15.「守らねばならない」
「久しぶりだなァ、こうやッて相対するッてのも」
「そうだな、最近は公務が忙しく、鍛錬をしている時間も少なかった」
剣舞の実演のため、騎士団演習場で三人で稽古をした日の夜。
一度王城に戻ったはずのアロンは、再度騎士団演習場に戻ってきていた。
本来ここで鍛錬を行っているはずの騎士たちも、今は仮眠をとっている時間だ。そもそも、グラルド卿が貸切っているこの場所に入ってくるものは誰もいない。
「しッかしまァ、そんなに嫌だッたか? 嬢ちゃんに負けたのが」
「嫌、と言うわけではない。フェナリ嬢の強さは、私とて知っていることだった」
「ま、そもそも王子とあれだけ打ち合ッてるだけでバケモンだろォな」
貴族の中で、あれほど剣の途に優れた者はいるだろうか。ましてや、貴族令嬢の中で。
それこそ、フェナリ位のものだと思う。これが普通なのではないし、そのフェナリに敗北したことがそのまま王子の矜持を傷つけることにはならない。フェナリが異常に強いだけなのだから。
「理由は何だッて良い。ま、打ち合おうじゃねェか。一回剣を交えれば気も楽になるだろ」
「そうだな、それがいい」
慣れた様子で、二人とも木刀を握ってそれぞれの定位置に立ち、構える。
何度だって、ここに立ってきた。何度だって、目の前の男と相対してきたのだ。
「では――参るぞ!」
「あァ、来いやァ」
王子の踏み込みとともに、力強く剣が振るわれる。フェナリとの打ち合いの時とは違う、受け身ではなく積極的な剣筋だった。積極的に、攻撃的に、アロンは剣を振るう。縦に横に、斜めに。
それらの剣戟を、グラルド卿は何てことは無いようにして受け止め、いなし、躱して見せた。
『紫隊長』の名は伊達ではない。騎士の中でも最強であり、国家の最高戦力と名高い彼だ。アロン相手であればすぐにでも仕留められる。しかし、それはしなかった。アロンの剣筋を無言で、剣の打ち合いによってのみ矯正していく。間違った形を正しい形に直していく。
昔から、そうだった。と言うより、少し前まではそうだったのだ。
グラルド卿は、アロンの剣の鍛錬相手であり、講師であった。グラルド卿も当時は裏家業上がりであり、王城の人間からは毛嫌いされていた。信用などされていなかった。同時に、そんな人間からの指示を、グラルド卿は聞くことが無かった。
グラルド卿が聞いた命令は、全てがアロンからのものだ。それは当時から変わらない。だから、周りの人間はグラルド卿をアロンの近くに置いておくしかなかった。そうでないと、いつ王城の中で暴れ始めるか分からなかったからだ。
そうして、グラルド卿はアロンと長い付き合いとなったし、悪友ともなった。
少し前まで――第二王子が公務に携わることになるまでは、アロンの剣の筋を見てやることも多かったわけだが、アロンも言うように最近ではその時間も大してとれていなかった。
そんな中、アロン自らグラルド卿に鍛錬を頼み込んだのだ。
「昔ッからそうだよなァ、王子は」
「何……がッ」
「感情を制御してる様に見せて、実際は心ン中に閉じ込めてるだけだろォが」
「ッ……ああ、そうだなッ」
「心ン中に隠そうが、剣筋はそれで乱れンだよ」
グラルド卿は、そう言いつつ――アロンの持っていた剣を軽く弾き飛ばした。
ずっと受け身だったグラルド卿の急な攻撃に、アロンは咄嗟の対応が出来ない。それが、制御しきれていない感情による、剣筋と判断の乱れだ。
グラルド卿の言うことは、全くもって正しい。それがアロンにだって、分かっている。だけれど、それを認めることは、出来なかった。それを認めてしまえば、自分は今以上に感情を制御できなくなる。それは、主に社交界などで大きな支障となる。それだけは、避けねばならなかった。
「はァ……王子ッてのは面倒いモンだよなァ」
「すまないな、こんな状況で」
「……王子は、俺のことを何だと思ッてる」
「グラルド卿のことを……? 卿が以前に言った通りだ。『悪友』だよ」
グラルド卿は以前から自分の事を悪友として扱うように、と何度も語った。
その理由を、アロンは察することは出来なかったが、何も断る理由はなかったので二人しかいないときのみそのような扱いをすることとして決めていた。だから、アロンにとってのグラルド卿は間違いなく悪友なのだ。
「歳は地味に離れてるが……それでも悪友だ。悪友にまで気を遣ッて、それじゃァ悪友じゃねェだろォが」
「……ふぅ、ああ、そうだな」
グラルド卿の言葉に、アロンは少し不思議そうな表情をしてから、次第に納得したように小さく頷き始めた。グラルド卿は、口調は激しくも、自分にまで気を遣って疲れを溜める必要はない、と諭してくれている。心配されているのか、とアロンは苦笑した。グラルド卿に心配されるようなことがあるなどとは、アロンも想像していなかった。
「感謝する、グラルド」
「……あァ、んで? 何を抱えてやがんだ、アロンはよォ」
打ち合いで使った木刀を片付けながら、グラルド卿がアロンに尋ねる。
