特別話『フェナリ・メイフェアス』
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記念という事で、特別話を急いで書き下ろしてまいりました。転生前のフェナリの人生を描いたものです。
※活動報告にて完全蛇足の作者的補足を書いています
まず向けられたのは、失望の瞳だった――。
○ ○ ○
『フェナリ』という名は、メイフェアス家の係累の狂女、『フェナリエ・メイフェアス』のものから取られた名である。
その名は一族の係累として、その名簿にのみ名を連ねながら、しかし誰からも忘れ去られ、歴史にも置き去りにされたものだ。
その名を自分の娘に押し付けて、フェナリの母であるメリエは息を引き取った。
あまりに病弱で、一人の子供すら産めるか怪しい、という状態だったのだ。フェナリを産み落とせただけでも、彼女にとっては奇跡だった。
しかし、メリエは生まれた子供、その性別を知ってただひたすらに、失望した。
メリエははっきりと理解している。自分に求められていたのは、跡継ぎとなる男児の出産だったのだと。自分を愛してくれる伯爵が求めていたのは、息子なのだと。
フェナリの出産直後、メリエは悟った。自分は、これ以上子供を産めない。否、これでもう死ぬのだと。
――伯爵からの寵愛を踏み躙り、
――求められた務めも果たせず、
――失望の娘を授かり。
その失望、残酷な事実に打ちのめされた末の、その失望は、メリエを狂わすのに十分だった。
フェナリを産み落として、一族がその面倒を見るのに大忙しだった中、メリエは自分の病床を抜け出した。
その時には既に、死に体だった彼女を突き動かしたのは恐らく、狂気だ。
メリエは伯爵の執務室、そこに大事にしまわれた一族係累の名簿を取り出し、最も下の列に、名前を書き足す。
――『フェナリ・メイフェアス』と。
その名簿に一度書かれた名前は、一族からの除名処分を受ける以外では変えられないと、その事実を知っていた女の、最後の狂気と復讐だった。
メリエの凶行と、その死に伯爵が気づいたのは、翌日の朝だった。
○ ○ ○
「――この子に、魔術の才は、ありません」
生まれてその日に、狂気の名を押し付けられた少女は、数多の失望を、ただひたすらに背負っていた。
貴族の多くがその多寡を問わず持っており、持たざるものは時に除名処分を受けることもある――魔術の才。それを、フェナリが持っていないと分かったとき。
当然、フェナリの身にはまた一つ、失望が積み重ねられることになった。
しかし、今さら一つ増えたところで、その重みはそう変わるまい。物心がついてすぐのフェナリにとっても、もはや自らがいの一番に諦めていたことで、気にするべくもないことだ。
「『失望の娘』ね」
「あんな子のために、仕えるの?」
「今後、一生? 冗談じゃない」
ただ、少女その人が諦めていること、気にしないように努めていること、と言っても周りもまたそうであるかといえば、そうでない。
彼女に仕えるメイフェアス家の侍女たちの中では、自分たちが主人と仰ぐ少女に才も価値もない、という事実は酷く矜持を傷つけるらしかった。
下流から中流の貴族令嬢が従事するものとして人気の高い、侍女という役職。だからこそ、侍女として働くものは誇りを持っている。
その誇りを傷つけられた、と――その失望もまた、フェナリの背負うところとなった。
「――侍女たちは解雇した。安心しなさい、フェナリ」
「これからは、我々が少数精鋭で、お嬢様付きの侍女として働きます」
少女にとって幸いだったのは、父であるメイフェアス伯爵がフェナリのことを愛妻の命を奪った『失望の娘』として見たのでなく、一人の愛娘と捉えたことだった。
それにしても庇いきれぬ、気難しい失望の目はあるが、彼の存在がそれらの視線からフェナリを覆う庇となったことは間違いない。
そうして、フェナリに失望の視線を向ける侍女たちや使用人が一斉に解雇され、メイフェアス家の邸宅が静かになったのはフェナリが十歳の時だった。
