35.国境沿いにて
――『幻術』は、存在しない
「王子殿下、それは流石に……」
シェイドの苦言も、不敬と断ずることは出来ない。アロン自身、自分が出した結論がいかに信じがたいかは理解しているつもりだった。
しかし、そのうえで、アロンはその結論が間違っているとは思っていない。
「『幻術』が存在しない、というのは語弊がありますが――明確な『始点・終点』の存在する、完成した術は存在していない、ということです」
「続きを聞こう」
「はい。――まず、ディアム国王を含む『幻術』にかかっていたとされる方々の状況から、『終点』と呼べるものがあるのか、という事に疑問が持てます」
ディアムらはどこかのタイミングで突然に『予言者』やその『予言』に対する信頼を失ったわけではないように見える。それどころか、『予言者』についての認識は曖昧になり、時間の経過とともに認識が確立していたようにすら感ぜられる。
その点から、アロンは『幻術』に明確な終わりがあるのか、と疑問を持った。
「そして、シェイドの一件で確信が持てました。『幻術』そのものに『終点』――つまりは明確な形があるわけではなく、いわば『幻術』にかかっているのだ、という『幻覚』の中にいる。それが、『幻術』の正体なのだと」
「それは――単なる『幻術』と違うのか?」
「ええ、大きく違います。『幻術』に終わりがあり、解き方があるならそれを何らかの形で見つけ出さなければならない。しかし、終わりがなく、解き方もないというのなら、恐らくは他のいかなる方法でも『幻術』の解法たりうるでしょう」
「――――」
アロンの進めていく論理に、ディアムは思案顔になる。アロンの語っていることを静かに精査し、どういうことを述べているのか、と咀嚼しているようだった。
アロンとしても、自分の述べることが本質を抽象的に取り出したような突飛かつ分かりにくい論理であることは自覚している。しかし、この論理が正しいのであれば、奪還戦はいとも簡単な戦いになり下がるのだ。
「つまり――明確な答えがないから、全てが答えになりうると、そういうことか?」
「その通りです、ディアム国王。私の推論が正しければ、ですが」
「確かに、抽象的だが理解できない話ではない」
ディアムがアロンの考えを肯定したことに、会議に参加している面々から少なからずの驚きの声が上がった。しかし、続けられたアロンの言葉に、全員の口は閉ざされる。
「『幻術』の解法――一つ確実であろうものは、『矛盾の自覚』でしょう」
アロンは、『幻術』の解法、この会議において最も求められている要素の一つであるそれを、提示した。そして、それにもディアムが首肯を返す。
シェイドの一件がその結論を導き出したのだ。シェイドが『幻術』から解放されたときのきっかけ、彼にとってのそれは、恐らく矛盾にあった。
自分の右腕がなくなった、という感覚と、騎士としての本能で、右腕が受け身を取った、という事実。
その間にある矛盾によって、シェイドは自分が『幻術』という名の籠に入れられているのだと気づいた。その『籠』こそが『幻術』の根幹であり、しかし、その存在に気づくだけで霧散するものだ。
シェイドを中心とした主要戦力で立ち向かい、それでなお敗戦を喫したことで下がっていた士気がアロンの提示した光明によって盛り返す。
「しかし、問題はその矛盾をどのように気づかせるか、だ。――こちらの声が正しく届いているかも分からないが……」
「そしてもう一つ、フェナリにかけられた『幻術』――便宜上、呼称は変えずに置きますが――その内容がわからない間では、矛盾を指摘することもできない。それが、現在大きな問題です」
希望の提示と、同時に生じる現状最大の問題点。
完全な解決には至っていないが、会議は有意義に進んだと言えるだろう。
そして、その問題点に関しては、またしてもシェイドが、解決策を既に持っている。
果たして、彼がそれを解決策であると自分の中で導き出せるか、という問題だが――、
「王子殿下――少し、よろしいですか」
「――シェイド?」
一度、会議は終わったものとして解散が沙汰された。国ごとの方針も立てねばならないという状況で、二国間の要人同士があまりに干渉するわけにいかなかったということだ。
そして、それぞれ国ごとに分けられ、少しの時間をおいて会議を再開する、との旨を伝えられて解散した頃、シェイドがアロンのもとへと来ていた。
「フェナリ様にかけられた、『幻術』の内容に、心当たりが」
「――! 本当か」
「はい。ですが、いくつか辻褄の合わないこともありますので、あくまで推論にすぎず――」
「それでもいい、話してくれ。手がかりはあるはずだ」
アロンは、先ほどの会議を経てなお、まだ希望を得ていない。自らの提示した『幻術』の解法然り、それだけでは決して希望あり得ないとの考えだ。
