十四話 出航
しっぽり
横開きの扉を横に滑らせる。からり、と乾いた音を立てて開いたその奥からはもうもうと白い湯気が溢れ、肌にしっとりとした温かさを残して流れていった。
「わぁっ……」
湯気の先には、今までのどの風呂とも違った趣が満ちていた。
ごつごつとした岩で縁取られた泉からはもうもうと湯気が立ち上っている。周囲は青々と茂る木々で覆われていて、野外のはずなのにそれもあまり気にならない妙な居心地の良さだ。
いつのまにか沈んだ夕陽に照られて茜色に染まる水面は、なんとも言えない雰囲気を醸し出している。確かにこれは他の風呂とは一味違う。これが温泉……!
湯船にはちゃぷちゃぷと浮かぶシャリテとイズモちゃんの姿。よほど気持ちいいのか、とんでもなく緩んだ顔を晒してしまっている。
「じゃ、早速私も——」
岩場に腰掛け、爪先を湯に浸す……ちょっと熱めかな。でも、これくらいが外の温度差がある分丁度いいのかも。
そこから更に体を沈めていき、太もも、腰、胸までを浸す。
「お、おお〜〜ッ……」
熱い湯が、くたびれた体に染み渡る。お湯自体にそこまで特別な何かがある訳じゃ無いんだろうけど、この雰囲気っていうか、ロケーションっていうかが相まって、なんだか癒される。
「ふひぃ……」
……思えば、ここに来て一週間ちょっとで色々あったなぁ。船でここに来たら、イズモちゃんと会って、遺跡行って、大暴れして。そうして——
「ソワレさん。お隣、良いですか?」
——この子と逢って。
ちゃぷちゃぷとこちらに歩いて来たシャリテが、私の横にとぽんと腰を下ろした。そして何を言うでもなく、ただゆったりと温泉を満喫している。
「……ね、シャリテ」
「ふん? 何ですか、ソワレさん」
「その……今更こんなこと言うのもアレなんだけどさ、本当に、私と一緒に来ても良いの?」
ごにょごにょと尋ねると、途端に表情を濁らせた。
「やっぱり駄目、なんですか?」
「いやいや、違うよ! 付いて来てくれる事は、すごく嬉しい。でも……」
「でも?」
「ほら、あのモブだかキャラだかっていう変なチンピラに襲われたでしょ? 旅をしてるとそんな事しょっちゅうだし、やっぱり心配だなあ……って」
そこまで言ったところで、しとりと私の体に寄りかかって来た。ふにょりと柔らかい体の奥から、微かに鼓動を感じる。
「私、ソワレさんに会えて良かったと思ってるんです」
「え?」
「よく分からない真っ暗闇から助け出してくれて、一緒にお買い物したり、ご飯食べたり……あっ、違うんですよ!? 別に、お洋服を買ってくれたからって訳じゃ無いんです!」
一人で勝手に慌てふためき、えへん! と水面を波立てて仕切り直す。
「だから、そのう……そ、ソワレさんと、これからも一緒に行きたいんです! 人形術も人形劇も覚えて、一緒にお金稼げるようになって、一緒にお買い物して、一緒にご飯を食べたりしたいんです! これから、ずっと!」
少しづつ声を荒げ始め、同時に感じる鼓動の間隔が狭まって来た。顔を真っ赤に染め上げて尚、言葉を懸命に選んで紡ぎ続けている。
「お誕生日にはプレゼントもあげたいし、一人でお留守番して、ソワレさんが帰るのを待ってみたりもしたいんです! その、家族みたいな、事が……!」
感極まったのか、シャリテの瞳から大粒の涙が溢れ出す。まるで溜まっていた感情が一気に吹き零れていくかのように流れ落ち、湯の水面にいくつもの波紋を立てる。
「ごめんね、シャリテ」
「ふえ……?」
「そんなに真剣に私と来たいって思ってくれてたなんて、知らなかったんだ」
くしゃくしゃっ、と金色に輝く癖毛を撫でる。しっとりと濡れた毛先が、指の合間をさらさらとくすぐる感触が心地いい。
「でも家族みたいな、じゃなくて、これからは家族だよ」
「ソワレさん……!」
「私の人形劇場の、栄えある一人目の劇団員だよ。これからよろしくね、シャリテ」
「……劇団員……」
……なんだか微妙な表情だ。劇を見ているお客さんがたまにする、『思ってたセリフと違う……』みたいな顔に近いものを感じる。
「え、ええと、なんかまずい事言った? 私……」
はぁ。と短いため息が水面を押す。一瞬俯いた後、優しい微笑みを私に向けながら、口を開いた。
「はい。これからよろしくお願いしますね、劇長さん」
そう言葉を交わしている最中、南の空から遠い角笛のような音が聞こえた。
「あー! 見てください! ソワレさん、あれ!」
「んー? どれどれ……ああ、飛鯨船か」
指差す先を見ると、飛鯨船の影が茜に染まる空に小さく黒点を落としていた。徐々にビスクに近づいて来ている。交易品を運ぶ定期便だろうか?
