71.眠らざる獅子
辺り一帯が住宅地であっただけの瓦礫の山に覆われ、唯一残っているのは他よりも大きな壁をはっきり縦断された集合住宅の一棟だけ。その、断面から中が丸見えとなったうちの二階に、眠らざる獅子はいた。
いや、この表現は厳密には正しくない。この獅子は眠ろうとしている。ただ、相対するシェイドがその眠りを妨げるがゆえに、眠れていない獅子なのだ。
「――眠い。眠い。眠い眠い眠い。眠い」
「さっき、寝て起きたところで……っ、怠惰もこれほど極まると――」
「眠い、眠い、眠い、ねむぅ……」
「――ッ!」
ひたすらに同じ単語を並べ立て、自分が睡魔といかに懇ろなのかを愚直に表現しているアーミル。その攻撃性の見えなさは、いくらか悪魔との接敵経験を持つシェイドから見ても、悪魔然とした様子では確実になかった。
とはいえ、その眠気という人間における生理現象、そしてそれに誘発される睡眠という一般的行動――それが辺りに与える影響を、加虐性を、シェイドは知っている。――だから。
アーミルの声が突如として沈み込み、それと同じくして彼女の体が地面へと落ち込む。それは、考えずとも分かる睡眠の予備動作。シェイドはその様子に過敏なほどに反応し、勢いのままにアーミルの体に騎士剣を突き立てた。
確かな痛覚を持ち合わせていない悪魔だが、最低限の衝撃を不快に思う機能は持ち合わせているようで、アーミルは騎士剣が自分の体に食い込んでいるのを疎ましそうに見つめてから腕を振るった。
その腕の一振りは幼女が癇癪を起こしたかのように見えるが、しかしその威力を考えればそんなに可愛らしいものではない。
「騎士剣が――っ」
その鋼が折れかけ、シェイドは咄嗟にそれを引き抜く。騎士剣に激突した小さく細い腕の膂力は危うく騎士剣に用いられた鋼の硬度を嘲笑うかと思えた程。シェイドの判断力無くしてはその結果も決してないものではなかった。
短い期間に二本も騎士剣を折るなどと言う、騎士としての矜持をこれ以上なく傷つけるような状況に置かれることが無かったことに安堵を零しながら、しかしシェイドは目の前でその安堵すらも塗り潰すような不可解が起こっているのを目の当たりにする。
「――?!」
先程まで騎士剣が刺さっていたアーミルの体。ただ単にその眠りを阻害するための刺突だったために、彼女の体に残っていた傷は確かに深いものではなかった。それでも、傷は傷だ。人間の尺度で見れば、それはある程度大した傷の範疇に含まれる。
しかしその傷が、中から肉が膨らむようにして埋め尽くされ、瞬きの間に真新しい皮膚となる。通常、見るだけでも精神を汚染するかのような、そんな一場面。シェイドは咄嗟に一歩引きさがりながら、その状況を改めて精査する。悪魔に人間を越えた再生力があるのは、確かにシェイドも知っている。上級悪魔ともなれば、確かに戦いの最初に付けた傷が終盤で忘れられたかのようになくなっていることも無いわけではない。しかし、それはあくまで自然治癒の様相を呈す。
――まず、傷が塞がって治癒が進む。
――続いて、赤みの残った肌の中で更なる治癒が進む。
――すべての治癒が終わった時、肌に残る赤身もまた、消え去る。
それは悪魔も人間も、全く変わらないはずの自然治癒の段階。彼我の差があるとすれば、その治癒が果たされるまでの時間や、そのために必要な体力の部分だ。だから、アーミルの体を治癒した不可解な力は、大きな違和感をシェイドに植え付けた。
「眠る子、育つって。『お母様』言ってた」
「――――」
「私、ずっと育つ。もっと大きくなる。もっと――」
「――――」
何か、見逃していることがあるのではないかと、シェイドの中を懸念が駆け巡る。アーミルが眠れば、彼女の持つ膨大な力、辺り一帯の住宅地を一瞬にして更地にしてしまったような、その力を放つ準備が成されてしまう。それは、一つ間違いないと考えていいはずだ。アーミルが眠ろうとするのは、先程でも三度目。一度目は瓦礫で虚仮脅しを入れ、二度目は蹴りを入れた。そして先程の三度目。ここまで連続的に行われた予備動作。ならば確信を得てもいいというシェイドの判断だ。
