プロローグ
夕闇に沈んだ町で私の横を歩いていた横顔を、よく思い出す。
街灯が照らす彼女の頬は、色味が消えてぼうっと青白い。
母校の、古風で地味な紺色のブレザーをかっちり着こんだ彼女の肩あたりで、折からの北風にあおられた黒髪がふわりと踊る。
風の底にほのかに漂っていた、気の早いサザンカの甘い香りまで覚えている。
彼女は呟くように言う。
「もしも、願い事が一つだけ叶うとしたら、どうする?」
私はその問いを本気にしなかった。
「志望校合格ですかね」
進学校の高二が当たり前に言いそうなことだ。
彼女はふんと呆れたように鼻を鳴らす。
「陳腐なこと言うな。そんなもの、神頼みしてないで自分でやれよ。どうせ神様に頼むんだ。もっと大きく出ろよ」
「じゃあ、世界平和」
「平和の定義は一意じゃない。誰にとってのどんな平和かを定義するだけで何百年かかると思ってるんだ。そんなの何も願ってないのと同じことだろう。雑なやつだな。もっとこう、切実なやつはないのか」
「難しいこと言いますね」
私が悩んでいると、彼女は楽しそうに笑う。
「いつチャンスが巡ってくるかわからないだろう。こういうことは考えておかなきゃだめなんだ」
「先輩は決まってるんですか」
私が反問すると、彼女はうなずく。
「とっておきのやつがある」
「何ですか?」
「秘密。……あ、下りの電車、後、十分ないぞ」
「うわ、マジだ」
「ほら、走れよ荘介! もっとスピードあげて!」
彼女が声を上げて笑う。このとき、ほとんどはじめて、こんな屈託ない笑い声を聞いたのだ。
「二人分のバッグですよ。無茶言わないでください」
彼女のスポーツボストンと自分のリュックサックが肩に食い込む。ぼやきながらも小走りになると、次第に手ぶらのはずの彼女の方が遅れていく。
「……先輩どんだけ運動神経ないんですか。足、遅っ」
からかうと、ちょっとふくれっ面になる。かわいい、と思って、そう思った自分にどぎまぎする。ああもう、この人がこのペースなら、絶対、次の電車は間に合わない。三十分待ち、確定だ。
「無理ですよ、次のは」
彼女は少しあがった息の下でくすくす笑う。
「いいんだ。私のは二十分後だから、ちょうどいいくらいにつくはずだ」
彼女は上り線、私は下り線なのだ。
「ずるい! そんなのありですか」
私が抗議すると、彼女は腰に手を当ててわざとのように憤慨してみせる。
「私だって、やればできるからな」
そう言って、不意に走り出す。やっぱりふわふわした変な走り方だが、先ほどまでよりもよほど真剣だ。今度は私がおいていかれないように必死に走る番だ。
最初にねらっていた下り線に間に合うくらいの時間に、奇跡的に改札を通り抜ける。上り線のエスカレーターの下で彼女にバッグを返すと、私は自分のホームの階段を一段とばしで駆け上がる。
電車は辛うじてまだ来ていない。けれどもう、轟音が遠くから近づいてくる。
私から少し遅れて、線路を挟んだ向かい側のホーム、エスカレーターの出口から彼女が出てくるのが見える。彼女はこちらをみる。私をすぐに見つけて、大きな笑顔が浮かぶ。
私の記憶に焼き付いて離れないのは、あの笑顔の鈴本先輩だ。














