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螺旋迷宮 標的はひとり  作者: 葉月
13/13

単独捜査 3

「お食事、直ぐにご用意出来ますから」

楽しげに笑いながら料理を運ぶ少女の姿に、聖は頬を緩める。

「ああ。急がなくてもいいよ」

特に何をされるではなくとも、常に緊張を強いられる軟禁生活の中で、少女の存在は聖にとって数少ない、癒しだった。

「はい。ありがとうございます」

手を動かしながらも、聖を見て笑みを浮かべる少女。

『君の事を教えてくれ』

『それで少しでも気が紛れるなら』

一日中部屋に閉じ込められる生活の中、聖は唯一自分と接触できる少女から、彼女自身の身の上話を聞きだしていた。彼女の過去は珍しいものではなかった。『その辺に、幾らでも転がっている悲劇の一つ』関口あたりならそう言って、顔色一つ変えずに話を聞くだろう。

だが、『辛い事を我慢して懸命に生きてる健気な少女』として、聖の目には少女は特別な存在に映っていった。

「出来ましたよ」

「ああ」

 食事の支度を終え、少女は笑顔で聖を呼ぶ。

「美味そうだ」

「きっと美味しいですよ」

 物音一つ立てずに一連の作業を終えた少女。何の気なしに、その姿を見守っていた聖はふと、彼女は育ちの良いお嬢様なのではないかと思った。

 彼女は質素な服を着ていても、時折見せる表情や仕草に気品が感じられる時がある。以前誰かが、本当に育ちの良い人間はどんな格好をしても気品に溢れて見えるものだと言っていた。そして無論、その逆もあると。

 聖は今、その言葉を思い出していた。

 聖の知る人物の中で仮に例えるなら、関口は警戒心の強い野良猫。この少女は血統書付きの家猫のようだ。

 つい、手を伸ばしたのは無意識だった。少女の柔らかな身体を抱え込む。

「俺は馬鹿かな」

 此処は敵の懐の中で聖は囚われの身の上だ。馴れ合いは命取り。そんな事は分かっている。だが、今聖の腕の中にはあたたかな温もりがある。こんなに安心するのは本当に久しぶりなのだ。少し首を落として少女の髪に口づけすると甘い香りが鼻腔を擽る。

「名前を聞いてもいいかな」

「雪……」

「何?」

「雪子といいます」

少女は聖と視線を合わせないまま、そう小さく答えた。

「雪子か。いい名だ」

 もうすでに身体に馴染んでしまった少女の香りに包まれながら、聖は少女を抱く腕に力を込めた。外は小雪がちらついていたが、部屋の中は不思議なくらい暖かかった。


  ★


『匿名電話があった』

関口がそれを聞かされたのは、聖が消えてから三日目の朝だった。

「聖の居場所を知っている、か」

「今日午後一時に指定の場所に来いって?」

 事務所で話し合うのは紫条と関口だけだ。下手に動かれたり、公言されては堪らないと、美桜と凛は呼んでいない。

「信頼できるのかな」

「どうだろうな。だが」

「今はどんなに儚い蜘蛛の糸でも掴みたい?」

「ああ」

 紫条の言葉は関口の想いでもある。

「俺が行ってもいいが……」

「相手の分からない電話の指示に初めから背くのは良い判断じゃないわよね。いいわ、私がいく」

「すまない。頼む」

どの道、二人共断るという選択肢はなかったのだ。時間も無い。決断は素早かった。

「さて。鬼が出るか蛇が出るか。はたまた導きの天使が現れるか」

「楽しみだな」


  ★


 電話で示された逢引の場所は、街中にあるにしてはかなり広い公園。大きくて綺麗な池もある。だが、平日の昼さがり雪が降りそうな寒さの所為もあるのか、公園に人影はなかった。

 今日の関口の服装は洋服だ。細身の肢体を動き易い様に男性用のスーツで包んだ彼女は、普段よりも数段、優美に見えた。煙草をくわえて、寒さを誤魔化す様に足踏みをすると、地を埋めつくす枯れた落ち葉が、かさかさと微かな音を立てる。関口はその音に煩わしそうに眉を顰めた。