しかし、ではそれだけを注意していればいいのか、という事を疑いだすと、やはりシェイドの思考を駆け巡り、その断定の危険性を訴えかけてくる懸念の存在がある。まだ存在する見落とし、アーミルの持つ能力、その全貌に対する勘違いがあるのではないかと――。
「私、寝たい。邪魔するやつは――」
「……?」
思考を遮るようにして、アーミルが口を開く。そして、紡がれた言葉はこれまで以上の攻撃性を続けようとして――、疑問符を浮かべるシェイドに、破壊の『暴張』が迫っていた。
アーミルは立ち上がっていない。眠る寸前というような、座っているの兼ねているのかも分からないような体勢のままだ。そして、彼我の距離はおよそ騎士剣を伸ばそうとも届かない程。間違いなく、幼女の腕が伸ばされたところで、その距離差は埋められない。そのはずだった。
「――ッ?!」
しかし、事実としてシェイドの目の前には、アーミルの腕が迫っている。腕、と――そう呼ぶのが本当に正しいのかは分からない。その腕と思しき物体が伸びている大本がアーミルの肩であることから、恐らくそれは腕なのだと判断できているが、しかしその物体の形は人間の腕と同じようには見えず、至る所が膨らんだり縮んだりと凹凸に覆われているのだ。
目の前に迫っている物体の何たるか、それは分からなかったが、少なくとも自分に対して害意をもって放たれたものであることだけはシェイドも確信。先程彼女の体から抜き去った騎士剣を、今回は刺突するのではなく斬撃によって攻撃を放つ。
「眠い、眠い。眠い、眠くて眠くて眠いし眠い。――ねむい」
「こんな――ッ、タイミングで!」
凹凸に包まれ、現在進行形でその形を更なる異形へと変容させていく腕らしき何か。それは、先程のアーミルの体と比べて幾らか硬度が低いらしい。シェイドの騎士剣が至る所に斬撃によって傷をつけられているという事がその証左だ。
しかし、腕らしきものによる攻撃を相殺し、自身の危険を排せばそれでおわり、というわけでないのはシェイドとしても理解していること。ちょうど、最悪のタイミングでその予備動作は訪れた。
シェイドは騎士剣を大きく振り、凹凸に変貌する何かを斬り捨てて、そのままの勢いでアーミルに迫る。何らかの手段で、彼女の眠りを妨げなければならない。そうしなければ、また――、
「――おや、すみ」
呟いて、アーミルの体が瓦礫の中へと沈む。同時に、先程までは無数にシェイドへと迫ってきていた触手にも見える腕がアーミルの下へと吸い込まれる。それは、疑いようもなく彼女の睡眠が果たされたことを示している。そして、つまりそれは、先刻にシェイドも経験した圧倒的な範囲攻撃、それが放たれる予備動作が完了した、ということで。
「――ッ、すぐに避難を……っ」
「安心して。お姉ちゃんに『殺すな』って言われてる」
「――っ」
人間の睡眠時間より、大幅に短く切り上げての起床。それに何らかの指摘を挟む間もなく、シェイドの視界を埋め尽くしたのは先程自分に迫ってきていた、無数の触手らしい腕らしいやはり何か分からない何か。それが、人間の視覚では視認しきれない速度で場を席巻し――、次に視界が切り替わった時、シェイドの周りにアーミルはいなかった。
◇◆◇◆◇
最後の言葉が、シェイドの脳内で廻っていた。考えて、その意味が理解できなくて、しかしその言葉の真意を咀嚼しようとして、自分の派では固すぎると判断して吐きだして、けれど諦めきれなくてそれをまた口に含む。――その繰り返し。
