それぞれの事情
しばらくの間、お互いがお互いの胸の内を探っている様な、厭な沈黙が落ちる。其れを破ったのは、鳴海だった。
「馬鹿だな」
「うん。よく知ってる」
半ば、本音を込めたその声は言葉に反して優しかった。そして鳴海は軽く関口の肩と背を叩く。
「この先、もう笠原なんかと関わるなよ。お前は伊織にとっての理想の妻になればいい。それが女の幸せだろう」
「それは嫌。絶対に」
「何でだよ。あいつが嫌いか」
「ううん」
「なら」
即答に鳴海が意外そうな瞳を向ける。
「みーこは知ってる筈」
「何をだ?」
問われて関口は鳴海の顔を見つめる。一瞬、言葉に詰まったが、すぐに重い溜息と共に、言葉を吐き出した。
「私は、差配さんが嫌いじゃないよ」
「そうか」
「世の中で、もう何の役にも立てないと思っていた私に、居場所をくれた人だもん」
「ならっ」
「でも!」
また声が途切れる。
「でも、差配さんは厭だな」
「何でだ?」
明朗快活な関口らしくも無い歯切れの悪さに鳴海が怪訝な顔をするのと、意を決した様に、関口が口を開くのとはほぼ同時だった。
「だって、差配さんは私なんか好きじゃないもの」
言い切って酒を煽る。その姿は自暴自棄になっている様にも見えた。
「伊織は愛してない女を婚約者にはしないぞ」
「そうね。まあ、確かにあの人は理性では私を好きかも知れないけど」
「理性って」
「でも、彼の感情が求めてるのは井原美桜よ。私はその代用品」
「糖子、それは……」
「ううん、代用品にもなれていない。だって、彼は今も美桜だけを抱いてるんだもの」
その瞳に宿るのは嫉妬の光ではない。だが冷めた眼差しだと鳴海は思った。たかが十代の少女の瞳ではない。
「それを知ってるみーこが、それでも私に良妻賢母になれって言うの?」
搾り出された言葉には、いつもの軽快さも切れ味も無く、鳴海は安易に話題を出した事を後悔した。
関口は藤堂と美桜の事を、初めから知っていた。その上で藤堂と同居していた。だから鳴海は勘違いをしていたのだ。関口は美桜の存在も含め、藤堂を受け入れたのだと。
「気付かない振りは出来ねえのか」
「出来ない」
即答で返す関口を、鈍感な自分を、鳴海は哂うしか出来なかった。
「馬鹿だな」
「そうよ。私は馬鹿なの」
前を見据え、関口は白く容良い眉間に皺を寄せる。その瞳に宿るのは頑固で一途な、強い意志の光。
「あの時、俺がお前を、引き取っていれば良かったのかな」
いつから自分は関口に対して、こんなに過保護になったのか。諦めにも似た慈愛の視線が鳴海から関口に注がれる。
「俺が、お前を娶っていれば」
「薬で腐りかけた子供の世話は、みーこには荷が重かったでしょう」
少しの後悔と共に言った言葉は、紛れも無く、本音だった。しかし、答えた関口は、もういつもの喰えない少女の顔をしていた。
「それに警察にバレたら不味いしね」
関口の言葉に鳴海は黙るしかなかった。警察は署員の素行にかなり五月蠅い。身元不明の麻薬中毒患者を婚約者にしている。なんて事が知れたら確かに多少どころではなく問題になりかねない。
「今、私がこうなってるのは運命よ」
「そうか」
「うん。そう」
笑ってそう云える関口は強い。
だがその強さが、酷く脆いものであると、少なくとも鳴海と藤堂だけは気付いている。藤堂が辞めたいと思えば、すぐにでも終わってしまう関係について、関口はいつだって怯えている。
それを表に出さないのは強さじゃない。単に歪んだ自尊心の成せる業だ。
弱いが故に、どこまでも強くありつづけなければならなかった少女。それが関口糖子の正体なのだ。
「少し、話しすぎたかな」
いつも何事もそつなくこなし、感情を表に出す事の無い関口が、醜態を晒したとでも思っているのか、ほんの少し赤い顔で、ばつが悪そうに笑った。
その笑みに考えるより先に鳴海の身体が動く。
「馬鹿が」
その痩せた肩を、鳴海は黙って抱き寄せた。