しかし、その措置はフェナリの助けになりながらも、少しばかり遅かった。
「――――」
フェナリの瞳に、もう希望だとか期待だとか、そういった色は無かった。
それは、失望ばかりを背負わされた少女の行き着く結末としては何ら不思議ではないもので、同時に行き着いてはならない、最悪の結末だった。
○ ○ ○
「――フェナリ、王子殿下との婚約、受けてくれるか」
「はい――お父様が願われるなら」
「――。そうか、ありがとう」
フェナリの瞳、色の抜け落ちたそれを前に、メイフェアス伯爵は自らの失策を悟らざるを得なかった。
どこで間違えたのかなど、心当たりがありすぎる。問題には対処してきたが、そのどれもが遅すぎる後手の対応だったのだと、今更に気付かされた。
「メリエ……私には、お前が分からない」
亡くなったメリエは、伯爵にとって愛する女性だった。否、今もずっと、愛している。だからこそ、彼は世継ぎの問題を先送りにして、メリエの後妻を迎えようとはしていなかった。
しかし、時に――メリエの最後の凶行を思い出せばこそ、伯爵は彼女のことがわからなくなる。
何故、メリエは自らの娘に狂気を押し付けたのか。
病弱で、病床から出ることもそう多くはなかった。子どもを産むという決断も、死を目前にして焦ったからであろう。そうでなければ、その一回の体力すら、彼女には求められない。
そんな彼女が、最後の日には病床から這い出て、フェナリに狂気と失望を呪いとして押し付ける、ただそれだけのために体を動かしたのだ。
伯爵が愛した女性は、まさか自らの失望を娘に押し付けるような人間ではなかった。だからこそ、伯爵にはメリエが分からない。自分が愛していた女性は、最後の一日だけ、何かに憑りつかれていたのではないか、とすら思えるのだ。
伯爵の懊悩は途絶えることなく。。しかし、断ち切らねばならぬものでもあった。
愛妻の死と、最後の一日だけ狂ってしまった愛妻の姿。そして、愛した妻によって愛する娘が弱っていく様。何もかもが、伯爵にとっては懊悩の種であり、彼を弱らせる要素ばかりだった。しかし、それではいけない。伯爵という爵位を持ち、ギルストにおける上流階級の人間である彼には、弱っている状況など許されない。
だから、彼は自らを変革した。謀略、策謀、計算、そう言ったものに頼り、人の裏を見て、自らの裏を隠す。そうして、貴族としての立場に固執しながら――いわゆる『狸爺』と言うようなものになっていった。
しかし、伯爵はそのことを恥じてはいない。全て必要なことなのだ。
フェナリは第二王子との婚約を承諾した。これから、フェナリに向けられてきた失望の視線は、羨望や嫉妬の視線などを巻き込んで、全てフェナリに降り注ぐことになるだろう。
その視線を、全て払い落とすことは伯爵にもできない。しかし、せめて愛娘にしてやれることとして、その纏めて『嫌悪』と呼べる視線を、自分にも向ける。そうすれば、フェナリに向けられるそれも、少しは薄らぐのだと信じて。
内外問わず、伯爵は『狸爺』を演じた。
そうすることで、愛娘が少しでも生きやすくなるなら、と――。
○ ○ ○
フェナリが第二王子であるアロンと初めて顔を合わせたのは、フェナリが十四歳になって間もなくの頃だった。
初対面の印象は、お互いに良くもなく悪くもなく、と言うような平凡なものだっただろう。アロンは見た目通り、噂通りの知的な青年だったし、フェナリもまた、アロンにとっては前情報と何ら差異のない少女に映ったに違いない。
噂と違わないだけの平凡な少女だ、と思われることが策の内だった、などということは言わないが、もしもアロンがその平凡さに辟易して婚約を破棄する、というのならその決断を歓迎しようと思ってはいた。
父であるメイフェアス伯爵――フェナリとアロンの婚約を、貴族の中では唯一望んでいたであろう彼には申し訳ないと思う。もしかすれば、彼が初めて失望するのは、フェナリがアロンから婚約破棄を叩きつけられたときになるのかもしれない。そうは思いながら、フェナリはやはり、王子との婚約などと言う重役を務めたいと思えなかった。