アロンは衣服に砂が付くのも気にせず、地べたに座り込んでいた。軽く掌を砂粒に這わせ、手の平の上に一握りの砂を取り上げる。そして、指の隙間から漏れ落ちていくそれらを見ながら、アロンは口を開いた。
「私には、『守らねばならない』ものがある。それは王子としての矜持であり、民であり、婚約者であるフェナリ嬢であり――最近、そう言ったものが自らの掌から抜け落ち、漏れ落ちていく感覚に襲われることがある。グラルドも、今日実感しただろう。フェナリ嬢は、何故なのかは知らないが、私とは比べられないほどに強い。私が守る必要がないほどに、だ」
「あァ、確かに嬢ちゃんは強ェな。今回の護衛役、俺じゃなくあの嬢ちゃんで十分だろ」
「それでは、いけないのだ。私が守らねば、ならないのだから……」
フェナリは、アロンよりも強い。
これは厳然たる事実であって、揺らぐことのないことだ。アロンもグラルド卿も、それは事実として認識している。しかし、アロンはその事実を許容したくはないのだ。
自分が、フェナリを守らねばならない。そのためには、フェナリが自分より強くあっては困る。
「何だ、王族ッてのは全員そうなのか? そうじゃねェだろ」
グラルド卿は、アロンの言葉に否定を返す。
グラルド卿の瞳は、奥が深く、深淵に繋がっているかのように見えた。裏家業として、王族が経験することのあり得ないようなことを経験し、騎士団の『紫隊長』として綺麗事だけではやっていけないような世界も見てきた――そんなグラルド卿の瞳。
今、アロンの目の前にいるのは悪友としてのグラルドか、いくつもの修羅場、死線を潜り抜けてきた『紫隊長』としてのグラルド卿か。
「まず、教えてやる。お前に、『守らねばならない』ものなんてねェ」
「いや、しかし……ッ」
「最後まで聞けよ。お前の言う王子の矜持だとか、民だとか、婚約者の嬢ちゃんだとか、そういうのから、『これを対価として差し出すので、守ってください』なんて言われたのか? 言われてねェだろ。なら、そこに義務はねェはずだ。俺の場合は違う。地位と権威、そして当然、賃金をもらッてる。だから、民を『守らねばならない』ンだ」
「しかし、私だって王族としての地位や権威を受けている」
「生まれた瞬間からくっついてきたモンだろォが、そんなもんは。じゃァなんだ、俺は生まれた時から貧民なんだから貧民らしく生きとかなきゃならねェのか?」
グラルド卿の言葉に、アロンは何も返すことが出来ない。
グラルド卿の言葉を、否定することは出来なかった。それは、選民主義の象徴ともいえるような考え方であり、公平性を保つべき王族にあるまじき考え方だからだ。貧民に生まれたから、一生貧民でなければならないなど、そんな事実があってはいけない。
しかし、グラルド卿の言葉にそのまま納得するのも出来ないことだった。王族と言う立場も権威も、確かに生まれた時から手に入れているものだ。が、生まれがよかったから代償も何もなく良い生活をしていればいいのか、と言えばそれこそ違う。
「あァ、賢いアロンなら分かるだろォな。こりゃ詭弁だ。けどな、そうでも思わねェとお前は自分を縛るだろ」
「それは……」
今度だって、アロンは否定の言葉を探そうとして、やはり無理だった。
グラルド卿の言葉は真実だ。実際、今の状況で、アロンは自分を縛っている。それは自分の感情、行動を制限する堅い鉄の鎖だ。
「俺にお前を縛る鎖は解けねェ。それは、俺の役目じゃない。それでも、覚えとけ。『守らねばならない』じゃなく、『守りたい』だ。守ることに義務なんてない。本来なら、俺だって民を守って救う義務はねェんだ。俺本人にはそんなモンあるわけねェ。『騎士団』という組織にその義務があるだけで、な。お前も同じだ、アロン。『守りたい』モンを守れ」
「グラルド……『守りたい』もの、か」
「そうだ。それに、それは何もお前が守らなくたッていい。お前が守るべき状況はどこかで絶対に来る。そン時だけは間違えるんじゃねェ。その時に守れねェなら、それは死ぬほど悔やめ」
自分が、守らなければならない。その意識に囚われて、本当に守るべき時に守れないのであれば本末転倒だ。自分が必要とされるときは必ずいつか、訪れる。その時に、自分が守ればいい。そして、その時がいつ来るか分からないのだからいつでも守れるように、意識を張り巡らせていればいい。
「ありがとう、少し気が楽になった」
「なら良かッたな」
アロンは、まだ自分を縛る鎖を解けたわけじゃない。
グラルド卿には、その鎖を解くことが出来ない。それは、悪友の役目じゃない。
もし出来るなら、自分の鎖を解いてくれたこの少年の鎖は、自分が解いてやりたかった、とグラルド卿は思う。しかし、それは今になっては不可能なことだ。自分に出来ることは本当に彼の鎖を解いてくれる人の元に彼が向かえるように道を整えることだけ。
――後は頼んだ
グラルド卿は、諦めてしまったわけじゃない。
自分より適任の人間に、自分の役目を譲っただけのことだ。
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