「何で貴方が此処に居るんですか、凛さん」

 勿論イラついているのは音の所為だけではない。流石に今日は行動を共に出来ないと同行を断った筈の凛。その彼女が何故か今、関口の目の前に居る。

「聖さんが無事に見つかるまで、同行するといいませんでしたか?」

「今日は危ないから駄目だと言ったはずです」

「ええ、ですから」

 凛が自分の隣に視線を向けた。視線の先に居るのは、如月和哉。

「今日は用心棒に来てもらいました」

「用心棒ってね」

 足手まといが二人に増えただけだと言いたげに、頭を抱える関口を前に、凛と和哉は顔を見合わせて楽しそうに笑いあっている。

「とにかく、帰って……」

 帰ってください。そう言おうとした言葉が途中で止まる。

「関口さん?」

「黙って」

 関口の五感がピンと張った。不穏な気配がする。

「来たかな」

 気配に気付くと同時に、関口は凛と和哉に隠れるように言い残し、足を公園の奥へ向けた。相手の力量が分からない場合、対峙する時の地の利を生かす事は重要だ。池を背にした今の場所は、決して関口に味方しない。

「それにしても、紫条にしては随分後手後手よね」

 手際の悪さを少しだけ紫条に転換してちょっと愚痴を言う。

「まあ、ヤキが回ったって事なのかな」

 あからさまな殺気に間違いはないと思ったが、念のために、道端で一度足を止めた。少し草臥れた靴の紐を態々結び直す。立ち止まっている間にも、木立の間から気配は近づいてくる。

「やっぱり気のせいじゃないか」

 追跡者はかなり巧妙だ。普通の人間だったなら気付きもしないだろう。関口も今は背中に微かに視線を感じるだけだ。だが、人の気配。自分に向けられた視線。そういうものに関口は敏感だった。

「さて、どうしよう」

 迎え撃ちたいところだが、まだ近くにいる凛と和哉の存在が関口を迷わせる。

「しょうがない」

 かなり近づいた気配に関口は溜息を吐くと、深呼吸を二回して、一気に走り出した。

「勝負っ」

 全力で入り組んだ木立の中を進む。出来る限りジグザグに、背後から死角になるような樹を選びながら。そのまま走り続けていると、狙い通りに追跡者は関口を見失い、やがて、彼女を追い越していった。

「成功かな」

 少しだけ息を乱しながら、周囲を見渡し充分に自分が凛達から離れたことを確認し、関口は男を追う。

「見つけた。おじさま」

 男は直ぐに見つかった。当然だ。基本的に関口も追う方が本職なのだから。

「呼び出しておきながら、何故私を尾行したの」

「教えて欲しいか」

「なっ!」

 言葉と同時に男のナイフが関口を襲う。一切の予備動作の無い行動。技術の欠片もないその直線的な攻撃は、だが、すさまじく速かった。

「余計な事はするなと言っただろう。探偵さん」

 一歩を引いて避けようとした関口の動きは、男を超える事は出来ず、ナイフは肩から肘までを、斜めに切り裂いた。服の間からは鮮血が流れ出し、その奥にさくりと開かれた傷が覗く。だが、関口は表情を変えない。

「貴方が笠原聖を攫ったの? ここに私を呼んだのは、殺すのが目的なの?」

 的確に問いを繰り返すその冷静さに、寧ろ動揺したのは男だった。

「質問は受け付けない。ただ忠告を素直に聞けばいい。痛い目にあいたくはないだろう」

「あいにくだけど、探偵は質問するのが仕事なんだ」

「残念だが答える義理はないな。あんたはただ、俺の言う事を聞けば良い」

「そう。なら、私は私のやり方で聞くまでよっ」

「なっ」

 言葉と同時に今度は関口が動き、目前に立つ男の腹を蹴りあげた。素早い動作からは想像で出来ない程の、重い衝撃が男を襲う。思わず腹を抱え、前のめりになった男。瞬間後頭部がむき出しになり、人間の急所の一つが関口の目の前に晒された。その一瞬を見逃さずに、一気に手刀を叩きこむ。

