番外編:笑顔の君と
八つの誕生日を迎えた翌朝、カテリーナは父に呼び出されて書斎へと向かった。
「お父様、お呼びですか」
あどけない笑顔で入ってきたカテリーナに、父親はそれ以上の笑顔を見せて椅子から立ち上がった。しゃがみ込み目線を合わせ、鮮やかなオレンジ色の髪を優しく撫でる。
「カテリーナ。素敵なお話を持ち掛けられてね……陛下にはご子息がいらっしゃるんだが」
「ごしそく?」
「ああ、男の子の事だよ。年はお前と同じくらいだ」
同じ年頃の子供と聞いてカテリーナは興味津々といった風に瞳を輝かせる。普段あまり子供と接する機会が無いので、余計に気になったのだろう。
父親はそんなカテリーナに頬を緩ませつつ、話を続ける。
「それでだね、彼の話相手をお前に頼みたいと陛下直々にお話があったんだよ。どうだい? やれそうかい?」
幼いカテリーナの頭の中では「陛下はすごく偉い人」という認識がぼんやりある程度で、その陛下の息子がどのような立場で、どのような身分なのかはあまり理解していない。ただ、同じ年頃の子と会える、もしかしたら遊べるかもしれないという期待が大きかった。
「はい、お父様!」
満面の笑みを浮かべそう返事をすると、カテリーナは楽しそうにしばらくその場でくるくると踊り続けていた。
*****
父に手を引かれたどり着いた部屋の扉が開かれると、窓から差し込む光が眩しくて思わず目をつむった。そろそろと瞼を開けると目の前にはひとりの男の子。落ち着いた色の金髪が上品で、表情もどこか大人しかった。
「カテリーナ、この方がマティアス様だよ」
父が少年を紹介し、カテリーナの背中を軽く支えるように押して対面させる。マティアスと呼ばれた少年は淡く微笑み、カテリーナに手を差し出した。
「よろしく、カテリーナ」
「……よろしくお願いします、マティアス様」
マティアスの手にカテリーナの手が重ねられ、握手をする。その間ずっとカテリーナはマティアスから目を逸らさずに見つめていた。それに気付いた父親が慌てて娘を窘める。
「こら! そんなにじろじろと不躾に……」
「構いませんよ。えっと……二人で話してみたいんですが……」
王子にそう言われては下がるしかなく、父親はもう一度カテリーナに「無礼が無いように」と言って聞かせた後、部屋を出ていった。無駄に広い空間に、マティアスとカテリーナだけが残される。
マティアスは笑顔でカテリーナに向き合い、小さく首を傾けた。
「さて、何を話そうひゃ!?」
言い終わらない内にカテリーナの小さな指がマティアスの両頬をぐーっと引っ張った。不意打ちを喰らってマティアスの目が点になる。
「変な顔。もっとちゃんと笑えばいいのに」
「へ?」
「笑ってないのに笑ってるの、変です」
ぎゅうぎゅう頬を引っ張られて伸ばされる。自分よりもいくつか幼い少女の指を、マティアスは拒めなかった。
「……カテリーナ」
「はい?」
「君、すごいね」
ぽかんと口を開けて呟くマティアスに、カテリーナは首を傾げた。
「何がですか?」
「……ううん、なんでもない」
また微笑めば、カテリーナが眉をひそめる。彼の笑顔は綺麗過ぎたのだ。柔らかく、上品で、優しい笑顔。完璧なはずのその表情はカテリーナには作り物のように見えた。まるで、笑顔でいるしかできない人形のように。
指が離れ、幾分痺れが残る頬を撫でながら、マティアスは笑顔を崩さなかった。
「癖なんだ。直せない」
「直そうとしてないからではないですか?」
あまりに直球に返され、マティアスは再び口を開けて固まる。カテリーナは真っ直ぐに、真剣な顔で見つめていた。
「私、泣き虫を直しなさいとお母様に言われて、でもやっぱりすぐに泣いちゃって、直せないってお母様に言いました。お母様は「直そうとしないから直せないんです」って怒って……」
たどたどしい喋り方で続けるも、母親に怒られた時の事を思い出したのか急に黙り込んで表情を曇らせる。泣くかもしれないとマティアスは身構えるが、予想に反してカテリーナは涙ぐみもしなかった。嫌な思い出を振り払うように頭を振り、強い瞳でマティアスを射抜く。
「私、悔しかったから頑張りました。怒られても、転んでも、怖くても、泣かないように頑張りました」
頑張った事を心底嬉しそうに話すカテリーナから、マティアスも目が離せずにいた。人は楽しい時や嬉しい時、こんなに綺麗に笑うのだと、胸が熱くなる。
「だから私は今泣き虫じゃありません。マティアス様も、ちゃんと笑えるようになりますよ」
先程頬を摘んでいた小さな手が、マティアスの手をとる。柔らかく温かいその手の平が、自分よりずっと大きく感じられた。
*****
週に三度、カテリーナはマティアスに会いに来る。鮮やかなオレンジ色の髪を揺らし、息を弾ませて扉を開ける彼女の存在が、マティアスは待ち遠しかった。
最近身の回りで起こった事、昔の思い出、自分の事。お互いに色々話し合う内にマティアスはどんどんカテリーナに惹かれていく。
カテリーナは芯が強く、明るくて素直で、くるくる変わる表情を見るのがマティアスは好きだった。ふと見上げた空や風に運ばれてきた花弁にさえ関心を強く示すカテリーナの感性を、羨ましく思う瞬間もある。日常の些細な風景に何かを見出だせる、のびやかな心が自分も欲しいと。
「マティアス様は何色が好きですか?」
「え? ……さあ……? 特には無いけど。カテリーナは?」
