77.来たる天災
グラルド卿が天幕の方へと帰るのを見送って、フェナリもまた天幕へと帰ろうと岩から腰を浮かせる。他の騎士たちに混じって雑魚寝するわけにもいかず、適当な理由を付けてアロンが用意した個人用の小さな天幕である。本当なら野営地での一泊すら許可を出すのを出し渋ったであろうアロンだが、今から王都へとフェナリを送り返すことによって彼女の機嫌を損ねると同時に自分の目の届く範囲から彼女を追いやるというデメリットを天秤にかけ、結局は折れた。
正直、フェナリとしては何か万が一があろうとも花刀を抜くことになるだけなので問題はないのだが、それを言えばアロンが問答無用で王都へ強制送還を決断しかねないと感じたので止めた。
「大事にされている、ということじゃろうけど――」
それを、鈍感なフェナリも理解している。だからアロンに対して無理を言うのも時には躊躇される。当然、その躊躇を突き飛ばして我を通すこともあるのは事実だけれど。
今回のことが終わってからは、もう少し平和に生きよう。まあ、戦いが身近になければ。そう、強いのか弱いのか分からない意思を心に刻んで、フェナリは改めて眠りに落ちていった。
◇◆◇◆◇
野営地というのは、どうしても衛生状態が悪くなりがちだ。しかし、せめてその悪化を最小限に抑えようとして、小用の際には草の近くで穴を掘り――云々――からの上から土で埋める、というのが騎士や衛兵の義務とされている。
ふと、寝床の固さ以外から来る寝心地の悪さを感じたこの一人の騎士も、用を足しに天幕の外に出ていた。少し天幕から離れて、草地の方へと近づいていく。
悪魔がいる都市のすぐ近くで用を足す、というのは絶妙に恐ろしく、絶妙に貴重な体験だな、などと寝惚けたことを考えながら、騎士は雉撃ちを終わらせ、服装を正し直した。
眠気の残る瞳は視界をぼんやりと曖昧にする。小さくあくびを漏らして、元の天幕へと帰ろうとして。騎士の男は、ふと足を止めた。
「――なにか、音が」
草むらの方からだろうか、物音が聞こえたような気がした。風が草を撫ぜた音、と言うには肌で感じる夜風の弱さが説明しきれない。何か小動物がいるのか、まさか蛇であれば、と騎士の表情に薄らな緊張が浮かんだ。ちら、と視線を向けて、しかし彼の緊張はほどける。
そこにいたのは、少女だった。避難しきれなかった子供だろうか、と思いながら彼は少女の方へ。
「どうした、お嬢ちゃん。お母さんと逸れたのか?」
「――眠い」
「あぁ、今夜だもんな。お母さんとお父さん、多分避難した後だろうから――寝られるところまで連れてってあげようか」
「――眠い」
「あぁ……じゃあ抱っこしてやるから。寝てる間に連れて行くよ。――っておい、流石にここで寝るのは」
あまりに眠気がひどいのか、少女は岩肌の上に体を横たえて眠ろうとする。騎士や衛兵がこの環境で野営しているのは仕方がないとはいえ、少女がこんなところで眠るというのは流石に良くない、と騎士の男は止めようとするが、彼女が眠りだす方が早い。
「仕方ないな……一旦、本陣に連れて行って――」
指示を仰ごう。そう言おうとした男の言葉は、途中で遮られる。何によってか。あまりに大きすぎる、気配によって、だ。
その瞬間、少女の――アーミルの周りを、紫の何かが埋め尽くした。
◇
最初に違和感に気付いたのは、シェイドだった。
唯一、アーミルとの直接の対峙を果たしていた彼だけが、その気配に事前に気付いた。咄嗟に周りの騎士には警戒態勢を取らせ、自身はアロンのいる天幕へ。行く道である程度魔術の心得のあるものには防御魔術の展開を指示しておく。
それらがどれだけの意味をなすかはわからない。あの正体すら分かっていない攻撃に対して、どれだけ抗いが抗いとして在れるのか。
――分からない。それでも、人は抵抗する。
「あの攻撃が来ていない、ということはまだ猶予があるのか……? 一番いいのはやはり――」
アーミルの攻撃発動までに彼女を見つけ、その強攻を未然に防ぐこと。それはシェイドが考えずともわかるような当然の帰結。しかし、彼はその方針で動き出そうとはしない。そうすれば確かに全ての犠牲をなしにして、ひとまずの収束を図れるかもしれない。それでも、犯す危険を天秤に載せた時、それは却下せざるを得ない案だ。
アーミルの攻撃までの予備動作――『溜め』は、ほぼ無いに等しく、彼女にとっての準備である『睡眠』が果たされたとほぼ同時に、その攻撃は成る。
それは詰まり、アーミルに隙が与えられた瞬間にあの圧倒的な波濤とも言うべき攻撃が展開されるということであり、その時にシェイドが出来る抗いは現状存在しない。
「アレが、次に何を対象として放たれるのかが判然としない以上――危険な手は取れない。王子殿下や父上を守るのが最優先だ」
言いながら、シェイドはその護衛対象であるアロンが寝所としている天幕へと到着した。不躾なのを承知でその幕を勢いよく開き、中に押し入る。
「王子殿下! 緊急事態です、起きていただけますか!!」
「――ん、シェイドか。状況は?」
たしかに寝床に横たわり、目を閉じて眠っていたはずのアロンだが、シェイドの声を受けて目覚めるまでの間隔はほぼ無い。この頃は緊張続きである彼にとって、十分な安眠など期待できるはずもなかった。
