65.上級悪魔ヴァミルの幕
突然の洞窟の崩壊。まさか、想像もしていなかった出来事に、グラルド卿の表情も一瞬の歪みを見せる。しかし、崩壊音が響いた瞬間に上を見上げたグラルド卿だが、上からの岩礫は最低限しか落ちてきていなかった。上側が崩落するのかと想定していたグラルド卿だが、その予想は当たらず。
上を見上げていたグラルド卿の視界は突然に変化する。大体、人が三人ほど縦に入るような高さだった洞窟だが、目の前の岩天井は刹那ののちにはさらに遠ざかっていた。そこで、グラルド卿も気づく。
「チッ、崩落したのは下か……ッ!!」
恐らくは、先程ヴァミルが仕掛けてきていた攻撃が原因だ。視界を埋め尽くすような攻撃があったが、グラルド卿も多少は違和感を感じたのだ。確かに広範囲攻撃は脅威だが、相手がグラルド卿1人であることを考えれば、あまりに無駄のある戦法だともいえる。そう言った効率の悪いことをするのも人間の尺度で生きている訳ではない悪魔らしいと言えば悪魔らしい、攻撃なのだと思っていたが。
あれは、地面に傷をつけ、崩落を誘発していたのだと考えれば、あの無駄さにも納得がいく。
「下は――広い空間……元々、地面の岩も薄かッたッてワケだな」
天然の落とし穴のようになっていたのだと、今更になって気づかされる。しかし、場所が変わったからと言ってグラルド卿とヴァミルの戦闘力という観点で考えれば変化はない。洞窟の中という状況は先程と変わらないのだから、戦況はおおよそ変わっていないも同然だと思われた。
「単なる時間稼ぎと仕切り直し――そんなわけも、ないわよねぇ」
「そォだろォな」
ヴァミルとの距離が大きく空いている。グラルド卿に吹っ飛ばされた地点から下に降りたらしい。距離を縮めるにはグラルド卿の足を使えば一瞬だが、しかしそれも一秒から二秒の時間は必要だ。先程とは違う。瞬間的に間合いを詰めることは、出来ない。
成程、そういうことかとグラルド卿は納得する。同時に、大剣を構えた。
「チッ――得物の得意不得意だな」
彼我の距離が空きすぎれば、グラルド卿はその間合いを詰めるために一秒や二秒だとしても、確実に時間を喰われる。瞬間的な攻撃が出来なければ、半永久的に再生し続ける悪魔の羽は十二分な脅威となりうるのだ。
グラルド卿が構えたと同時、ヴァミルの背中から黒く禍々しい影が伸びた。その動きも速度も、最初の一撃から段々と磨きがかかっているような感じがあって、最初は一般人ですら眼で追えるような速度だったのが、今ではおよそ一般人には目視できないほどにまで速くなっている。
「まさか――今、進化し続けてんのかァ?」
「私はお母様の『長女』。まさか、他の悪魔とは一線を画すのよぉ。私で言えば、『過変化』かしらねぇ」
グラルド卿には、ヴァミルの言うお母様というのが何者なのか分からない。しかし、少なくとも悪魔の中でも特異な存在であることは間違いないらしい。そして、そのお母様と呼ばれる存在の子供だから、ヴァミルには他の悪魔とは別の、特殊な能力がある。
――それが、『過変化』。進化や退化が通常の悪魔と比べて簡単に起こる。力を揮えば揮うほどにその場で、指数関数的に、力が増幅する。とはいえ、その代償なのか、退化も一瞬だ。少し力を揮う機会に恵まれなかった、というだけで彼女の力は大きく減衰することになる。最初は上級悪魔として、グラルド卿とは比べ物にならないような力量しか持たなかった彼女も、グラルド卿と戦い、その場で力を増幅させ続けているのだ。
「厄介、だな。ミスりゃァこの場で数百年レベルの大悪魔にも化けるッてことだろォが……!!」
本来なら、毎日のように人を食らい、力を揮い続けた悪魔であっても、大悪魔のような存在になるには数十年から数百年の時間を要する。しかし、ヴァミルの場合は違う。彼女の持つ『過変化』というものがどれだけほかの悪魔との違いを生んでいるのかは分からないが、もしもそれが数十年単位の違いを生むのだとすれば。グラルド卿との戦いが長引けば長引くほどに、彼女の力は大悪魔にすら迫る。
大悪魔級の脅威――グラルド卿が接敵したことの無いような伝説の存在だ。彼が、唯一と言ってもいい程恐れている存在ですらある。それは未知故。当然、大悪魔にだって実力で迫ることが出来る可能性だってあるが、それも希望的観測に過ぎない。
「ほらぁ、急がないとぉ――そうでしょぉ?」
「あァ、そォだな。お前を殺すッて任務に、時間制限がついた。――けどな、それだけだ」
ヴァミルが力を完全に強化しきる前に、その首を取り討ち果たす。グラルド卿に求められているのはそれだ。元々は城塞都市北部に潜伏している可能性のある上級悪魔の討伐が任務だったわけだが、そこに可能な限り時間をかけずに、という文言が付け加えられた。――それだけだと、グラルド卿は豪語する。
グラルド卿は黒の男との戦いで、学んだ。今になってもまだ、学びを得なければならないことがあるのだと、気づきを与えられたこともそうだが、もう一つ。自分は絶対に負けを想像してはいけないのだと、そういう学びだ。