視界が切り替わる寸前の、アーミルの言葉。そこには二つ、不可解な要素があった。「お姉ちゃん」という単語と、「『殺すな』と言われ」ているという事実。アーミルがお母様、という言葉を出している以上、悪魔にも家族関係に準ずるような概念があることは恐らく確かなのだろう。そう考えれば、アーミルが何者かのことを『お母様』と呼ぶのは理解できた。では、「お姉ちゃん」はどうか。何故か、シェイドのことを『殺すな』とアーミルに命じたらしい、「お姉ちゃん」は。
「何か……まだ、分かっていないところに、何かが――」
シェイドの知識の中に、そして把握している事実の中に、現状を正しく理解するための要素が足りない。何かが欠けているから、この状況を自分の中で確立させ、構造を把握することが出来ない。アーミルの口から出た言葉は、どれもが単純で、言葉足らずなもの。しかし、裏の意味が、深い意味が見え隠れするような、そんなものだった。
どれが手掛かりだったのか、シェイドには精査しきれない。そして、これ以上の情報を手に入れるには、その情報源はどこかに消えてしまった。
「――ッ!! こっちだ! シェイド発見!!」
思考を巡らせなければならない情報ばかりで、シェイドは周りの気配を探知し続けることも出来ずに立ち尽くしていた。その姿を発見したらしい、声が聞こえてきたとき、シェイドは初めて自分が本当の意味で周りを見れていなかったと自覚する。
近づいてきたのが悪魔ではなく味方であろうことが唯一、シェイドにとっては救いだった。低級悪魔ならいざ知らず、上級以上の、それこそアーミルのような悪魔に襲撃されていたのだとすれば、今の一瞬で致命傷を負っていたとしておかしくはない。
「シェイド、大丈夫か。――救護班! 応急手当だけ済ませてくれ!」
周囲の安全を取り急ぎ確保し、シェイドの下へと駆け寄ってきたのは騎士ライガン・ドズメント。位を見ればシェイドよりも上官の立ち位置にいる彼。今回のテレセフ殲滅戦では後衛部隊の部隊長を務めている彼が、シェイドの下へと駆け寄り、周囲に控えていた騎士たちに指示を飛ばしていた。
「シェイド、一旦本陣へ帰還だ。その傷では、少なくとも上級以上と接敵した時が危ぶまれる!」
「っ――ちょっと待ってください、ライガンさん。私は未だ戦えます、傷だって掠り傷で――」
「シェイド、戦場では相手の状況、戦況、それ以上に自分自身の状況を把握することが一番大事だ。お前は、自分の体の傷をしっかり確認したか?」
「え――」
シェイドは初めて、自分の体へと視線を落とす。右腕を覆っていた騎士の隊服が一文字に裂かれ、その布の部分が鮮血で赤黒く塗り潰されているのを、その時初めて彼は見た。そして、意識した瞬間にその部分がじくじくと痛みを訴えてくる。悶えるような激痛、というのとはまた違う。内側から、自分の体に在ってはいけない異物を拒絶するかのような疼痛だ。
救護班が到着する。彼らは一瞬だけシェイドの傷に表情を顰めて、しかし何も言わずに応急処置を始めた。水で洗われ、包帯で止血。最低限の処置だけを受けて、シェイドは戦場へと戻る心づもりだった。しかし、それはライガンによって阻止される。
「城塞都市内で、主要な敵との接敵が相次いで――敗北が続いてる。態勢を整えるためにも、一時撤退というのがアロン殿下の御判断だ」
「――――」
ライガンのその言葉に、シェイドは諦めざるを得ない。今回、単体戦力として戦場に存在することが許可されているシェイドにとって、騎士としての上官はこの戦いで存在しない。故に、彼に対して指令権を行使できるのは総指揮官であるアロンとファドルドのみ。その片翼であるアロンから受けた指令に、シェイドは背くことが出来ない。
自分が上級以上の悪魔を討滅するのだと、そう大口をたたいた結果がこれなのだ。シェイドは無力感に苛まれながら、しかし本陣へと帰還する道を進んだ。
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