「わぁ……おっきいなぁ……!」
「ふふん、後数時間後には、私達もあれに乗るんだからね?」
「ふぉおー! そうでした! わああ、楽しみだなぁ……!」
どうやらこの子は根っからの旅好きのようだ。護身用の人形術もこれから行きの船の中ででもみっちり教え込む予定だし、色々心配しすぎたかな。親っていうのは、きっとこんな感じなんだろうか。
「さ、まだまだ時間あるし、もうちょっとのんびりしよっか」
「そうですねぇ……あ、そうだ」
不意にざぶんと立ち上がると、伸ばした私の足に跨ってそこに腰を下ろし始めた。
当然のようにこちらを向いて胸にしなだれ掛かるシャリテ。なんだか『あの時』を思い出す光景だ。
「ええと……ちょっと暑いんだけど?」
「ごめんなさい。でもなんだか、たまにこうしたくてムズムズするんです……なんででしょうね?」
不思議そうに首を傾げているが、その目にはあの時の片鱗が見え隠れしている。瞳の奥に誘惑の魔術がかかっているようなその眼差しを見ると、なぜか——
「ひゃっ」
だらりと力の抜け切った白くて細い腰を抱き寄せる。不意打ち気味の私の行動に、少し驚いているようだ。
「もうちょっとだけ、のんびりしよっか」
そうして私たちは、ぱちゃぱちゃと砕ける温かな波の音に耳をそばだてながら、時間が過ぎるのも忘れて過ごした。
備え付けられた居間で適当に時間を過ごし、とうとう出航の時間が訪れた。
詰所でイズモちゃんと別れた後、私達二人は荷物をまとめて港へと向かう。
深夜という事もあってか、船の周りにいる殆どが乗組員で、乗客は私達と数人の行商人だけらしい。
「お見送りは無しかぁ。ちょっと寂しいね」
「しょうがないですよ。みなさんお仕事忙しいみたいです」
「それもそっか……じゃ、乗ろっか。すみませーん」
「はーい!」
適当にその辺にいた乗組員さんに、イズモちゃんから貰った通行手形を見せ、乗船する。
甲板に上がり、欄干に手をかけて夜に沈む街を二人で眺めていると、不意にシャリテが話し出す。
「これから行く所は、ソワレさんのお家があるんですよね?」
「ん、ああ、そうだね。多分しばらく帰ってないから汚ったないと思う」
「ふふん、頑張ってお掃除しますよ!」
「へぇ。頼りにしてるよ」
むん! と張り切るシャリテの頭をくしゃくしゃと撫でていると、船首の方から鯨の鳴き声が響く。出航の合図だ。
「もう出ちゃうんですね……なんだかやっぱりちょっと寂しいです。イズモさんともうちょっとお話ししたかったなぁ」
寂しそうに、しみじみと話すシャリテ。なんだかこっちまで寂しくなってくるけれど、旅に別れは付き物、切っても切れない存在だ。
「大丈夫。旅してればまたそのうち会えるよ。さ、部屋に入ろう。寒くなるよ」
「はい!」
手を繋いで二人で船室に戻ろうとしたその時、視界の端、夜の闇の中で何か蠢くものが見えた。
「んん……?」
恐る恐る近寄って見ると、船の帆が張られている柱の物陰で何かが動いた。月が雲に覆われていてよく見えないけれど、まさか盗賊とかの類だろうか。
「シャリテ、そこでちょっと待ってて」
そう言いつけ、柱の反対側をそろりと覗き込む。ちょうどその時、雲の切れ間から月が顔を出し、目の前の何かを明るく照らし出す。
——尻だ。それもただの尻ではなく、ものすごく既視感がある。
「あうう、無い……無い……」
尻からは悲しげな声が聞こえてくる。何かを探しているようだ。ていうか——
「……何してんの、イズモちゃん」
声をかけると、尻の奥から顔が覗く。白く長い髪と、赤い瞳。
「あ、あった!ああ、ソワレ殿か。また会ったな」
「いや、なんでここにいんのよ……仕事は?」
足元から小銭を摘み上げ、むくりと立ち上がってこちらを見つめる。いつもと変わらない、凛とした、それでいてちょっと間の抜けた笑顔だ。
「ああ、今まさに任務へと向かう所なんだ」
「はあ?」
「ロゼに放った隊員からある報告があってな。私も急遽そこへ向かう事になった」
「ええと、じゃあ……」
「うん。しばらくソワレ殿達と同行する事になるな!」
……どうやら私たちの旅は、まだまだ騒がしい物になりそうだ。
ソワレさんとシャリテちゃんがのんびり何してたのかは、ご想像にお任せします。