黒の男との戦いで、グラルド卿は初めて自分の敗北を幻視した。それは勿論、『厳籠』の幻術のせいでもある。しかし、そうだとしても。グラルド卿は『紫隊長』として、多くの人間の希望を背負う立場として、絶対に負けを想像してはいけない。自分が負けるかもしれない、などと弱気な考えを一瞬たりとも持ってはいけない。
黒の男のような存在に始まり、グラルド卿が負けるかもしれない存在というのはこの世界に多く存在するに違いない。しかし、だからこそ、グラルド卿は自分の実力を疑わない。この世界の誰にも、どんな存在にも、決して敗北などしない。それを、彼が信じていなければ、多くの人たちの希望を裏切ることになるのだから。
「――大悪魔を、恐れてるッてのもおかしい話じゃねェか」
そのか確固たる自信のもとに、彼は自らの中にあった弱い意志を消し去る。そして、意識を切り替え――目の前の存在に唯勝利し、敗北という可能性を叩き斬って、任務を全うする。それだけを意識する。
「良い表情ねぇ、本当に。負けそうだわぁ――やっぱり、妹たちは呼べないわねぇ」
ヴァミルは、人間とは比べ物にならないような視力で遠くのグラルド卿を見透かす。しかし、その実力の底はまだ見えない。羽を伸ばし、操る――ただそれだけで追い詰められるような簡単な相手ではないのだと、ヴァミル側も意識を切り替える。
これは、お母様から申し付けられた仕事の一つだ。悪魔として、残酷に冷徹に、そして楽しんで遂行するように、と言われている。これは、『劇』なのだと、お母様は言った。城塞都市テレセフで起こしたこの事変も、単なる開幕でしかないのだと。ここから、閉幕まで――娘たち総動員で『劇』を進行するのだと。
「――だからぁ、これは『開幕』なのよねぇ」
開幕のタイミングから破綻するような『劇』は当然、観客に楽しんでもらえない。観客を、そして何より演者を楽しませるためには、『劇』を正しく慎ましやかに、進行させなければならない。
脚本はお母様、演者はお母様とその娘、観客はこの世界の全員。
「『劇』の終幕にあたってはぁ、笑って頂戴ねぇ?」
これは、喜劇なのだからぁ――と、ヴァミルは聞こえているかも分からないグラルド卿に向けて、羽を伸ばした。
◇
――暗闇が、目の前に残っていた。
いつまでも、光が目の前にやってこない。光は自分を置き去りにしてどこかへ行ってしまったらしく、まだまだ戻ってくる気配はない。光のない世界でなんて生きている意味はない、と――そんな風に命を諦めかけたこともあったが、やはり自分の体はそんな結末を望んでいないらしかった。
ずっと、瓦礫の下で最低限の生命活動だけを行っている彼は、救助を待ち続けている。
もう、何時間ここにいるのかも彼、フェルドにとっては分からない。魔術師でなければ、瓦礫の下でこんなにも長時間生き続けていることも出来なかっただろう。自分がもし騎士であれば、と思ったこともあったが、しかし魔術師でなければ今この状況で生き続けられなかったかもしれない。いや、そもそも騎士ならばこの状況からでも瓦礫を跳ね飛ばして外に出られるか。ならば、騎士であれば魔術師である理由も――、
「(ダメだ……思考が覚束ない)」
空気が薄いからというのもあって、思考は纏まらない。意識も朧気で、どうにか周りの音は拾えているか、という程度。目は開けると砂利が入ってくる可能性があるので閉じたままだ。視覚を閉ざしたことによって残った聴覚は霞む意識の中でも比較的はっきりとして残っている。
だから、聞き取れた。何者かの――足音が。
「(――!! 王都から来た騎士たちか?!)」
希望が久しぶりに胸に飛び込んでくる。しかし、そこでフェルドは待てよ、と自分を制した。悪魔の可能性もある。低級悪魔が町を徘徊しているのは既に判明していること。その悪魔の足音だとすれば、目立つようなことをしてこの場所を悟られるのは――、
「っ――!! 兄様ッ?!」
「――爆ぜろ」
石が口腔内の至る所に傷を作るのも厭わず、フェルドは魔術の詠唱をした。
残り僅かだった魔力で、フェルドは瓦礫を吹き飛ばす。とはいえ、何重にも重なった瓦礫の山を完全に吹き飛ばすような火力は、残念ながら用意できない。そんな爆発を起こせば、間違いなく瓦礫より先にフェルドの体が爆ぜて消える。
だから、爆発と言ってもその音がしただけのようなもの。敵に放ったのだとすれば、こけおどしもいいところだ。しかし、音だけで十分だ。――騎士である、シェイドにとっては。
「ここだ!! ここに恐らく、兄様――要救助者が」
真上から声が聞こえて、フェルドは安堵と共に意識が沈んでいくのを感じていた。瓦礫が退かされていく。自分を覆うようにして光を遠ざけていた障壁が取り除かれて――、
「兄様っ!! 大丈夫ですか?!」
「シェイド――久しぶりだな……」
こんなにも覇気のない声を出したのは、何時振りだっただろうか。フェルドには、そんなことを考える余裕が生まれていた。
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