「なっ」

 それだけで、風に薙ぎ倒された草木の様に、どさりと男が倒れこんだ。

「んぐ……」

 動いた所為で増した出血。それで身を赤く染めながら、関口はただ男を見下ろしている。

「俺を殺すのか?」

「そんな事しないわ。そんな事する位なら今の一撃でやってたし」

「大変な自信だな」

「殺すだけなら簡単だもん。手加減は難しいよ」

「まるで人殺しをした事があるみたいな言い方だな。お譲ちゃん」

「……」

 男の問いにすぐに答えなかったのは、つい考えてしまったからだ。本当の事を言えば、脅しになるだろうかと。気を抜くと相手を殺すように、無意識に身体が動いてしまうと。

「想像に任せる」

 関口は明確な答えは何も言わなかった。

「貴様、何者……」

 だが言葉にはされなかったが、静かに自分を見下ろす関口の態度に何かを感じたのだろう。怯えた声で問うた男の言葉が途中で切れた。

「動かないで」

 膝を折り、地に両手ついていた男に視線を合わせて、関口が笑い、そのまま途惑う男の首に何かを巻きつけた始めた。

「何を……」

 その声は出した男自身も後悔する程に、みっともなく弱々しいものだった。

「じっとしててね。怪我したくなければ」

 物騒な言葉とは裏腹に、穏やかな声で、優しげな仕草で、愛しい恋人の首に装飾品を彩るように、笑みさえ浮かべて、関口は作業を続ける。

「これは…」

 やがて、関口が作業を終えて立ち上がる。男は自分の首に手をやった。

「針金……」

「正解」

男の首の肉に食い込んでいるのは、細い、細い鋼の糸。

「糸のように細い針金は、締めようと思えば息ができない位に首を締める事も可能だし、思い切り力を籠めれば怪我した女の力でも、簡単に頸動脈をぶち切る事が出来る」

「なっ」

「銃のような無粋な音を立てずに人を殺せる。例えば真っ昼間の公園の中で、誰にも気付かれず死体をつくらなきゃならない時は凄く便利」

 淡々と告げる声に、首筋に感じる冷たい刺激に、男の身体が震え始める。

「教えて、貴方は何者?」

 死にたくなければ。声に出さない関口の言葉が聞こえたのか、男は必死で首を盾に振る。

「俺は探偵だ」

「あら、同業者?」

「頼まれただけなんだ」

「何を?」

「それは……」

 言い澱む男。

「誰に何を?」

「被害者家族だ。探偵の口を塞げと」

「何故?」

「……下手に騒ぎ立ててこの事が世間に知れたら……」

 暫しの後に告げられた言葉。命を掛けても依頼人に尽くそうと云うのか。それとも金に殉ずるつもりか。関口は浅はかな考えを笑いながら男の脇腹に蹴りを入れる。

「嘘はやめて」

「嘘じゃない」

「だってそんなの今更だわ。世間はもう知ってる」

「それは」

「知られたくなかったなら、探偵の口を塞ぐより先に、雑誌記者の筆を折るべきだったんじゃない」

 言葉と同時にもう一度、さっきより強い蹴りを入れる。

「っ」

 一瞬、男が息を止める気配があった。

「本当は?」

「五月蠅い」

「ねえ、おじさん。私のこと知ってた?」

「知らんっ」

「本当に?。だって大抵の人は初対面で私の目を見ると驚くけど、おじさんは驚かなかったよね」

「それは」

「おじさんにも喋りたくない事情があるのかもしれないけど、どうせ喋るなら早い方がいいと思うよ。無駄に苦しい思いはしたくないでしょ。私のやり方を知ってるなら尚の事」

「……」

 瞳に怯えの色を宿しながらも無言でいる男に、関口はしょうがないなと息を吐いた。

「もういいわ。さよなら、おじ様」

 関口は針金を握る手に力を込めた。男はじっと関口を見上げていた。怯えた小動物の目を向けながら。

「待て、喋るっ」

「これ以上の嘘は厭よ」

「頼まれたんだ。関口糖子を殺さない程度に傷付けて、コレを渡せと」

 差し出されたのは一通の封筒。告げられたのは知らない名前。無論、被害者家族などではない。

「ふーん」

 関口は面白くなさそうに呟くと、何の戸惑いも無く軽く針金を引いた。

「ひぃっ」

 男が怯えた様に身体を退き、目を閉じる。しかし、いつまでも待っても覚悟した痛みは身体に訪れない。恐る恐る目を開けたすぐ先、手元に回収した針金を手に笑う関口がいた。男の首にはもう、冷たい感触はない。