「――私は、何も持ちえぬ一人の女に過ぎません」
フェナリがそんなことをアロンに告げた時、彼の顔が悔しさに歪んだのを、確かに憶えている。何故、嫌悪感や呆れ、失望と言った視線を向けるのではなく、何かを悔やむような表情を浮かべるのか、と疑問に思った。
自分の価値を、ただ自己評価したままに伝えた、ただそれだけのことで――。
「フェナリ嬢――貴族を集めての茶会があるのだが、もし良ければ私と共に……」
「光栄なお誘いなのですが……私は、貴族の方々に好意的に見ていただけませんので。――王子殿下の、ご威光を翳らす訳にもいきません」
そうして、アロンからの誘いを断ったことが何度あっただろうか。
アロンはそのたび、寛大な心でフェナリからの断りの言葉を受け入れていた。しかし、そのたびに彼の表情は悔しさに歪んでいて。それがやはり、フェナリには理解できなかった。
○ ○ ○
「――ごほっ、っ……はぁ」
フェナリは、病を抱えていた。
母親から遺伝した病弱さを、フェナリもまた背負っている。そのせいで、幼少期は何度も医者を邸宅に呼び、看病され続ける日々が続いた。しかし、物心がつく頃には、その医者が来る頻度も少なくなり、フェナリが心を閉ざすのとほぼ同時期に、医者は来なくなった。
フェナリが、自らの病弱さを、隠し始めたからだ。
――フェナリは、失望を背負い続けている。
どれだけの失望の視線を受けても、最早気にせず、何もないこととして日常を過ごし、しかしフェナリはその心中、ただひたすらに失望の視線を受けない方法を模索していた。
自分は、何も悪くないはずなのだ。自分が男児でないこと、魔術の才を持って生まれなかったこと、自分が生まれたと同時に病弱な母が死んだこと。どれもが、フェナリのせいでは決してない。
だが、言われ続ければそれは、事実になる。
フェナリが、それらすべてのことについて悪となる。ただ、フェナリが悪かったのだ、という事になる。その事実が、フェナリが悪であるというそのことが、フェナリの心を段々と蝕んでいく。
もう、失望の視線を受けたくはない。
だから、自らの病弱さも隠したのだ。もとより色白で、心を閉ざしたこともあって控えめな表情ばかりを浮かべていたフェナリは、ただ元気なのだ、と申告すれば、それだけで信じられた。それは幸いだった。
病弱である、という事実に誰かから失望されるの事のないように、フェナリはその事実自体を隠したのであった。
「ご、ほっ……げほっ」
その口から、咳と同時に血が飛び出た瞬間、フェナリは自らの死が近いことを覚った。
あまりに、早いことだと思った。病弱だった母でも、自分を産み落とすまでは死ななかったというのに、その娘であるフェナリは、結婚の儀も果たさぬままにその命を散らそうとしているのだ。
しかし、そんな状況になってなお、フェナリは周りに自らの病気を隠し続けた。
それは、自分を唯一初めから最後まで失望せずにいて続けてくれている父も同様である。否、そんな父であるからこそ、フェナリは事実を伝えられずにいたともいえよう。
「人知れず、生きて――人知れず、死にたい」
どちらも、フェナリには叶わない願いだろう。
結局、自分の人生で何かを得られたのか、とフェナリは床に伏して考える。
最近は家庭教師との勉強の時間も減り、自由時間が増えたため、フェナリは一日を寝て過ごすことが増えた。これは、怠惰の証ではない。そうしていないと、身体が休まらないのだ。
病弱の体には、少し体を動かすだけでも気怠く、一分一秒と寿命が削れる感覚がするものだ。
「今日か、明日か――はたまた、明後日か……」
フェナリは、呟く。
いつ、自分は死ぬのだろうか、ということを考えながら、呟く。
そう言えば、アロンから茶会の招待が来ていたのだった。貴族を含めた茶会というのはフェナリが頑なに断るものだから、ある時からは二人だけの茶会が開かれるようになったのだ。
それならばフェナリも断る理由がないので寛大な招待に甘えてきたが、次回の茶会には生きたまま参加できるだろうか。
――駄目だ、ネガティブになってきた
