50話目:毒の女
二の腕の辺りを短剣の切っ先が斬りつけた。一瞬の鋭い痛み。それはすぐに消え、入れ代わりにじわじわと緩やかな痛みが広がった。裂けた服の間から赤いものが見える。
(浅い! まだ動ける!)
ラクチェアに傷を負わせ、女は僅かだが油断していた。彼女が今まで相手にしてきた女性は、少し傷付ければすぐに戦意を喪失して大人しくなった。あるいは泣いて命乞いをした。
だから今度もそうなると心のどこかで思っていた。ラクチェアの剣に自らの得物を弾かれるまでは。
「場数を踏んでいるのは、お前だけじゃない!」
お返しとばかりに足の甲を踏み付け、渾身の頭突きを食らわせる。潰れたような悲鳴が聞こえた。
「こ……のクソアマ……っ!」
女が反撃を試みるよりも先に、ラクチェアは彼女を力任せに床へ押し倒した。その体に馬乗りになり、刃を首元に突き付ける。
「動くな。動いたら殺す」
本気で殺すつもりではなかったが、相手に恐怖を与えて動けなくさせるには本気と見せ掛けなければいけない。思惑通り、女は険しい表情のまま身動きしなくなった。
廊下が騒がしくなり、駆け付けた衛兵達が部屋の中へなだれ込んでくる。
「ラクチェア! 無事!?」
屈強な兵士達の向こう側からノエルの声が投げかけられる。どうやら衛兵を呼んだのはノエルらしい。
余裕のない、心配してくれているのがよくわかる呼び声に応えようと立ち上がり……そのままラクチェアは後ろに倒れた。衛兵に押さえ付けられた女が気持ちの悪い笑顔を見せる。
(何……)
後頭部が床に激突する寸前、誰かの腕が間に滑り込んでラクチェアを支えた。霞む視界にかろうじて映ったのは、何事かを叫ぶラゼリア王の顔。
そこでラクチェアは意識を手放し、瞼を閉じた。
*****
「おい! しっかりしろ! どうしたのだ!」
ラゼリア王の腕の中で、ラクチェアはぐったりとして動かない。その顔からは段々血の気が引いていき、肌が白く変化していく。
「ひゃははははは! ざまーみろバーカ!!」
両腕を衛兵に拘束され引きずられながら、気が狂ったように女は笑い続けている。
「まさか……。おい、そこに落ちている短剣の刃を調べろ! 毒が塗られているかもしれん!」
「ラクチェア!」
ノエルが衛兵を押し退けて部屋の中に入ってくる。ラクチェアの横に膝をつき、頬に手の平を添えた。
「父上! ラクチェアはどうしたんですか!? 毒って、どういう事ですか!?」
「あの女の短剣に毒が塗ってあったのかもしれん。いきなり倒れたのだ」
血が滲むラクチェアの腕を一瞥し、ラゼリア王は再び叫ぶ。
「医者と薬剤師を呼べ! 早く!」
その声に衛兵が何人か走り出す。
「ラクチェア……」
すっかり色をなくしたラクチェアの頬は冷たく、呼吸も弱々しい。腕を染める命の雫だけが赤く、それが流れる度にラクチェアが死に近付いているようでノエルは胸が締め付けられた。
「ラクチェア、しっかりして。……起きて、お願いだから」
動かない手を握り、震える声で呼び掛ける。冷たくなっていくのが怖くて、強く強く握りしめた。
「……ラクチェア?」
手が、握り返された。弱い力だったが、ノエルの想いに応えるように指が動く。
「ノエル、さま……」
ラクチェアの瞼がうっすらと開かれる。その目はノエルを捉え、力無く微笑んだ。
「……ラクチェア、頑張って。今お医者さんが来るから。もう少し、頑張って……!」
はい、と唇だけ動かしラクチェアはまた瞼を閉じる。けれど先程よりも呼吸は安定し、頬にも僅かに赤みが戻っていた。
少ししてから宮廷医師が駆け付け、ラクチェアは客室へと運ばれていった。気が付けば空は茜色に染まりかけていた。
もうすぐ、日が沈む。