しかし、ここでアロンにとっての希望の要素が現れる。シェイドから得られる要素、その手がかりからフェナリにかけられた『幻術』の内容を把握できれば、今度こそ希望足り得るはずだった。
「フェナリ様は、私のことを――『怪物』と呼ばれました」
◇
ホカリナ王城での、異例の奪還戦。
国家そのものを揺るがさんとするその出来事、そしてそれが起こっているという事実は、未だ市井に届いていない。
咄嗟のことで、国民にまで情報を回すだけの時間がなかったこと、そしてそんな状況で曖昧に情報を回せば国民の不安を煽るだけであることの二つが原因だ。
しかし、その内実の詳しいところを知らずとも、戦闘の気配を感じたものはいる。
ただし、それはホカリナ国民ではなかった。ホカリナには、気配を探るようなことに長けた武人がいないのだ。
戦闘の気配、それも、遠く離れたところでそれを感じ取ったのは――、
「――まさか、これだッて神算鬼謀のうちッてのかァ? 王族ッてのはこれだからめんどくせェ」
ギルスト国家最高戦力たる『紫隊長』が一人、グラルド卿。
ホカリナ国境沿いの洞窟に現れた低級悪魔の討滅任務に従事していた彼は、遠く離れたホカリナ王城での戦闘の気配を辿って、国境のすぐ近くまで来ていた。
王都までの距離が最も近い国境の地点。
グラルド卿は、そこで足を止めていた。まさか、国境を安易に越えたりはしない。
「『紫隊長』が他国に立ち入るッてのは、戦争の時ぐれェのもんだからな」
グラルド卿に、確信はある。
自分に求められているのは、ここで国境を越え、ホカリナ王城での戦闘に介入することなのだと。
それが、自分の実力に合わない低級悪魔討滅任務の違和感、その正体だったのだ。
恐らく、任務に派遣されるはずの騎士としてグラルド卿だけでなく、騎士団のエースであるシェイドの名もまた含められていたことも、伏線なのだろう。
当の本人であるシェイドは今頃、ホカリナでアロンの護衛任務だ。そのシェイドとの、共同任務なのだということが、暗に示されている。
どこからどこまで、国王の考えの中だったかは分からない。
もしかすれば、何かが起こるかもしれない、という懸念だけでグラルド卿を遣わした可能性すらあるのだ。だから、このことについてもグラルド卿は深く考えようとしない。
ただ、今考えるべきは今後の身の振り方――、
「チッ、考えねェといけねェことは――考えさせろ」
考え事に耽ろうか、とグラルド卿が身を休ませる構えに入った瞬間、肌を、大地を撫ぜた感触があった。
「あれまぁ、これはこれは――」
「今の魔術……一般魔術じゃァねェな?」
現れた人影に、グラルド卿は騎士剣を構えて語りかける。先制攻撃を向けてきたのがその人影である以上、ひとまず相手は敵だと判断しておく。
「ええ、ええ。一般魔術ではありませんですとも。特殊魔術のうちの一つです……が。よく避けましたね」
「俺が誰か、分からずに魔術ぶッ放したか? 違ェだろ」
「ええ、ええ。分かってます、あなたが誰か。ギルスト王国の最高戦力である『紫隊長』の一人、グラルドさんでしたか」
「残念ながら俺ァお前を知らねェが――『紫隊長』の称号と俺の名前を知ッてるんなら、他国の要人の類か」
国家の最高戦力である、ということもあり、ホカリナを含む友好国の要人とは顔合わせをしたことがあるのがグラルド卿含む『紫隊長』だ。
グラルド卿は自国の王族にも殆ど興味を持たないのだから、他国の要人など覚えていなくてもおかしくなかったが――、
「流石に、お前みてェな奇抜な格好したやつを、忘れるわけもねェはずなんだがなァ」
「奇抜ですか。まぁ、それは確かに。私は気に入ってますけどね、誰もが不気味だって避けてくわけで」
突然の魔術による奇襲、それも特殊魔術を用いてのそれを仕掛けてきた下手人は、恐らく一般的に見て奇抜な格好だと言われるだろう。
ただ、彼自身がそれを自覚しているかと言えばそうでないらしいが。
「おっと、お喋りに興じてるわけにもいかないんでした。私にも、ええ、ええ――私にだって、役目というものがあるです」
「それが、奇襲仕掛けてきた理由ッてわけか?」
「ええ、ええ! 私の役目に照らし合わせても、ホカリナにあなたを……『紫隊長』を近づけるわけにはいきませんです」
「はぁ、そうかよ――とも、承諾は出来ねェな」
そもそも、グラルド卿は国境をすんでのところで越えていないのだ。
越えているならいざ知らず、近づいただけで、間違えれば重傷を免れ得ぬような魔術を放たれる、というのは御免被りたい。
「お前の役目ッてのを与えたやつには言ッとけ――これァ正当防衛だッてな」
「それは出来ません相談です。私の主は、既に死んだので」
「そりゃァ、悪かッたな」
国境沿い、『紫隊長』と緑のローブを奇妙に巻いた男の戦闘が、人知れず幕を開けた。
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