
目の前の光景に、私の心臓が喉から飛び出るかと思うほど大きく鼓動した。
見間違えようのない、あの几帳面で整った筆跡だった。〈鈴本フォント〉。
『渡井荘介様』
封筒の表に、ただそれだけ書いてあった。
信じられない思いで、私は封筒と桝田先輩の顔を交互に見た。
先輩はうなずいた。
「鈴本からだ」
言わずもがなのことだと思ったのに、改めて桝田先輩の口から実際に発せられたその音は、拳で打ち込まれたように私の腹にずしっと響いた。
「桝田先輩。鈴本先輩は何があったんですか。私が話したときには、来週、ちょっと東京に行ってくる、くらいの調子だったんです」
聞くまいと思って今までこらえていた質問が、思わずこぼれた。
桝田先輩は一瞬、ひどくつらそうな顔をして、それから深く息をついた。
「当然の疑問だよ。よく今まで聞かなかった。オレに気を遣ってくれていたんだろう? あと、言わなかった鈴本に」
それだけではなかったような気もしたけれど、うなずいた。
「この話は、他の人間には内密にしてほしい。市村にも、誰にもだ。
話さないで行ったことで、オレはずいぶん鈴本とやり合った。オレは最低限、伝えるべき相手がいるはずだと言ったんだが、あいつはなかなか納得しなかった。
今はほとんど連絡は取れない。あいつの気が向いたら返事が来るけれど、基本は返ってこない。
でも、渡井に鈴本について話をする許可だけは、一昨日、取ったんだ」
センター試験が終わった日の夜だ。
「鈴本とは、幼稚園からずっと同じ園、学校に所属してきた腐れ縁だ。母親同士が仲がいいこともあって、割と近い距離関係で今までやって来た。
そのせいで、他の人が聞かないような話も、オレのところには回ってくるんだ。鈴本自身から聞いた話と、他から聞いた話も多少混ざっているのは承知の上で聞いてほしい」
「はい」
「鈴本は病気だ。今は東京の病院に入院している」
ぐらりと足元が揺れるような感覚におそわれて、私はテーブルの上に置いていた手を拳に握りしめた。周囲の喧噪が知らないうちに遠ざかり、私の耳には桝田先輩の声だけが響いていた。
「入院? でも、転校って言ったじゃないですか。何の病気なんですか?」
「病名は、本人が母親にも堅く口止めをしているので、オレも知らないんだ。転校は嘘じゃない。入院先からも通える通信制に編入した。最初から入院が長期になることがほぼ確定していて、ここに戻ってきて卒業するのが難しい状況だったらしい。その辺も本人が言いたがらないからよくわからない」
桝田先輩はため息を一つついて、コーヒーを飲んだ。私の目の前のコーンポタージュはすっかり冷めていたけれど、手を付ける気にはなれなかった。
「いきなりこんな話をされても、渡井も困るよな。順を追って話してみる。それで、わからないことがあったら聞いてくれ。答えられることは答えるから」














