80.『覇者』
シェイドに遅れて、フェナリはアーミルと相対する場所へと足を踏み入れていた。そして、さあいざ戦わんと花刀を顕現させようとして――、首根っこを引き掴まれる形で、体勢を崩した。
「――な、っにが」
「おうよ、嬢ちゃん。ちょッとぶりじゃねェか」
「――グラルド卿! 冬眠はどうされたんです?」
「冬眠じゃねェ、がな。流石に緊急事態とありゃァ、アロンも俺を起こすッてわけだ。――んで、起こされてすぐに受けた命令ッてのが、嬢ちゃんを力づくで連れ戻せだッたと」
「え、ですけどちょっと――」
反論する間もなく、フェナリはグラルド卿に引っ張られ、アーミルとの戦場から離れさせられる。花刀を顕現させる直前だったのは、ある意味では僥倖だった。顕現させた後であれば、その制約のために戦わざるを得なかったのだから。
グラルド卿に引っ張られた先は、当然のようにアロンのところだった。騒ぎの中で、アロンの周囲だけは依然として静謐が保たれているかのように思えて、さしものフェナリも縮こまってしまいそうになる。
「アロン殿下、あのですね? 必要な時、私が前線に出るのも致し方ないと言いますか……」
「フェナリ嬢。当然のように約束を破って後衛どころか前線に単騎で突っ込んでいったことの責任追及は『今は』しないことにする。――ここは、騎士の戦場だ」
前半を呆れ気味に、そして最後の一言は誇らしげに言って、アロンは視線をアーミルへと向ける。先程までの対峙相手であったシェイドがフェルドに奪われ、その代わりに入ってくるはずだったフェナリはグラルド卿に奪われ、とそんなことを繰り返され、彼女の怒りというものも最高潮だった。
当然、彼女の怒りは触手の蠢動へと変換され、アロンらのところへと迫る。その攻撃対象は勿論のこと、周囲のあらゆるものを余波で消し飛ばすような一撃だ。並大抵の騎士であれば、その暴虐の前に立ち竦んでしまうかもしれない。
しかしそれを――、
「よ――ッと」
軽く斬り伏せるのはグラルド卿だ。騎士剣の一閃軽やかに、触手の群れがその中途で切り刻まれ、細切れになったそれらが地に散らばる。グラルド卿がそれを、あまりに軽やかにやってのけるのだから、周囲に集まりつつあった騎士や衛兵たちも一瞬呆けたように言葉を失い、そして――、
「二人一組だ! 近くのものと組を作れ!! ――悪魔を、ここで、討伐する!!!」
アロンの叫びに、食い気味な鬨の声が重なった。グラルド卿がアロンの指示に合わせて自分の騎士剣を振り抜き、アーミルへとその切っ先を向ける。
騎士団において、それは一つの合図だ。単純明快なその合図の持つ意味は唯一つ『あの敵を討滅せよ』――。
グラルド卿の騎士剣が向かう先へと、騎士たちが殺到する。アーミルの触手の猛攻を二人一組の慎重な攻勢で防ぎきり、攻撃へとつなげていく。
騎士たちは、叫ぶ。生命の叫びを上げるのだ。
◇◆◇◆◇
「――俺はこれで、お役目終了だな」
騎士たちがアーミルとの攻防を繰り広げている背後で、グラルド卿は騎士剣を鞘に納めて言った。
「ああ。感謝する、グラルド卿。騎士たちと衛兵たちの士気を上げるのに卿の存在はこれ以上なく適役だ」
本来なら、グラルド卿は眠り続け、可能な限り早くその体力を快復させる必要があった。それでも彼が起こされてきたのは当然、もしもの場合のための最後の手札としての意味もある。しかし、それ以上にアロンは、彼を着火剤に用いようと考えた。
結果は上々である。戦う者たちの士気に火を付ける役目を、グラルド卿は完璧にこなした。鬨の声を上げ、夜とは思えない覇気の声を闇夜に響かせる騎士たちには、格上の悪魔と戦う不安も恐怖も見えない。正しく、彼らこそが戦っているのだ。
「――アロン殿下……」
「自分も戦いたいなどというわけではないだろうな、フェナリ嬢。――ここで本当の万が一まで待機する。それを今回の約束破りの償いということにしておこう」
「……はい」
そこまで言われてしまえば、フェナリも強くは出られない。そして何よりも、フェナリには戦場に自らも舞い戻りたいという欲求はあれど、その必要性は感じていないのだ。
『騎士たちの戦場だ』と、先程のアロンは言った。本当に、その通りだとフェナリは思う。命の輝きを目の前で見せつけられているかのような高揚感がフェナリを覆い尽くす。胸を焼き焦がすかのような騎士たちの覇気の炎が、すぐそこで燃え盛っている。
――夜空を灯す星空は、綺麗だ。
それは、静かな輝きが、世界のすべての矮小なものを見下ろすその雄大さが、綺麗なのだ。
――騎士たちの戦うさまは、綺麗だ。
それは、眩いほどの闘志の輝きが、そして矮小であるにも関わらず、無慈悲なまでの強大さに立ち向かっているその覇道を進む精神が、綺麗なのだ。
――彼らを『覇者』と、そう言わずしてなんと呼ぶのか。それ以外に適切な呼び方を、誰も知らない。
