72.成長と疲労の天秤
――シェイドがライガンに本陣への帰還を促される、その一時間と少し前。
時間は遡り、ライガンがアロンから指示を受けたタイミングまで戻る。戦況が不透明であることを危惧したアロンは、可能ならば一時撤退し、情報を改めて共有してから再戦するとの判断を下した。ライガンが賜った指示というのが、そのことを戦場の騎士たち、特に上級以上の悪魔と接敵しているであろう者たちに伝える、というものだったのだ。
本来、総指揮官であるアロンの言葉、指令を全体に伝達するのは伝令兵の役目である。しかし、上級以上の悪魔と接敵している騎士に指令を伝えるのであれば、伝令を運ぶ騎士にもある程度の実力が求められる。少なくとも、その戦場で指令を伝え、退却するその間、死なないだけの実力が。
「そこで、ライガン部隊長――貴方に頼みたい」
「承知いたしました、アロン殿下。すぐさま、向かいましょう」
「……まず向かうのは、グラルド卿が向かった北部の洞窟。その後、行方不明になったシェイド隊の捜索を行ってもらう」
アロンの表情が幾らか曇ったのを、ライガンは見逃さない。しかし、言及もしない。アロンにとっては、これは苦渋の判断に違いなかった。本当なら、判断に私情を挟むことが是とされるなら、アロンはすぐにでもフェナリの参加していたシェイド隊の捜索に全力を費やしたい。しかし、それは出来ない。城塞都市テレセフにおける殲滅戦で、最も重要な戦場は間違いなくグラルド卿と上級悪魔のところだ。それを、間違えてはいけない。
ライガンが残っていた後衛部隊の騎士たち、そして救護班の騎士たちを連れて城塞都市内へと進軍するのを総指揮官として見送って、アロンは小さく溜息をついた。
シェイド隊の失踪、詰まる所フェナリの行方不明報告であったそれを聞いて力を籠めた握り拳に、まだ力が入っていたことに今更ながら気づく彼は、息を大きく吸って吐いて――目の前の、都市の門を見据える。フェナリの実力は、アロンも良く知っている。その実力は『紫隊長』を唸らせ、騎士団のエースを見下ろす程。アロンが現在のテレセフに足を踏み入れるより、彼女の方が生存率も、貢献率も段違いであることはよくわかっている。
「――分かっているが……その隣にいられないことが、これほどまでに悔しい」
アロンに求められているのは、戦闘での貢献ではない。総指揮官としての、そして参謀としての、頭脳戦での働きだ。それを彼自身も理解しつつ、しかしそれに納得しきれない歯痒さを抱えていた。
風の流れが、悪くなっていることを直感的に悟る。そして、その流れを正しい方へ変化させるだけの力が、自分にないことも、アロンは覚っていた。城塞都市テレセフを取り巻く状況は、未だ回復の方向へと進んでいない。何一つとして、朗報と呼べるような報告が上がってきていないのだ。それどころか、シェイド隊の行方不明、グラルド卿が敵と会した洞窟の崩落、と焦燥を掻き立てられるような情報ばかりがアロンの下へと届く。一時撤退の命令は、そう言った悪い状況を一掃し、言わばやり直しをするための、アロンの安堵のための、一手だと言えるのかもしれない。
「曇天を揺るがし、晴天へと塗り替えるために――必要なのは、何よりも、雲を穿つ風。それが臆病風であるというのは、締まらないものだが」
◇
グラルド卿とヴァミルの戦いは、段々と一方的な蹂躙へと変容していた。それは、まさしく人間と悪魔、その純然たる体の性質、そして戦いに対する素養、その縮図ともいえるような状況だ。アロンも想像していなかったかもしれない、グラルド卿の劣勢である。
「凄まじい殺気、世界を塗りつぶさんとする敵意、黒く淀んだ悪意、破滅を求む害意――そのどれもが、貴方にはない。どういうことなのかしらねぇ」
「――――」
「そろそろ、分かってきたんかしらぁ? ――貴方は、私にすら勝てない三文役者。妹は呼ばなくて正解だったわねぇ。こんなのじゃ、あの子たちを満足させられないかもしれないんだものぉ」
「――クソ、が」
「あらぁ、何回も聞いたわ、その単語。私の『お母様』は人間に詳しかったけれど、その言葉は確か……負け惜しみ、というんだったかしらぁ?」
「――クソがァ!!」
大剣を振るう。グラルド卿の鼻腔を、赤黒く生々しい暖かさを持った粘性の液体が埋め尽くした。『騎士術』の連続使用による脳の過負荷が極まった結果だ。鼻血を垂れ流し、しかしグラルド卿は未だ大剣を手放さなかった。
フェナリが危惧していたことが、この時のグラルド卿の身を蝕んでいた。それは、人間であれば誰しもが一度でも経験する、どうしても逃れ得ぬ人体の限界点――疲労だ。
ホカリナ王城での奪還戦、そして続く『厳籠』討滅戦。そのどちらでも、グラルド卿は前線で戦い、当然のように『騎士術』を展開し続けた。脳の限界を常に突破し続けているともいえるような状況で、一日かそれ以上を過ごした彼は、ホカリナでの騒動がひと段落した段階ですでに過ぎた疲労を抱えていたのだ。それは、城塞都市テレセフでの戦闘の気配を、結界が張られていたとはいえ、感知できなかったことからも窺い知れる。
