55話目:ユニフィスの空
柔らかな風がそよぎ、部屋の中に新鮮な空気が送り込まれる。書類が飛ばないように指で押さえながら、セレネディアは外の景色に目を移した。
「姫、失礼致します」
「……どうぞ」
フォルスが扉を開け、きびきびとした動作で部屋へと入ってきた。机の上に追加の書類を置き、眼鏡を押し上げる。
「……何か話したい事があるのね」
「はい。……先程ラゼリアから手紙が届きました。先日の書状に対する返事です」
「そう。何て書いてあったの?」
窓の外を向いたまま、セレネディアは振り返らない。その後ろ姿は、彼女の身代わりを務めたラクチェアにどこか似ていた。
「……ラゼリア王は、セレネディア様とノエル王子の結婚を断るそうです」
「……そう……」
驚かなかったのは、予感がしていたからかもしれない。自分の望む結果が得られないと。あるいは、部屋に閉じ込めてあるノエルが本当はもうとっくに脱出している事に、気付いていたのかもしれない。
セレネディアの小さな肩が震えているのを、フォルスは見逃さなかった。
「しばらく……独りにしてくれるかしら」
「御心のままに」
扉を閉める寸前、床の上に泣き崩れるセレネディアの姿が目に入った。
フォルスは王族に対する裏切りを働いた。その事が心苦しくはあったが、後悔はしていない。
ラクチェアとノエルがどれだけ互いを想い合っているのかを知っていたし、二人を応援したい気持ちがあった。しかしそれ以上に、セレネディアの行く末を案じてもいたのだ。
誰かの想いを無理矢理縛り従わせるやり方では、きっと幸せになれない。だからこそフォルスは、ノエルの逃亡を手伝った。諦めてほしくて。
(……後悔はしていない。けれど……ちゃんと向き合って伝えるべきだったかな……)
セレネディアと正面から向き合っていたら、何かが変わっていただろうか。
空の青さが今は眩しくて、フォルスは静かに瞼を閉じた。
*****
少し後の事。ラゼリア王がセレネディアからの話を断ったという事実は、コーネリアとカテリーナによって守護隊の元にも伝えられた。
「じゃあ副長達上手くいったんだ!」
「やったー!」
隊舎の中で歓声があがり、暗い空気が一掃される。カミルは複雑な気持ちでそれを見ていた。
「……後悔してんの? 手伝った事」
相棒の微妙な様子を感じたトビアスが、肩に手を回してコソッと尋ねる。心配そうな表情に、カミルは頭を振った。
「してない。してないけど……なんだろうな。上手く言えない」
「お前さあ、うーん……もっと周り見てみたら?」
「は? 周り?」
「そうそう。なんつーか……あれ、これって勧めていいのかな?」
要領を得ないトビアスの話に、カミルは首を傾げる。何が言いたいのかはわからないが、元気づけようとしている事は理解出来たので短く礼を言った。
そんな二人のそばにコーネリアが近付く。
「あのね、私……明日ラゼリアへ帰ろうと思うの」
「え……急だな」
「……お父様からも戻りなさいって言われてしまったし……ラゼリアでお姉様の事色々お手伝いしてさしあげたいの」
淋しげに笑うコーネリアはその細い手を二人の前に差し出した。別れの挨拶をしたかったらしい。
「元気で、コーネリア。また来てよ」
「ええ、トビアス。ありがとう」
トビアスと握手を交わした後、コーネリアはカミルにも手を差し出す。けれどカミルはどうしてかその手を握る事を躊躇してしまい、上げかけた腕を下ろした。
「……コーネリア。カミルに言っとく事ない?」
「え!?」
にやにやとトビアスに言われ、コーネリアは顔を赤くする。
「言っとく事……?」
「な、何でもないの! 何でも!」
キッと睨みつけられてもトビアスは何処吹く風。余計な事を言っておいて知らん顔だ。
気を取り直すようにコーネリアは咳ばらいをし、改めてカミルへと手を伸ばした。少し潤んだ瞳で、それでも目を逸らさずに。
「次に会った時に言うわ。今はまだ勝てる気がしないもの」
今度はカミルも躊躇しなかった。滑らかな指先に触れ、恐る恐るといった風に手を握る。
「……じゃあ、またな」
「……ええ」
別れの挨拶は次への約束。そう信じて、二人は同時に手を離した。
*****
はしゃぐ若者達を部屋の隅で見ていたゲレオンが、ふと思い立ったように椅子から立ち上がる。腰に提げていた剣を壁に立てかけ、誰に見られる事もなく部屋を出ていった。唯一その姿を視界に入れていたエディルが、慌てて後を追う。
「ゲレオン様。出て行かれるつもりですか」
呼び掛ける声に、ゲレオンは足を止めて振り返る。相変わらず深い闇のような瞳からは感情が窺えなかったが、唇は笑みの形を作っていた。
「アイリーンの墓参りに行ってくる」
ゲレオンが愛した女性の名。エディルも良く知っている。
「俺も行きます」
「隊長が不在にしてどうする。小娘もいないのに、お前またあいつらに怒られるぞ」
「ですが……」
「……別にそのままいなくなるなど誰も言ってないだろうが。少しは信用しろ」
苦笑いを浮かべるゲレオンに、エディルはポカンと口を開けた。彼は守護隊に居る事を嫌がっていたし、てっきりもう戻らないのかと思ったのだ。
「ガキ共に剣を教えると約束したからな。……それに、小娘からの信頼とやら、裏切れば俺の負けになるではないか。あんな山猿に負けるなど冗談じゃない」
そうは言うが、口調は楽しそうであり文句には聞こえない。彼なりに今の生活を気に入っているのだと、エディルは安心した。
「アイリーンが死んでから俺は一度も墓の前に立った事がない。……それは俺の弱さだ。だが、今なら素直に謝れそうだと思っているよ」
「ゲレオン様……」
「行ってくる」
片手を上げ背を向けたゲレオンに、エディルは深々と頭を下げた。
「……行ってらっしゃい」
記憶の中のアイリーンはいつも笑っていた。その笑顔が作り物だったとは、エディルにはどうしても思えない。
辛い事も悲しい事もあったに違いない。それでもきっと彼女は幸せだったのだ。ゲレオンと一緒に居られる日々が、何よりも宝物だったはずなのだ。
「……いつか、それに気付いてください。ゲレオン様」
いつか、謝罪ではなく感謝の言葉を。口の中でそう呟き、エディルは頭を上げた。