「そういえば、鳴海様」
鳴海の腕の中、不意に関口の口調が変わる。
「何だよ」
「言い忘れてたけど」
「だから何だ?」
不審気な鳴海とは対照的に、関口は愉しげだ。
「此処で私を抱いたら一二円貰うわよ」
「高っ。何だ、また値上がりしやがったのか」
「人気者ですから」
明るい微笑で顔を綻ばせ、今までの会話を誤魔化すように関口は鳴海に話し掛けた。
「そんなに高くて客が付くのかよ」
「馬鹿ね、逆よ。此処の女は商品なの。客が付くから高いんじゃない」
告げる内容とは裏腹に、鳴海を覗き込む表情は、悪戯を思いついた子供の様にあどけない。
「というわけでどうする?」
「どうするって」
「此処でする? 家に来る?」
「伊織は?」
「今日は居ない」
家でなら格安だよ。囁く関口に悩んだのは、ほんの少しの間だ。こんな話題の後でどうかとも思うが、鳴海は今、確かに目の前の女を欲していた。
「よし、行こう」
「そう。じゃ、早く行きましょう」
答えと共に立ち上がり、関口は仕事用の紅い衣を脱ぎだした。その後に袖を通すのは、鳴海も見慣れた闇色の着流し。
「相変わらずそんな服着てるのか?」
「そんな服って言い方はないんじゃない?」
「動き辛そうだ」
「そうでもないよ。慣れれば楽だし、何より好きなんだ此れ」
作り物めいた整った容貌に、聡明さと女には似合わない程の精悍さを秘めた少女。身体を切り売りしてはいるが、知人は誰も、彼女をふしだらだとも、汚れているとも思わない。
「明日は非番なんでしょ。今日は家に泊まって、一緒にお坊ちゃまに会いに行く?」
「それは厭だな」
「相変わらず強情だね。みーこは」
「おう、強情さと意地は刑事の心意気だぜ」
「馬っ鹿みたい」
「そうか」
「まぁ、私はそんなところも好きだけどね」
笑いながら腕をとる姿は酷く無邪気で、鳴海は不意に、関口をこのまま自分一人の手の中に収めてしまいたい欲求にかられる。
だが、『関口糖子』という存在を鳴海はあの日、藤堂伊織と分け合ったのだ。今更勝手に自分一人だけのものにしてしまう訳にはいかなかった。
「あれは……」
街に充満する、冬だというのに立ち上る汚水の腐臭と、むせ返るほどの酒の匂い。それに顰めた瞳が捉えたのは、よく知る女と知らない男。
「関口……」
聖は二人に見つからない様に、条件反射のように急いで物陰に隠れた。目の前を通るのは、恰幅の良い長身の男とその腕に甘えてぶら下がる関口。途端に、耳を引き千切らんばかりの冷風が吹いたような気がして、痛いくらいに寒さに全身が震えた。
聖の知る関口糖子は変わり者だったが、高潔でもあった。
憧憬もしくは神聖。昔、聖はそんな瞳で関口を見ていた。憧れの対象であった兄、義文と同じ位の手の届かない高みに関口もいた筈だった。
「こんな」
こんな、男に媚びる態度をとる関口を聖は知らない。
自分の知らない何処かで、自分の知らない何があったと云うのだろうか。彼女の生き方を変える何が。
何の話をしているのか、二人は楽しそうに顔を寄せている。会話までは聞こえなかったが、関口の目元が微かに赤く染まっているのが見えた。
それは単に街の灯りの所為だけなのかもしれなかったが、それでも其処に特別な意味を見出してしまい、聖は二人を見続けることが出来なかった。
どれくらい其処へ立ち尽くしていたのか。
「遊ぼうよ、お兄ちゃん」
突然、どこからか現れた少女が聖に声を掛けてきた。若い娼婦。関口と同じ位だろうか。彼女の様に店付きではないのだろう。どこか薄汚い格好をしていたが、色白で意外に顔立ちは悪くない。
「幾らだ」
「そうね……五円くれる?」
はにかみながら少女が要求した金額。それはこの街の相場を考えれば決して安くはないものだったが、聖にとっては端金だ。考えるより先に言葉が出ていた。
「ああ、いいだろう」
その夜。
聖は初めて金で女を買った。