安寧を取り戻した暁には、彼には十分な睡眠を取ってほしい。しかし、今だけはその不健康も僥倖だった。
「報告に上げましたものと同じ、『悪魔の娘』アーミルの気配を察知しました。本陣の近くにいる可能性が高いと思われます!」
「アーミル――住宅街の……!!」
アロンの記憶が照合される。彼の中で、二番目の凶悪性を持っと認識された悪魔の名であることが分かり、アロンの表情にも分かりやすく警戒の色が浮かんだ。
住宅街の広範囲を一度に破壊し尽くした悪魔だ。かのグラルド卿に辛酸を嘗めさせたヴァミルに続く危険性を持つと考えて間違いあるまい。
アロンの腰が浮く。騒ぎに気づいたらしいファドルドがアロンの天幕へと入ってきたのはそれとほぼ同時のことだった。シェイドは護衛対象の二人が同じ場所に集ったことをこれ幸いと思いながら、周囲を改めて警戒する。咄嗟の攻撃にも反応できるように、意識的に『騎士術』の出力は最大だ。
それが功を奏したか、はたまた無意味な絶望を彼に植え付けたのかは分からない。
「ッ、来ま――」
シェイドの言葉は中途で途切れる。凄まじい勢いで膨れ上がった巨大な気配が、周囲の何もかもを埋め尽くす。感知できないような速度で伝播したそれは、騎士たち衛兵たち、そしてシェイドの準備していた対抗の意志を根こそぎ削ぎ落す。
――まるで、天災だ。何の抗う術も自分たちは持たないのだと、シェイドはその一瞬に理解した。
天幕の悉くが破られ、布の切れ端が辺りに散らばる。その中には血煙も混じっていて――と、そうなるはずだった。
「――? 来ない……?」
護衛対象二人を前にしながら、素に戻ったかのような素っ頓狂な声を上げるシェイド。確かに膨張し、辺り一帯を埋め尽くしたはずの気配。だが、それに続くはずだったあの攻撃が来ない。何もかもを蹂躙し、すべてを無に帰すようなあの災害が、今事実として来ていないのだ。
周囲の気配を探る。アーミルの気配は無くなっていない。しかし、その気配が薄まっているような気がして――、
「これは――結界?」
ある一つの推論に思い当り、シェイドはアロンに許可を取って天幕の外へと出た。改めて意識すれば、『紫隊長』ではないシェイドであってもそれを感知することが出来る。ギルストの本陣をまるっきり覆うようにして展開された、結界の存在を。
緻密な結界だ。それこそ、王城で働いていたカーンのものと遜色ないほどに。しかしその存在にシェイドであっても気づくことが出来たのは、恐らく彼がいるのが結界の内側であるからだろう。
「これほどの結界を展開できる人間なんて、限られて――」
頭の中で思い当たる結界術師の名前を反芻しようとして、シェイドは言葉を止める。瞬間、本陣から少し離れた地点、テレセフの方向から爆裂音が聞こえ、同時に結界が破壊されたのだ。気づいたシェイドは躊躇わなかった。近くにいた騎士にアロンとファドルドの護衛を指示。音の聞こえた方向へと駆けだす。
間違いなく、その爆音の中心地、そこにアーミルがいる。そして、彼女の続く攻撃は何が何でも防がなければならない。先程とは状況が違うのだ。彼女の位置が分かっていなかったのと違い、そのおおよその場所は分かった。ならば――、
「今度こそ」
眠らんとする獅子を眠らすな。
あまりに早く訪れた、リベンジマッチだ。
◇
時は、少しだけ遡る。
小用のために本陣を離れていた騎士の目の前で、アーミルの攻撃が成った、その時まで。
確かに、事実としてアーミルは眠り、そして起きた。それはつまり彼女にとっての準備動作が為されたという事で。来たる結末としては当然、その『暴張』の力によって周囲の一切合財が破壊しつくされる、というものが妥当。であるはずだった状況で、しかしそうならなかったのは――、
「――ちょっとばかし来てみただけですけれども。ええ、ええ、これはこれは。中々に大変そうな感じじゃありませんですか」
気だるげなのか快活なのか分からないような声音で言ってのける男が、アーミルの目の前に立っていた。気配に圧され、その場に尻餅をついた騎士の背後を守るようにして立った彼は、自分と騎士の彼、そして多々なる騎士、そして衛兵たちの集う陣営全体に結界を張り、それでいてこともなげに佇む。
眠りを妨げられることはなく、しかしその攻撃自体は妨げられたことの不可解に首を傾げるアーミルだが、その人間の少女然とした可愛らしい仕草にも、その男は一切揺らがない。
「あまり表立って助力できないのが今の私の立場ですってことでして。はいはいはい、まあ――絶体絶命だけ避けておきましょうですとも」
――ホカリナ王城筆頭魔術師、ムア・ミドリスが、緑のローブを頭から首にかけて巻いた奇怪で、しかしいつも通りの服装に覆われたまま、その怪しげな目を少女に向けていた。
お読みいただきありがとうございました!
少し下にある☆の評価、リアクションやブックマーク、そして感想も是非ともお願いします。
この小説はリンクフリーですので、知り合いの方に共有していただくことが出来ます。pv数に貢献していただける方を大募集です!!




