76.星々を揺らす
「そォいや、嬢ちゃん。初めての敗北ッてのは、嬢ちゃんにとッてどんなだッた?」
「初めての……ですか」
改めて岩場の上で足を組みなおしたグラルド卿が問いかけを発する。フェナリは、問い尋ねられたことについてふと過去を想起した。恐らく、グラルド卿が言っているのは王城舞踏会での黒の男騒動についてのことだろう。確かに、あれはある意味で初めての敗北と、そういうことになるのかもしれない。
しかし、フェナリがまず思い出した記憶というのは、それよりも更に昔の話――前世、寂華の国での敗北の事。まさしく、フェナリにとって、そして花樹にとって初めてとなった敗北の記憶だ。
「――さあ死のう、と思いましたかね」
「あッさりと重いな」
「そういう教えでしたから。敵対したものを斃すか、それが成せぬなら死ぬ。叩き込まれた、というよりは刻み込まれた、教えでした」
「なんだァ? メイフェアス家ッてのは裏家業の元締めでもやッてんのか?」
別の方向に勘違いし始めたグラルド卿に「メイフェアス家とは関係ありませんよ」とフェナリは返す。本当に、説明不足もここに極まったかというような状況だ。話し手としてここまで不甲斐ない人間もそうはいない。しかし、フェナリとして前世の記憶は徹して隠すもので無いと同時に、決して明け透けに喧伝したい内容でもないのだ。
「しッかし、なるほどなァ。嬢ちゃんの裏で時々見え隠れする戦闘に対する意識ッてのはそこから来たのか。――けどまァ、今嬢ちゃんは生きてる。さあ死のうと、そう思ってしかし死ななかッたわけだ」
「そう、でしたね。本当に死ぬ寸前まで行ったのは確かですが」
「戦いに負けて『さあ死のう』と思い、何なら死にかけてる伯爵令嬢ッて……どこの未確認生物だ」
未確認生物ではない。その存在は良くも悪くも確認されている。誰あろう、その指摘を挟んだグラルド卿によって、だ。その事実に、グラルド卿は複雑な表情を浮かべる。彼の知るギルストと言う国、そしてその市井での環境は、確かにフェナリのような少女を生み出しかねない危険性を孕んでいるとは思う。しかし、それは貴族社会にまで伝播するような問題だっただろうか。
「いや、んなわけねェか。――違ェと思いたいな」
「多分グラルド卿の懸念は大丈夫ですよ。腐っていたのは別の社会の上層部でしたから」
「……まァ、色々と聞かなかッたことにしておくことにする。まだ、聞かねェでいい話だろォからな」
「助かります。――それで、死ななかった訳、でしたか」
フェナリは――否、花樹は。当時、確実に死のうとしていた。ただ、その自死の企みが果たされなかったのは厳然たる事実だ。だからこそこうして今、グラルド卿と語らうことも出来ている。では、何故彼女は死ななかったのか。直接的な理由を述べれば、純粋に自傷のために放った妖術が阻止されたことだろう。しかし、それだけであれば何度となく自らの首を絞める道へと花樹は進んだはず。であれば、何故、彼女は死ぬことを諦めたのか。
「言葉を掛けられまして。――『いずれ枯れる花を手折ることの、なんと愚かなことか』と」
「――――」
「その言葉に、私は殺されましたから。だから、今の私は生きています」
と言いつつ、味方をその刀の錆にしてしまいかねないような状況だったという事を自覚してその場で自刃しようとする辺り、精神の根本は治っていないらしい。その根源にある歪な精神を少しでも健全にしていくというのはこれからの課題として重要項目だろう。
「言葉に殺されたから、身体が生きている――か。いいじゃねェか、なるほどな」
「少し、自分語りが過ぎましたね。こうして過去を話すというのも珍しかったので口が滑りました」
「いや、面白かッたぜ。嬢ちゃんの強さには、見習わねェといけねェな」
「自分で言うのもなんですが、私の重い話を聞いて『面白かった』の一言で済ませられるグラルド卿の方が強いでしょう」
強い、という単語から先程の話を思い出したらしいグラルド卿が小さく口許を綻ばせる。しかし、その直後には微笑を湛えた表情も消え去り、「そォでもねェさ」と小さな呟きが零れていた。
「俺は、初めて負けた。だから――、俺はただ強いやつではなくなッた」
「いいじゃないですか、ただ強いだけよりいいですよ」
「嬢ちゃんがそう言えば、それもそォかと思えるな。すげェ話だ」
「私じゃなく、受け売りの言葉に力があるだけだと思いますけどね」
「いや、誰が言うかは重要だぜ? 知らねェヤツに言われるのと嬢ちゃんに言われるッてんなら天地ほどの差がある」
グラルド卿からのその返しに、フェナリは一瞬呆気にとられたような表情を浮かべてから、口元を緩めた。「そうだといいですが」と呟く彼女の表情は、最初に星々を見上げていた時とは違うものになっている。グラルド卿を悩ませる敗北の楔を抜き取る側だった彼女も、なんだかんだ言って敗戦の影響を受けていたのだと、今更に自覚させられる。