しかし、彼に休息の時間が十分に与えられることはなく、テレセフでの悪魔殲滅戦へ参戦するため、卿はホカリナを出立して王都を経由、城塞都市へと長い休憩を得ること無しに走り続けた。この時点で、彼の疲労はまさしく、人間の限界を超えていただろう。ただ、グラルド卿の限界を超えていなかった、というだけの話なのだ。
――そして、その流れはヴァミルとの戦いまでを一直線に繋ぐ。
一般人ではまともに行動するどころか、その場で立ち続けるだけの体力も残っていないような疲労で、それだけの疲弊を抱えた身で、グラルド卿は上級を越えた実力を持つ悪魔、ヴァミルとの戦いを続けていた。それが続いていただけ、状況としては異常だ。
刻一刻と、重みが減っていく。
刻一刻と、重みが増えていく。
刻一刻、グラルド卿の疲労は増加する。
刻一刻、ヴァミルは成長していく。
時の刻まれるごとに、天秤が傾いていく。
――疲労と成長の天秤、グラルド卿とヴァミルの勝敗を決定づける天秤が。
「――――チッ」
浅い傷がグラルド卿のその身体に付けられるのも、これで何度目か。致命傷になるような傷を常に避け続けながら、しかしその数は無数に増えていく。腕が怠くなり、足が棒になる――そんなことなら、グラルド卿は傷を負う事すらないかもしれない。だが、彼を蝕む疲労は、体の一部の機能を奪うようなものではなく、正しく彼の最大の武器、感覚を鈍らせていった。
良くも悪くも、グラルド卿の感覚は絶対だ。その感覚に従って攻撃を見透かし、逆に攻撃を当てることが出来る。だからこそ、感覚を鈍らせられたグラルド卿にとって、ヴァミルとの戦いはあまりに負け戦だ。
「――私は、これでも『お母様』には届かない。つまり、私にも及ばない貴方では『お母様』の足元、足先、その爪の掠める土砂の一粒にすら、及ばない」
「――――」
「終わりましょう? 貴方を下して、私はもっと先へ、『お母様』の足元へと歩を進めるのよぉ」
「――ッ」
グラルド卿の体が、大きく後ろ側への引力に吹き飛ばされる。一瞬だけ、硬くも柔らかくもない何かが触れた卿の腹部は骨ごと陥没したかのように軋み、内臓の全てが押し出されて口から出てしまいそうな不快感が全身を支配する。吐き気、嗚咽、そのどちらでもない。そのどちらをも超越する、意味の分からない異物感。
一瞬遅れて、自分が蹴られたのだとグラルド卿は気づいた。戦いの序盤、グラルド卿が幾度となくヴァミルに放ち続けた蹴撃、その意趣返しなのだと、理解するのには少しだけ時間が必要だった。
理解した瞬間、グラルド卿は自らの大剣を背に構える。ヴァミルに何度も蹴りを叩き込んだグラルド卿だから分かる。蹴りによる圧倒的な引力、それに負けた存在の結末が。悪魔であるヴァミルは、その背を岩壁に強打し、しかしそれでも生き続けていた。しかし、グラルド卿は流石にそうもいかない。人間である以上、その身体の強靭さには種族としての限界がある。
だから、大剣を背後に構えた。ヴァミルの蹴りで得た速度、その物体として持つ威力を大剣に伝え、衝突する岩壁全てを破砕する。咄嗟の防衛行動だ。
結果として、グラルド卿の思惑は半分以上叶った。全体的に脆い岩壁は、大剣の衝突と同時に砕け散り、グラルド卿が敗走するための途を整えてくれる。
勢いに揉まれ、いくつもの岩石で体中を切り刻まれ、打撲傷を付けられ、最後には無様に洞窟の岩肌の上で転がされる。体の節々を裂かれ、騎士の隊服は血に塗れている。そして、天井を見つめたグラルド卿の視界に入ってきたのは、崩落したかのような大きな穴、そして上に続いている洞窟。
「あァ? まァさか、最初の場所に、廻り巡って――」
「始まりの場所で、終わりの場所、ってことかしらぁ? 何とも詩的で、いいんじゃぁない?」
「ふざけてんじゃァ、ねェよ」
やろうと思えば、グラルド卿が岩窟の床の上に寝そべっている間、その一瞬で距離を詰め、首を爪牙にて刎ね飛ばすことも、ヴァミルには出来たはずだ。しかし、彼女はグラルド卿を愚弄するかのようにその寝姿に言葉を掛け、緩慢な歩みでその距離を縮めてきた。
その挑発めいた行動に、グラルド卿は舌打ちを漏らすだけ漏らして、立ち上がった。初めの時の威容は、既に消え失せている。覇気も、削り取り削ぎ落しを繰り返した末に薄まった。ただ、残っているのは強者の、強者たる、強者らしい、強者である証左――何があろうと崩れない、大剣の構え。
しかし、事は残酷だった。
グラルド卿の覚悟の構えも虚しく、横から迫っていたヴァミルの翼の一押しで、卿の体は横倒しになる。遅れて剣の切っ先を翼に合わせて応戦するが、力で押し負ける。
――敗北、その可能性は考えてはいけない。敗北、敗北、無視、敗北、予感、敗北、敗北、否、敗北、敗北、否定する、敗北、敗北、違う、無視だ、敗北、敗北――敗北。
――敗北。
グラルド卿の首に、悪魔の毒牙が迫っていた。
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