「私は赤も青も黄色も緑もみーんな好きです! いっぱいの色のお花があったら綺麗だろうなー」
カテリーナのその言葉に花を用意してみたりして。喜ぶ彼女の顔が見たくて、一生懸命綺麗に見えるように包んでみたりして。受け取ったカテリーナがはしゃぐ姿に自分も嬉しくなったりして。
世継ぎとして生まれたマティアスは物心ついた時から大人に囲まれて育ち、父親である王からは自分が次代の王だという自覚を持ち、それ相応の振る舞いをしろと言い聞かせられてきた。それが一体どういう事なのか、どうすればいいのかわからなかった幼き日のマティアスは、そばにいた大人達の振る舞いを見て覚える事にした。結果、毅然とした態度や優雅な仕種、気品のある雰囲気を得られたものの、常に作った笑顔を貼付けたような表情も出来上がってしまった。王子として品格を落とさない笑顔。そんな顔を作り続けたマティアスは本当の笑顔が思い出せなくなっていた。
見抜いたのはカテリーナが初めてだ。笑顔や立ち居振る舞いを褒められてきたマティアスにとって、その笑顔を「変」だと言われた事は青天のへきれきだった。
「マティアス様、弟がいるんですね」
「うん。まだ小さくて可愛いんだ。僕は父上に似ているけど、ノエルは母上に似てると思う」
「……マティアス様、今とっても優しい顔してる」
笑顔のカテリーナに言われ、マティアスは少し頬を赤くする。
「……そう?」
「はい。今までで一番、さっきの顔が好きです」
幼さゆえにすんなりと出てきた「好き」だろうが、マティアスにとってはそうもいかない。ますます顔を赤くして、それをカテリーナに遠慮無く笑われた。
その時、部屋の外から扉を叩かれた。次いで男性の声が聞こえてくる。
「マティアス殿下、入ってもよろしいですかな?」
声の主がわかったのか、マティアスは微妙にぎこちなさを帯びる。しかしすぐにあの作り物のような笑顔を浮かべ、男性に応えた。
「どうぞ、リード伯爵」
失礼致します、と扉を開けたのは五十も半ばの眼鏡をかけた男性だった。その顔に浮かべられた笑みを見てカテリーナは少し驚く。まるで中身の無い形だけの笑顔は、マティアスのそれによく似ていた。
「そちらのお嬢さんがガスト公の?」
視線を向けられてカテリーナは慌てて頭を下げる。
「リード伯爵、何かご用ですか?」
マティアスは伯爵とカテリーナの間に立ち、値踏みするような彼の視線から庇おうとする。
「いえいえ、陛下にお会いしに参ったのですが、せっかくですので殿下にもご挨拶をと思いまして」
目が、一番作り物のようだとカテリーナは思った。光を灯さず曇ったガラスのような無機質な目が。
マティアスにべらべらと話し掛ける彼の態度はどこか気持ちが悪い。伯爵が話す内容はほとんどが過剰にマティアスを褒めたたえるものと、自分の自慢話だった。聞いていく内に段々カテリーナは腹が立ち始める。伯爵と、話を聞き続けるマティアスに。
「殿下のようなお世継ぎがいらっしゃれば、この国は安泰でしょうなあ。いや、溢れ出る気品さが違……」
「マティアス様の事なんて全然見てないくせに」
ずっと黙っていたカテリーナに会話を遮られ、伯爵は一瞬ぽかんとする。
「お嬢さん、何を……」
「マティアス様が何を好きか、何が苦手か、知ってますか?」
マティアスの隣に並び、自分よりもずっと大きな相手を見上げた。腰に手を当て、目を吊り上げて睨み付ける。
「さっきからずーっとマティアス様の事褒めてるけど、あんなのマティアス様の事を知らなくても言える事だわ。おじ様がマティアス様をちゃんと見てないの、わかります。だからマティアス様は笑えなくなってしまったのよ」
たかだか八つの子供に説教を喰らうと思っていなかった伯爵は、怒る事も忘れてただただカテリーナを見つめる。マティアスも、カテリーナの真っ直ぐさに息を止めていた。
「子供を笑わせてあげるのは大人の役目だって、お父様が言ってたもの! そうやって子供は笑い方を覚えるんだって。おじ様がそうやって変な顔で笑うのがいけないんです!」
きっぱりと言い切ったその言葉にマティアスの目が丸くなる。それから、不意に吹き出した。
今度はカテリーナが目を丸くする番だった。肩を震わせて口許を手で隠すマティアスの表情を見たくて、下から覗き込む。
「ホント、君って……すごい」
手を外して見せてくれた顔は、呆れたように眉を下げていたけれど、ちゃんと笑っていた。作り物なんかではない、マティアスの心からの笑顔だった。
*****
「リード伯が顔を真っ赤にして怒っていたぞ。あれは可笑しかった、笑いを堪えるのに苦労した」
父のその言葉に、父も伯爵には手を焼いていたのかもしれないとマティアスは直感的に悟る。
マティアスが上手く笑えなくなったのは伯爵のせいだけではない。周りからのプレッシャーに押し潰されてきたマティアス自身の弱さのせいもある。けれど今は不思議と押し返せるような気がしていた。それだけの強さを、カテリーナがくれたのだ。
彼女の笑顔を思い、また顔が自然と綻ぶ。
「……いい顔をするようになったな、マティアス」
普段厳格な父の、思いの外優しい声。自分の事を気にかけてくれていたのかと思うと、胸の奥があたたかくなった。
「カテリーナと会えたからです、父上」
次にカテリーナと会えたら何を話そうか。美味しい紅茶とお菓子を用意して、色とりどりの花を部屋に飾って、笑顔が素敵なあの子の為に。
とびきりの笑顔で迎えようと、マティアスは嬉しそうに微笑んだ。




