第100話 氷室に過ぎる記憶の欠片
「美雨からいただいたお茶はとてもおいしいです。こんなおいしいお茶を飲めるなんて私は果報者です」
「あら、私からって言ってもお茶を淹れたのは野乃よ」
「たとえ侍女の方がお茶を淹れたのだとしても美雨のその可愛く美しい顔を見て飲むからこそこのお茶はこんなにもおいしいのですよ」
「……っ!」
氷室の誉め言葉に美雨の頬が朱に染まる。
そんな美雨の様子を満足そうに眺めながら氷室は再びお茶のカップを口に運んだ。
海芳丸の視察から帰って来ると美雨から案内してくれたお礼にお茶を飲んで行って欲しいと言われ氷室は喜んでそのお誘いを受けた。
自分の美雨への恋心を認識した氷室にとって少しでも長く美雨と過ごせる時間はなによりも嬉しい。
そして今、二人でソファに並んでお茶を飲んでいるのである。
たとえ部屋の中に侍女がいて完全に二人きりではないとしても氷室は気にしない。
ただ愛しい美雨の姿を自分の瞳に映すだけで幸せを感じるのだから。
それに女王候補者は正式に結婚するまで純潔が求められる。
侍女がいることで美雨の純潔を証明できるのならいくらでも侍女がそばにいてくれてかまわない。
美雨の嫌がることは氷室だって基本的にしたくはないし美雨が女王になってくれなければ氷室とも結婚できないのが現実。
つまり美雨の愛が欲しいと願うならば美雨を必ず女王にする必要があるということ。
そのために女王候補者に求められる「純潔」という資格を氷室の欲望で奪うわけにはいかないのだ。
(本心を言うなら美雨を閉じ込めて滅茶苦茶になるまで愛して愛して私に溺れさせて美雨が私だけをその美しい海の宝石のような瞳に映してくれればこれ以上の幸せはないのですが……)
氷室は優雅な所作でお茶を飲みながら薄らと人の悪い笑みを浮かべるがすぐにその表情を消す。
こんな自分の汚れた欲望に満ちた本心を存在そのものが清らかな美雨に知られたら彼女はきっと自分を嫌悪するだろう。
美雨に嫌われるなど考えたくもない。自分の醜い欲望は絶対に彼女に隠し通さなければならない。
氷室がそんな不穏な想いを抱いているなど知らない美雨は無邪気な笑顔で氷室に焼き菓子を勧めてくる。
「この焼き菓子もおいしいですよ、氷室。野乃が水の都に来る前に立ち寄った町で買ったんです。日持ちもするし旅のお供にとても良い焼き菓子でした。食べてみてください」
美雨が勧めてきた焼き菓子は水族ではありふれた菓子だ。
子供の頃、氷室も何度も食べたもの。
なのに愛しい女が笑顔で「食べてみて」と言うだけでその焼き菓子が特別なものに見えてくるから不思議なものだ。
「そうですね。とてもおいしそうです。では美雨にさっそく責任を取ってもらいましょうか」
「……え?」
氷室の言葉の意味が分からずキョトンとした表情の彼女も愛らしい。
強く自制しなければ美雨を女王にすることを忘れてこのままソファに押し倒してしまいそうだ。
自分を落ち着かせるため美雨に気づかれないように小さく息を吐き出したあと氷室はそっと隣りに座る美雨の耳元に唇を寄せて囁く。
「先程、男の涙を見た責任を取ってくださいと言いましたよね。ですからこの焼き菓子を美雨の手で私に食べさせてください」
「……っ!」
美雨が羞恥心で耳まで赤くしていくのを見て氷室はとてつもない幸福感を得る。
自分の言葉で恥ずかしがる彼女の可愛らしさはもはや言葉に言い表すことができないほどだ。
(女とはこんなにも可愛く愛しいものでしたでしょうか……いえ、違いますね……美雨が特別なだけです……)
少年時代から氷室の美貌と地位を目当てに数多の女たちが氷室に近付いてきたが女を愛しいと一度も思ったことはない。
美雨だから愛しい。彼女だから自分のモノにしたい。
自分の恋心を自覚してからまだ時間が経っていないのに自分が美雨という海の中で深く溺れていくのを止められない。
(我ながら自分がこんな人間だとは思いませんでした……でも後悔の気持ちなど微塵もありません……)
美雨に恋した自分を氷室はおかしいとは思わない。
むしろ彼女に恋しない男の方が異常だとさえ思ってしまう。
その時、ふと氷室の頭に何かが過る。
『フフ、相変わらずねえ、貴方は……そんな貴方だから私は…………のよ』
『君のためなら私は………と思ったんです』
一瞬だけ浮かんだ誰かとの会話。その声にもそれが誰かなのかも記憶にない。
なのに懐かしく心がギュッと締め付けられるような愛しい感情に氷室は支配された。
「ひ、氷室……い、一度だけですからね……」
美雨の声で氷室はハッと我に返る。
目の前には恥ずかしそうに焼き菓子を手にして氷室に差し出す美雨の姿がある。
(今のは……?)
思い出そうとしてももう先程自分の頭に浮かんだ何かを思い出すことができない。
とても気になるがそれよりも今は目の前の愛しい女の方が重要だ。
「では失礼して、いただきます…あ~ん」
美雨の差し出した焼き菓子に氷室は噛りつく。
すると美雨が氷室の瞳を覗き込むように尋ねてきた。
「どうですか? 氷室のお口に合いましたか?」
「ええ。美雨の手から食べると美雨の味がしておいしいです」
「わ、私は、味なんてしません!」
慌てて手を引っ込めた美雨は氷室の言葉を否定する。
そして恥ずかしさを誤魔化すためか美雨は自分のお茶のカップに手を伸ばしそれを飲むことで氷室から視線を逸らした。
(本当のことなんですけどね……美雨は食べたらきっとどの部分もおいしいはずです。まあ、汚れのない彼女にはまだ男女の睦み合いについての話は早いですね。それにしても彼女から愛の言葉を得られていないのは不満です。美雨から愛の言葉をもらうにはやはり水の王配になるしかないのでしょうね)
正直、美雨と一緒にいられるということ以外で水の王配の地位に価値は見出すことができない氷室だ。
しかしそれこそが堂々と美雨のそばにいてもいいモノなのだ。
「怒らないでください、美雨。貴女に嫌われたくないのです」
「わ、私に嫌われたくないなら、変なこと言わないでくださいね!」
「はい。今後気をつけます。そして貴女のために私は水の王配になれるように努力いたします。だから私が水の王配に相応しい男になるまで待っていてください」
「……ひ、氷室……」
美雨はその瞳を大きく見開く。
氷室の言葉は遠回しに美雨に自分が水の王配に相応しい男になったら自分を水の王配に選んで欲しいと言ったのと同じなのだから。
僅かに戸惑いの表情を見せる美雨にニコリと氷室は極上の笑みを浮かべる。
(これも彼女の愛を得るためだと思えば苦には思いません。私は真剣に水の王配になることを目指します……)
氷室がそう心に決意した時に扉が開いた。
入って来たのは美雨の光の王配の光主だ。
(そうでした……この男は美雨からの愛を既にいただいているんでしたね……本当に腹立たしい男です……)
光主の出現に氷室の空色の瞳に氷の刃のような冷たい光が宿った。