◇
「傷ついたものは即撤退、救護班のところへ!! 犠牲を出すな! 包囲網に隙を作るな!!」
アロンの怒号とも言える叫びが響く。
騎士たちは、既に少なくない傷を負っていた。個々では決して届かない格上に立ち向かえているだけで、彼らにとっては上々の結果だ。指揮官であるアロンも、完全なる無傷でことを終わらせられるなどとは思っていない。既に、騎士団には大きな被害が齎されているのだ。アロンのしているのは、その被害をこれ以上拡大させないための行動である。
「――総員、距離を置け!! 広範囲魔術が来るぞ!!」
アロンの隣で、ファドルドが状況を見て叫ぶ。
騎士と衛兵、そしてアーミルの位置関係、更に加えて――親子の贔屓目をなしにしても、今この戦場で最も魔術の才を持つ男の準備が整った。
「父上ではなく王子殿下の命であれば、一足先に宮廷魔術師の感覚を味わえたものだが――我儘を言える状況でもあるまい!」
フェルドが、ファドルドには聞こえないようにして叫ぶ。近くにいたシェイドには聞こえたらしく、彼の表情には苦笑いが浮かんでいた。
しかし、文句を垂れたフェルドの放つ魔術の威力に、一切の翳りはなし。
「――雷轟せよ」
目に見えるほどの放電を繰り返し、空気中を凄まじい量の光の粒が伝播する。原理の解明されていない、魔術の一般属性の中における特異点、雷系統。それを、騎士たちが戦っている間に術式化した。
地面に刻まれた、大規模な魔法陣を介し、フェルドの魔力が周囲の空気を呑み込んで雷鳴となり、アーミルに迫る。
「――うるさい、眠い」
アーミルの触手が伸びる。その質量攻撃で相殺する心積もりだろうとフェルドは推測。当然、そんな単純な返しは想定済だ。だからこそ、雷系統の魔術にしたのだから。
伸ばされた紫の群れを、雷はその中さえも導線と認識し、更に奥へと迸る。光と同程度の速度で迫る防御不能の稲妻、そのまま、アーミルの中核までもがその雷轟に焼かれ――、
「うるさい、いらない――こんなの」
雷系統魔術の脅威を瞬時に看破し、アーミルは自らの触手を一気に切り落とした。伝播する雷電の対策としては最適解だ。それを咄嗟ながらに選択する辺り、想定されていたアーミルの凶悪性は間違っていなかったということだろう。
しかし、真に驚かれるべきはアーミルの判断力でも卓越した戦闘思考でもなく――。
「ここにいた魔術師の、先見の明をこそ――ッ!!」
叫んで、フェルドは周囲に魔力を放出する。魔術師としてある程度の才がなければそれは、単なる魔力の漏出にしか見えなかったかもしれない。しかし、当然ながらそんなはずもなく。
乱雑に見えて、しかしはっきりとした指向性のもとで、フェルドは魔力を伝播させる。周囲の空気へと、そう――構築済の術式へと。
刹那、目を灼くような光の束が、世界を覆い尽くした。先程の雷撃すらも凌ぐ密度で放たれた光弾の渦は、四方八方から曲線弾道を描き、アーミルへと殺到する。
事前に構築された術式、先程までここにいた、ムアが片手間に構築していた術式が、この付近にはいくつか忍ばされている。魔術に理解のあるものだけが気づくことのできる手札だ。当然、アーミルはその存在に気づくことができていなかった。
――完全な奇襲の成功。
それを確信して、フェルドは気の急いた快哉を上げる。騎士たちにも期待の声は伝播し、状況を見守る風潮が全員を呑み込んで、しかし彼らだけはその風潮に、真っ向から逆らって飛び出した。
気配が消えていない。全く、薄れるような予感がしない。
まだだ。まだ、終わっていない。それを一番に理解して、飛び出す。それぞれ、守るべき人を守るために。シェイドはフェルドを、グラルド卿はアロンを。それぞれが身を挺してでもと、気概を以て。
「――――っ」
シェイドの視界に不意に映ったのは、悍ましく膨れ上がった歪な眼球。目を逸らしてしまいそうなほどに気持ち悪く、胃液を無理やりに引っ張り上げるような異質感に、流石のシェイドも一歩後ずさる。およそ、天幕一つと同じほどの大きさまで膨れ上がった眼球の視線が、シェイドに向けられる。呪詛が体に叩きこまれるような錯覚だ。視線に射すくめられ、身体が動かなくなる。
パンッ、と――――。
弾けた。膨張の末に、弾けた。弾けた。はじけた。
そして、眼球に匿われるようにして、アーミルは倒れていた。
――先程の光弾が命中したのか? 致命傷だった?
いや、そんな簡単な帰結ではない。断じて、そんなはずがない。シェイドの本能が、『騎士術』で拡張した感覚が、警鐘を鳴らす。このままでは、いけないのだと何かが叫んでいる。
その瞬間、あまりにも大きすぎる気配がシェイドの体を撫ぜた。
柔らかいそれは、シェイドを――見逃した。
「――おはよ」
「ッ――伏せろォォォッ!!!」
二度目の暴虐が、世界を覆い尽くした。