そうは思うが、よくよく思い返してみれば自分がネガティブでない考えを持っていた時など、あっただろうか。ずっと、沈んだ考えばかりで、明るかった時など、無かったのではないか。
「本当、どうしようもない……」
思わず、自嘲の言葉が漏れた。
失望の視線ばかりを受けて、自分は失望されるのが当然だと思いながら失望されるのはやはり嫌で、どうにか避けたいのに、やはり失望ばかりされて――。
少女に、逃げ道など、無かったのかもしれない。
○ ○ ○
「――フェナリ、少しいいか?」
「お父様……? どうぞ。何か、ありましたか」
己が命、死せるのは散るのは、いつになるやらと、そんなことを考えていた少女の部屋の扉は、優し気な声と共に叩かれた。
その声に、驚きと困惑を乗せた声で応じながら、フェナリは布団の中で体を起こす。時間も時間なのだから、部屋の中で少し布団に入っていること自体はおかしくない。しかし、少しでも自らの病弱さに気づかれる要因を排除しようとした末の考えだった。
部屋に入ってくる父に椅子をすすめ、自らもローテーブルを挟んだ向かいに座る。
そうして、静かな時間が過ぎていく。父は、要件を急いでいるようには見えなかった。
「――少し、見せたいものがあってね」
「それは……手帳、ですか?」
ほどなくして、柔らかく切り出した父は、懐から一冊の手帳らしきものを取り出してきた。あまり新しいようには見えない。それどころか、かなり前――数年単位で使い続けていそうな、古びた手帳だった。
両手を重ね合わせたくらいの分厚さを持つそれを大切そうに膝の上に置き、その頁をゆっくりと捲っていく。その伯爵の手には、幾らかの愛しさのようなものが籠められていて、しかしそれだけの気持ちが込められているのであろう手帳の中身には、フェナリも心当たりがない。
それだけの気持ちを込めるのであれば、愛した妻、メリエについてのものだったりするのだろうか。
「これは――お前が幼い頃から書き綴ってきた、日記のようなものだよ。フェナリ」
「日記――です、か」
父から、頷きが返ってくる。
予想もしていなかった。父の持つそれが、日記であるという可能性を、ではない。自分に関するそれだと、フェナリは予想していなかったのだ。
「フェナリが産まれた日から、特に忙しい日を除いての毎日。それだけの記録が、ここにある」
「――――」
それは、フェナリに向けられた父からの、感情の記録と言い換えられる。
その、日記。感情の塊であるそれが、自分にとって嬉しいものか、喜ばしいものか――それとも、否か。フェナリには、分からなかった。
「――例えば、ここだ」
フェナリの逡巡に近い思考を知らず、父は日記の頁をはぐってゆく。そして、その一つのところで指を止め、フェナリに、日記の中身を、差し出してくる。
ふと、日記に視線を向けてみれば、そこには自分の誕生日の日付が書かれていた。
○ ○ ○
フェナリに、誕生日の記憶などない――。
誕生日、というものを、本当に祝われたことがないのではない。けれど、フェナリの中に、誕生日に関わる記憶は存在しなかった。
「フェナリが誕生日を迎えた日は毎年、小さなケーキを用意していた」
そう言いながら、父はその日を想起しているらしく、天井を仰いでいた。
フェナリもまた、父に倣うように天井を仰ぐ。そこに、自らの閉じられた記憶が映るような気がして、はっと視線を落とした。
「貴族の家で行われる誕生の祝会としては、ケーキが一つなど、そう多いものではない。実際、昔も今も、より相応しい祝会を開くだけの力が、この伯爵家にはある」
貴族、というのは努めて華美な生活を送るものだ。それが彼らの矜持を守るため、自らの権力や財力を誇示するための当然の行動なのだ。
しかし、メイフェアス家で、その一人娘であるフェナリの誕生日には小さなケーキ一つだけが用意されていた。それは、財力の不足などが理由ではない。
「――静かな一日。幼かったフェナリが、望んだものだ。勿論、気が変わったならいつでも豪華絢爛な祝会を開けるけれどね」