「ありがとう。おじさま」

「あんた、いったい」

「お待たせ、行こうか。凛さんをお願いね」

「……ああ」

 関口はもう話は終わったとばかりに、呆然と佇む男のを振り返る事もなく歩き出す。そして暫く歩くと少し前方に声を掛けた。それに答えたのは遠くで隠れている筈の和哉。

「全く、本当に言う事を聞かないお嬢様ね」

 凛と和哉がこの場に来ていたのには、勿論気付いていた。だがさすがにあの場面で邪魔はしないだろうと判断し、放っておいたのだ。

「ああでも、流石に刺激が強かったかな」

 凛は和哉の胸にぐったりと身を任せている。どうやら気絶してしまっているようだ。どこまで見ていたのかは知らないが、好奇心旺盛なお嬢様は起きたら少々面倒くさい。丁度良いからと凛をそのまま和哉に背負わせて、関口は足早に公園を去った。

「御免ね。汚いもの見せちゃって」

「いや……大丈夫なんですか?」

「気にしないで、かすり傷だから」

「かすり傷って」

 ざっくりと割れた二の腕から溢れる鮮血は、全く止まる気配はない。心なしか顔色も悪い。

「病院に」

「必要ない」

「だがっ」

 傷は素人の和哉から見ても、早く医者にかからなければ危険そうに見えた。だが関口は、とりあえずハンカチで傷を縛り、応急処置をすると、傷と関口の発言の両方に驚き言葉を失った和哉を安心されるように微笑んだ。そして、これからの行き先を告げる。

「確かめたいことがあるの。私は事務所に戻るわ。貴方はお嬢様を休ませてあげて」

「だが」

「私は大丈夫。大丈夫だから」

 和哉は不安そうにしていたが、このまま此処にいても自分に出来る事は無いと悟ったのか、やはり未だ目を覚まさない凛が心配だったのか、後ろ髪を引かれる様な瞳をしながらも帰路についた。

「さ、帰るか。でも、流石にちょっとやばいかな」

 和哉に言った言葉はもちろん嘘だった。傷はそこまで軽くない。

「ちょっと泣きそう」

 だからその気配を感じた時、関口は心から安堵した。

「ドジを踏んだな」

 よく知る気配が二つ近づいてくる。

「美桜、差配さん」

 咄嗟に関口の口から零れたのは、今まで決して言わなかった弱音。

「助けて」

「馬鹿が」

「あらあら随分やられたのね、珍しい。こんな傷で動いちゃ駄目じゃない糖子ちゃん」

「だってぇ~」

 二人共言葉は容赦無いが、声の響きは優しい。

「立ってるのも辛いんでしょ」

 柔らかな美桜の声に引き寄せられ、暖かい胸に包まれる。関口は落としかけた視線をあげた。

「気絶してしまえばいい。下手に意識があると無駄に血が流れるし辛いぞ」「無茶いうな。意識的に気絶なんて出来るかっ」

「とりあえず運ぶぞ。紫条には僕が話を通す」

「は~い。よろしく」

 軽口を交わしながらも、一刻の猶予もないと見てとったのだろう。藤堂がほとんど力の入っていない関口の身体を、強引に抱えあげる。止まる事無く流れ続ける血が藤堂のコートを赤く染めだした。それが昔、美桜から贈られた、藤堂のお気に入りだと知る関口が無意識に身体を離そうとする。

「糖子ちゃんの馬鹿っ」

「しがみついてろ」

 関口の行動の真意を読み取った二人から、同時に怒声があがる。それが何だか嬉しくて、関口は口元を笑みの形に歪めて、今度こそ藤堂に全体重を預けた。


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