夜の星を見上げるとき、誰かが傍にいるというのは、フェナリにとって初めてのことだった。『雅羅』はそう言った女々しい心情を汲み取ることをしなかったし、敗北の日の夜は花樹の方から『雅羅』を遠ざけた。
「初めてです、星を――綺麗だと思ったのは」
「俺もかもしれねェな。星なんざ、いつでも見られると思いながら、結局見たことが無かッた」
空を見上げてみれば、変わらない星々の光が闇を映す双眸に小さな光を灯してくれる。その景色は前世と多少異なるような気がしながら、しかしどこかでその空が繋がっているかもしれないと思えば、苦く綺麗なものだと思えた。
◇◆◇◆◇
「んじゃ、俺は冬眠でもしてくることにするか」
「いつの間にグラルド卿は強さだけでなく生態でも人間をやめられたんです?」
「強さは既に人間じゃねェってのは喜んだらいいか嘆いたらいいか……と、そうじゃねェよ。『騎士術』は疲労がたまッて仕方がねェからな。連続で使いすぎてガタが来てやがる。アロンからも寝て体力を回復しろッて言われてんだ」
「なるほど」と相槌を打ちながら、フェナリは自分の懸念にアロンも気づいていることに安堵。グラルド卿の『騎士術』はあまりに強力すぎるが、その代償が存在しないわけではない。
払わなければならないものを払う時が来た。問題は、それを払うタイミングが今だということだろう。
「俺が寝ている間、ッてのは俺が活動できねェのと同義だ。――嬢ちゃん、俺のいない間は任せたぜ」
「それは勿論、全力を尽くしますが……私でなくても、騎士の方々がいらっしゃいますから」
「――半数だ」
突拍子もなく感じられるグラルド卿の一言に、フェナリは「え」と小さく漏らす。告げられたその数が何を意味するのか、フェナリには理解できなかった。が、その答えはすぐにグラルド卿の方から示される。
「先に城塞都市に進軍した一番隊――その半数が、死亡か重傷で既に戦力外だ」
「ぇ……」
「嬢ちゃんやアロンが来たのはその被害が出て、一旦は指揮官の指示を仰ごうッつう風潮になッたあたりだからな。知らねェはずだ」
フェナリの、そしてアロンの到着より以前に、それらの騎士たちの死亡したものたち、そして浅くない傷を負って戦えなくなった者たちの処理は済んでいた。それ故に、フェナリは今初めて、その事実を知る。
どれだけ、自分の視野は狭いのか。本当にごく少数、片手でも数えられる程度の人間の安否しか、自分の意識には含まれない。戦場に存在するのは、当然その数倍から数千倍以上の人間たち、命であるのに。
「全員が死んだわけじゃァねェさ。だが、既に戦力は半減してる。その上で、ガチで戦えるだけの気力が残ッてんのは――」
グラルド卿の声音が、先刻自らの弱さに言及するときとはまた別の意味で重くなる。フェナリにとっては知らない人々であることに違いないが、グラルド卿にとっては同じ騎士という立場に身を置く者同士、多少なりとも関わりがあった人だっていたかもしれない。
卿の置かれた状況、その辛さに口元を歪めながら、しかしそれ以上にフェナリを苛むのは、その辛苦を心から理解することのできない自分の薄情さだった。
「任せて下さい。グラルド卿が十分に休めるよう――全力を果たすことをここに約束します」
自分を蝕む自分の精神的な未熟さも、それに対する自責の念も、全てを籠めて約束の言葉を紡ぐ。これまでにない使命感を抱き、その約束を果たすべくその身を砕くことまで厭うまいと思う。
「あァ、頼むぜ。嬢ちゃんを信じてるからな」
信じる――と、珍しい言葉を掛けられたフェナリが続ける言葉に困った。過剰なまでの使命感、自分に向けられる自責の棘が一瞬で霧散し、彼女に残ったのは唯一つ、純粋なまでの――、
「――はい!」
決意。覚悟、衝動、理性、奮起。――決意。
不純物を取り除き、フェナリは正しく決意する。グラルド卿の代わりなど果たせずとも、自分の出来うる限りを果たす。
そうして初めて、グラルド卿と自分は、共に敗北を受け止めることが出来るのだと、そう思う。
「んじゃ、今から俺は『騎士術』の応用で感覚を限りなく遮断し、眠る。問題が起こッたら先ずはシェイドとアロンと相談しろよ」
「グラルド卿――最後に」
「あァ?」
「眠る前にしっかりご飯は食べましたか?」
「冬眠じゃねェよ!!」
「誰がそんなこと言いやがッた、俺か!!」と自らツッコミを入れるグラルド卿の怒号が星々を揺らし、深夜の邂逅から始まったひとときは幕を下ろすこととなった。
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