それを望むかい? と尋ねられ、フェナリは否定の意を込めて静かに首を振る。
そうだ。フェナリは、物心がついてすぐの頃に、確かに静かな一日を望んだ。だから、華美を至上とする貴族の生活の中で、唯一質素で、静かな日が生まれた。
それも、フェナリは忘れていた。いや、その記憶に、蓋をしていたのだ。
「静かな一日――フェナリらしい願いだ。だから、今年も、それを用意した」
「ぇ――」
「誕生日おめでとう、フェナリ。――私の愛しい娘」
先んじて用意され、静かに取り出された紙包みが、父からフェナリに渡される。
それを、小さな声にもならないものを漏らしながら、フェナリは慎重に受け取った。
――今日は、自分の誕生日だったのか。
忘れていた、と言えば失望、されるだろうか。
いや、父は、そんなことで失望はしないだろう。ずっと、父だけは自分に失望しなかったのだ。
失望され続けて、忘れていた、その温かさ――それは、確かに父から与えられた、愛だ。
「ほら、フェナリ」
「――ぁ、ありがとう、ございます……」
父から差し出されたハンカチが目の前でぼやけて揺れているのに気づいて、初めてフェナリは、自分の目が濡れているのだと気づいた。
忘れていた、ことばかりだ。
フェナリは、決して失望され続けていたわけではないのだと、それすらも忘れていた。
勿論、失望の視線を色濃く向けられていた事実は変わらない。変わらない、が――それ以外の視線を、まったく向けられなかったわけじゃない。
少なくとも父は、否――使用人の大解雇を経ても残った侍女たちは、自分のことを、
――愛して、くれていた
○ ○ ○
――だから、嫌だったのだ。
ほとほとと涙を流すフェナリを、父は静かに宥めて、夜が遅いから、と静かに部屋を出て行った。最後まで、その表情は柔らかく、何にも増して、その瞳には愛しさが籠められていた。
そのことに気づいてしまった自分が、フェナリは嫌だった。自分が愛されている、ということも、今更、知りたくはなかった。知っては、いけなかった。
「――死ぬのが、こわい……っ」
ずっと、死を覚悟して、自らの病を隠し続けて、病気が治るかもしれない可能性を自分から放棄していた。そうして、手に入れてきた周りの安寧。それを、揺るがしてしまいかねない程、死への恐れとは強い。
父には、まだ気づかれていない。侍女たちにも、気づかれないように徹してきた。まだ、大丈夫だ。それでも、明日もまだ、気づかれないのか。明後日は、または一週間後は?
いつか、自分の病に気づかれるかもしれない。そうなれば、自分は生きているという事に固執するようになってしまう。
死に対する恐れを捨ててきたはずのフェナリが、初めて死を恐れた瞬間だった。
「――――っ」
自らに向けられる愛を自覚して泣くのも、今日が初めてで。何かが怖くて涙を流したのも、フェナリにとっては今日が初めてだった。
布団の中に入り、侍女たちも恐らくは寝ようとしている頃だろう。元々静かだったメイフェアス家邸宅が、今は本当に何の音も聞こえないほどに静まり返っていた。
静かすぎて、耳には正体も分からない高音が鳴り響く。
静かすぎる空間に、カーンと、音が、鳴り響く。
その音を、煩わしく、同時に愛しく思いながら――フェナリは、眠りについた。
それは、目覚めのない、眠りだった。
『人知れず、生きて――人知れず、死にたい』
フェナリは、その願いを半分叶えた。
暗黒の眠りは、そのまま死へと少女を誘い、彼女自身も知らないうちに、その身を暗澹たる闇へと引きずり込んだ。
――そして、それは『器』としての資格を満たしたと同義だ
少女が、死ぬ。同時に、少女が、降りる。
――愛を知らずにいて、最後の一日に知ってしまった少女は、
――愛を知らぬまま、その命を謀りのために堕とした少女に。
少女と少女が、重なり――少女自身も、周りの人間の誰も知らないまま。
そうして、少女は生き続ける。
――『フェナリ・メイフェアス』は、生き続ける。
『フェナリの人生が認められますように』との願いを込めて、場面転換は『○』にて。




